戦後の凪・二
斉の都・臨淄。
玉座の間には重い湿気がこもり、居並ぶ臣下たちの衣擦れの音だけが響いていた。
「まことか?」
玉座に座るのは斉王・田建。斉最後の王であり、即位してから三十七年、無策のまま秦の膨張を眺め続けてきた男である。
使者は長く馬を駆けさせてきたのだろう、額に浮いた汗を拭う間もなく、掠れた声を絞り出した。
「はい、大王様。田仲様率いる斉軍一万が秦将・李信の二万を撃退。李信は邯鄲へと撤退いたしました」
朝廷がどよめいた。
主戦派も、降伏派も、誰一人として田仲が秦に勝てるとは思っていなかったのだ。
使者から見て右に並ぶのは、田仲率いる主戦派の大臣たちである。彼らの表情はたちまち張り裂けんばかりの笑みに変わった。
跳ねて喜ぶ者、隣の同志と抱き合う者。誰かが「勝ったぞ!」と叫び、それが波紋のように広がっていく。
「や、やってくれましたな!」
「お、おお! 安平君が鎮西城に向かうとおっしゃった時は、遂にボケられたかと思ったが……よしっ!」
「大きい! 大きいですぞ、これは! はなから秦に勝てぬと諦めた者たちも、我らの同志になるやもしれません!」
斉王はその熱気に当てられたように、うんうんと頷きながら扇を止めた。
「ほう……ほう。田仲は、やるではないか」
その声には安堵が滲んでいた。国を滅ぼさずに済むかもしれない――そう思えるだけで、この王には十分だった。
一方、左に並ぶ降伏派の大臣たちは、水を打ったように黙り込んでいた。
当然だ。彼らは秦との戦いで田仲が戦死し、朝廷が降伏論一色で塗り固められると信じて疑わなかったのだから。
文官の田仲が、寄せ集めの素人一万を率いて秦に勝つ。誰がこの大番狂わせを予見できただろうか。
「さ……宰相様」
降伏派の大臣の一人が、震える声で自派閥の長に声をかけた。その大臣の内心は、これで秦から届くはずだった賄賂が減るのではないか、という浅ましいものだった。
宰相・后勝は、湧きたつ主戦派を静かに眺めていた。その瞳の奥には、憧憬と軽蔑という、本来相容れないはずの二つの感情が同居していた。
「使者よ。両軍の被害は?」
后勝が問うと、使者は隠しもせぬ侮蔑の色を浮かべて彼を見た。
「……はっ。斉軍の戦死者千二百、負傷者千七百。秦軍の戦死者八百六十、負傷者千から二千です」
「ふむ。勝者であるはずの斉の方が、被害は大きいわけか」
「なっ、なんだとっ!?」
后勝の言葉尻を飲み込むように、斉王が玉座から身を乗り出した。
「斉と秦とでは国力が違う。総兵力も違う。我が斉が千死んだのなら、秦には五千は死んでもらわねば、国家としての釣り合いが取れんではないか」
「誠にその通りでございます、大王様」
后勝の言葉が届いているのかいないのか、王はなおも扇を弄びながら独りごちる。
「……趙も韓も、滅ぼされた王は流罪で済んでいるという。趙などはあれほど激しく抗ったというのに、だ。……うむ、どちらに転んでも、我が身は安泰やもしれぬな」
言ってから、しまったというように王は口を噤んだ。だが遅い。玉座の間に満ちていた熱気に、ほんの一瞬、冷たい隙間風が走った。
その言葉を聞いても、大臣たちの顔に失望の色はなかった。この王が己の保身しか考えていないことなど、とうに知り尽くしていたからだ。
彼らがこの王に望むのはただ一つ。この日和見な王から、いかにして自派閥への支持を引き出すか。
それだけだった。失望など、味わい尽くして久しい。
后勝は玉座でバツが悪そうに顔を赤らめる斉王を見た。
――ちょうどいい。この王の保身癖は、使いようによっては最も御しやすい武器になる。
「大王様。これは、無邪気に喜んではおられませんぞ」
朝堂の熱気が、すっと冷えた。主戦派の大臣たちの軽蔑の視線が、一斉に后勝へと突き刺さる。
「喜んではいられないとはどういうことだ、宰相」
「はっ。お尋ねいたします。安平君は、誰の兵を率いて秦を退けたのでしょうか」
「無論、斉の兵であろう」
「いいえ」
后勝は一拍置いて、声を落とした。
「王命を受けて出陣したとはいえ、安平君は自領の民を独自に徴募し、兵士に自ら定めた軍功を与えております。さらに戦勝後には私財を投じて兵を賞しました。――大王様。あの一万は、斉の兵ではございませぬ。安平君の兵にございます」
「うむ。それの何が問……いわゆる私兵という奴か!?」
斉王は扇を床に落とし、勢いよく立ち上がった。
「はい。兵は王から俸禄を受けているのではなく、安平君から恩賞を受けている。この戦で兵士たちが仰いだ主は、大王様ではなく安平君にございます」
「聞き捨てなりませんぞ、宰相!」
主戦派の大臣の一人が語気を荒げて割って入った。
「安平君は私財を惜しまず、国のために身を挺されただけのこと! それを謀反呼ばわりとは、あまりに無礼が過ぎましょう!」
斉王は后勝とその大臣を交互に見やり、どちらの言うことが正しいのか決めかねている様子だった。
后勝はその迷いを見逃さず、畳みかけるように続けた。
「安平君は此度の戦に勝ったからよろしいものの、もし負けておれば、斉は大きく国土を奪われ、なおかつ秦の怒りを一身に買っておりました。怒り狂った秦王が大軍で斉を蹂躙し、人民を虐殺し、大王すら辱めていたやもしれませぬ」
「……なっ」
斉王の顔から、みるみる血の気が引いていく。
「そして今、安平君が大王をよく思っておられぬことは、この朝堂の誰もが知るところ。私兵を抱え、国君の地位を望んでも――何ら不思議はございませぬ」
后勝は斉王の目をまっすぐに見据え、とどめの一言を静かに落とした。
「かつて田氏が斉の民心を得て、ついには姜氏に代わって斉の君主になったことを、大王様はお忘れではございますまい。今の安平君の行い、まさにその先例をなぞっているように、私には見えます」
保身の塊である斉王に向かって、后勝は最後の一撃を放つ。
「危のうございますぞ、大王様。うかうかしていれば、安平君に寝首を掻かれるやもしれません」
「――っ! 軍を動員せよっ! 直ちに田仲を誅滅せよ!」
恐怖に突き動かされた斉王が叫ぶ。
主戦派が口々に王を諫めるが、恐慌に囚われた王の耳には、もはや何も届いていなかった。
「……まぁまぁ、お待ちくだされ、大王様」
「むっ? なんだ、宰相」
「あくまでも私が今申し上げたのは推論に過ぎず、安平君が真に謀反を企んでいるかは、まだ分かりませぬ。ここは軽々に兵を動かさず、一度彼を呼び出し、言い分をお聞きになるべきかと」
田仲を軍を動員して討とうとすれば、主戦派の面々が長である田仲を守ろうと動くだろう。そうなれば、斉では内乱が起きる。
――無駄な血など、決して流させはしない。
「宰相よ。相変わらず其方は寛大な心を持っているな」
「私の言を聞き入れる度量をお持ちの大王様こそ、真に寛大なお心の持ち主にございます」
「そうか。……よし、田仲を呼べ」
斉王は先刻の恐怖など忘れたかのように機嫌よく笑い、田仲を呼ぶよう命令した。
その様変わりの速さに、后勝はわずかに眉を動かしたが、何も言わなかった。この王にとって、恐怖も安堵も、所詮は今この瞬間の天気のようなものなのだ。
「よろしかったのですか?」
朝議の後、后勝の部下の一人が静かに問いかけた。
「構わん。例え王が田仲を殺さずとも、これ以降田仲が軍を動かすことに対しては警戒し、二度と主戦派が秦と戦う許可を与えぬだろうよ」
「なるほど」
「それより、此度の田仲の勝利の立役者を調べよ。田仲は馬鹿ではないが、柔軟な男でもない。顔聚は現場指揮官としては優秀だが、発想力に欠ける。誰か、別の者がいる」
「はっ。すぐに調べます」
部下が去った後も、后勝はしばらく玉座を、そして国のために本気で憤っている主戦派たちを眺め続けていた。憧憬と軽蔑――その両方を胸に抱いたまま。




