戦後の凪・三
――東の果てだけあって、日の入りが早いな。
夕刻。燕の都、薊では絹糸のような雨が降っていた。細い雫は彼女が頭に被る傘に降り注ぎ、心を和ませる優しい音を鳴らしている。
その音に耳を澄ませていると、突然、肌に鋭い痛みが差す。冷たい水を吸った服が肌にへばりつき、ゆっくりと彼女の体温を奪っていく。
不快そうに吐いた白い息は、夜の闇に溶けていった。
「……遅い」
彼女がそう呟いたと同時に、雨音に混じって馬の嘶きが聞こえてくる。視線を向けると、灯りが近づいてきていた。
――やっと来た。
道路の中央へと歩み出ると、彼女は静かに膝を折り、地面に身を横たえた。冷え切った体が、寒さでかすかに震える。
灯りが少しずつ近づき、やがて彼女の体を照らす。
「うわぁっ」
馬車を操縦する御者が反射的に手綱を引く。馬たちが苛立ったように鳴く。
「何事ですか?」
馬車の奥から、落ち着いた声が発せられる。
「申し訳ありません、ただ、道に女が倒れていて」
「なんですって?」
彼女は僅かに開いている瞼の隙間から、馬車から身を乗り出して自分の姿を確認する貴族風の若い男を捉えた。
男は慌てた表情となり、馬車に並走する騎乗した護衛兵に命じる。
「彼女を私の馬車に乗せてやりなさい」
「しかし、素性も知れぬ者を、そう易々と」
「父に叱られた場合は私が責任を持つ。道端で倒れる婦人を放っておくことなどできません」
護衛たちは困ったように顔を見合わせる。
「どうします。また若のお人好しで、当主様からお叱りを受けたくはないのですが……」
「あの娘の身なりからして貴族かなにかだろう。放ってはおけん」
「わかりました」
護衛の一人が重い音を立てて下馬し、彼女を抱きかかえる。抱え上げる腕の強張りから、冷たい雨の中甲冑をまとって働く疲労がにじんでいるのが分かった。
丁寧な手つきで馬車へと乗せられた後、馬車は静かに進みだす。
雨音だけが、車輪の軋みに重なって響いていた。時間が経ち、護衛たちの意識が得体のしれない彼女から離れていったとき、彼女は静かに身を起こした。
濡れた服の中から、指先だけで長く細い針を引き抜く。雨音にかき消されるほどの、微かな衣擦れの音。その切っ先を、若い貴族の首の後ろにそっと沈めた。
男の体が、僅かに強張る。それだけだった。
声一つ、上がらない。呼吸の音が、少しずつ間遠になっていく。雨は変わらず降り続き、馬車の外では護衛たちが何も知らずに手綱を握っている。
やがて、男の体温だけが静かに冷えていった。
彼女はするりと、音一つ立てず馬車の後ろから飛び降りる。護衛たちは、まだ主が殺されたことに気づいていない。
――――――――
「ただいま戻りました」
彼女は濡れた服で邸宅の床を塗らしながら、ずかずかと奥へと進んでいく。使用人たちは、誰も文句を言わない。
彼女は邸宅の奥の、主の部屋へと入った。
「どうだった?」
主が彼女に問いかけた。
「首尾よく終わりました」
「そうか、ありがとう」
「……はい」
彼女の端正な顔は鉄面皮で、表情に動きはない。けれど内心では歓喜の感情が湧いていた。愛する人から褒められた時の――甘美な感情だ。
人を殺めたことに、罪悪感などない。何人殺めても、指先ひとつ震えたことはなかった。それなのに、この一言だけが胸の奥を焼く。
おかしなものだと、彼女は自分でも思う。
「彼は秦からの賄賂漬けになっていた。しかも、未来の大臣だ。殺すしかなかった」
主は罪悪感に満ちた表情で苦しそうに呟いた。
「着替えてきます」
「ああ。そこの部屋に着替えは用意してあるよ」
「覗きますか?」
「しっ、しないさ! そんなことっ!?」
主が慌てて答える。
――良かった。元気になった。
隣室に移りながら、彼女はふと立ち止まる。人を殺した手で、今は着替えの支度をしている。その落差に、自分でも可笑しくなった。
殺めた男の顔も、もう思い出せない。
覚えていたいと思ったことすら、ない。
けれど、主である彼の顔だけは、いつまでも覚えていられる気がした。
彼女の好みに合わせた、華美な装飾のない動きやすい服に着替え終える。結局、覗かれることはなかった。
今さら何を恥ずかしがるのか。
互いの肌など、とっくに見慣れているというのに。
「そういえば、久しぶりにいい知らせが届いたんだ」
主が嬉しそうに語り、思わず彼女の唇の端が緩んだ。
「ついさっき入って来た情報なんだけど、斉が秦に勝ったんだって」
「……本当ですか?」
「そう、驚くよね。でも本当なんだ」
斉の主戦派、田仲率いる一万が秦将李信率いる二万の軍に勝利した。
「まぁ、実際は秦軍を撤退させただけで、被害も斉の方が多いんだけど……両者の置かれた状況を考えれば、斉の勝ちと言っていいと思う」
「そうですね。ですが、この程度では状況は変わりませんよ」
彼女はあえて、冷や水を浴びせる。
「分かってる。秦に勝つ……いや、生き残るためには、もっと大きな勝利が必要となる」
「ですが、楚ならばともかく、燕や斉が秦に大勝利できるとは思えません」
「そうだね。少なくとも燕は……どう足掻いても秦に勝てない。このままでは滅ぼされてしまう」
主が腕を組んで悩む姿を見て、彼女も必死に頭を回転させる。すると、天啓が降りた。
「秦王を暗殺するのはどうでしょうか?」
「え?」
主が雷に打たれたような顔をする。
「いや……そんなこと……。いやでも、秦軍と正面から戦えば、ほぼ確実に滅亡する。けれど秦王を殺せば」
「殺せば、何が変わるのですか?」
彼女はあえて問い返した。
「秦王はまだ若い。後継者も幼子だ。仮に秦王が死ねば、後継を巡って国内が乱れないとも限らない。少なくとも……この統一戦争の指揮を執っているのは秦王本人だ。彼を失えば、秦という化け物の歩みは、確実に鈍る」
「五年か、十年か」
「ああ。それだけの時間があれば、何かはできる」
低確率でも、燕の滅亡という結末をひっくり返せる、数少ない大博打。
「だが……果たして暗殺できるだろうか? 当然護衛は多いはずだ」
「燕が降伏するという体での使者ならばどうでしょうか? 正式な手段で秦王に近づけます」
主は黙って彼女を見つめる。
「まさかとは思うが、その使者を務めるのは」
「私以上の暗殺者はいません。男装して使者に成りすまし、秦王を殺してきます」
「……荊軻」
主――燕の太子である丹が、愛する彼女を死地に向かわせていいのかという迷いの表情で、荊軻を凝視した。




