滑稽な軍議・一
「先生方、大変でございます! 私の食客による情報によれば、秦軍二万がこの鎮西城に向かって進軍しているとのことです!」
鎮西城に到着して数時間余り、安平君によって食客たちが広間に集められた。
五十人近くいるだろうか。そのほとんどが僕より一世代も二世代も上で、白髪や立派な髭を蓄えた者ばかりだ。
その中に混じった僕は、さながら昭和の喫茶店に迷い込んだフラペチーノだった。
「敵の将軍は李信。若く勇猛な男とのことです。どうか秦軍を破る知恵を出していただきたい」
安平君が深く頭を下げる。
どうしてこうなった?
いや、予想はできていた。
主戦派の筆頭である安平君が一万も軍を率いて最前線に入れば、秦を刺激する。……分かっていたのに、僕は付いてきてしまった。
こんな戦いがあったと歴史書で読んだ覚えがなくて、ならば戦争は起きないだろうから大丈夫と思っていた。
……多分、記録に残す価値もない戦闘だったのだろう。
だとすれば戦いの結末は、斉の敗北だろう。斉はまともに抵抗せずに秦に滅ぼされたと広く伝わっているのだから。
本当に、なんで僕は付いてきてしまったのだろう。
安平君に連日恩を売られていたから? それとも、安平君を死なせたくなかったから? それで僕まで死んだらどうするんだ。
冷や汗が背中を伝う。だが、そんな僕の動揺をよそに、広間の空気はすでに動き始めていた。
「取り乱し召されるな。秦の若造がどれほど勇猛であろうと、恐れるに足りません」
集められた食客の中でも、ひときわ年の嵩む老人が一歩進み出た。
「そもそも、我が斉が危ういのは敵が強いからではございませぬ。我が国が『仁義』を忘れ、民を愛する『王道』を怠ってきたからでございます。武力をもって武力を制しようとするのは、火を消すのに薪をくべるようなもの」
うわっ、出たよ。古代のスーパーマナー講師集団・儒家。
「知恵をお求めなら申し上げましょう。いま直ちに倉を開いて困窮する民に食糧を施し、君臣の礼を正すのです。民がわが君の徳を慕えば、秦の兵とて戦う意欲を失い、自ずから瓦解いたしましょう。徳なき暴虐の秦に、天が味方することなど万に一つもございません」
なんという理想論。だが、これぞ儒家って感じがして逆にいい。
食客の半数がこれに頷く中、末席に近い場所から、若い儒者が一人、静かに立ち上がった。
「……お言葉ながら、それは半ば正しく、半ば誤っております」
老儒者の眉がぴくりと動く。若い儒者は、それに構わず続けた。
「民を愛すること、仁義を忘れぬこと。いずれも国を治める者として欠くべからざるもの。それは私とて否定いたしません。しかし――」
彼の視線が、机上に広げられた地図に落ちる。そこに置かれた秦軍を示す駒を、じっと見つめたまま言葉を継いだ。
「腹を空かせた民に粥を施したところで、秦兵の矢は止まりませぬ。徳を慕う民が増えたところで、城壁が高くなるわけでも、兵糧が湧くわけでもない。仁義を説くことと、現実から目を背けることを、同じにしてはなりませぬ」
……珍しい。現実主義的な儒家だ。
「秦が暴虐であるから天が我らに味方する? ならば、なぜ天下の諸侯は、これまでことごとく秦に敗れ続けているのでしょう。天は、ただ正しい者に勝利を与えるほど都合よくはございませぬ」
広間がしんと静まり返る。老儒者は何かを言い返そうと口を開きかけたが、言葉が出てこないようだった。
「ならばどうすればよいのでしょうか、先生?」
安平君が縋るように問う。若い儒者は、少し困ったように目を伏せた。
「私は兵術を修めておりませぬゆえ、具体的な陣立ては申せませぬ。ただ、破竹の勢いにある秦軍と正面からぶつかることだけはおやめなされ。敵の刃をかわし、相手が自ら道義を失って自滅する隙を窺う……それもまた『勝ち』にございます」
食客たちが「なるほど」「ではどう防ぐ」とざわつき始めた、その時だった。
「――クックック……ハハハハ!」
広間の隅、酒瓶を抱えて壁に寄りかかっていた男が、腹を抱えて笑い出した。だらしなく着流しを羽織り、目つきは怠惰そのもの。
この緊迫した空気の中で、彼だけがまるで別の時間を生きているようだった。
「何が可笑しいのか、道家の先生!」
お堅い老儒者が不快そうに眉をひそめる。男はひょうひょうと立ち上がると、酒の匂いを撒き散らしながら中央へと進み出た。
「いや失礼。あまりに青臭い議論だったものでね。かたや『お祈りしていれば勝てる』と言い、かたや『正義じゃ勝てないからうまく逃げろ』と言う。儒家の先生方は、相変わらず言葉のこねくり回しがお上手だ」
「なっ……愚弄する気か!」
「滅相もない。酒の肴の戯言ですよ」
男は肩をすくめ、地図の上の秦軍の駒を、指先でちょんと突いた。
「李信とやらは若く勇猛なのだろう? 猛火は勢いが強いが、燃やし尽くせば勝手に鎮火する。水を見よ。水はどんなに激しい拳も受け流し、形を変え、最後には最も低い場所へと流れ着いて、岩をも穿つ。『柔はよく剛を制す』というだろう?」
「つまり……戦わずに逃げ回れと?」
「逃げるのではない、『満ちるのを待つ』のだよ。相手が勝ったと慢心し、勢いが鈍り、勝手に自壊するまで、我らは空気のようにそこに漂っていればいい。戦わぬ者に、秦軍とて勝つことはできん」
道家の男はそう言い終えると、興味を失ったようにまた壁際へと戻っていった。
部屋には、重い沈黙が降りた。
安平君が、震える声で口を開く。
「……それで、先生方。具体的にどうすればよいのでしょう? どこに軍を配置し、どうやって戦えばよいのでしょうか? どうか、お教えください」
しかし、その言葉に応える者は、誰一人としていなかった。
当然だ。ここに集められた食客は儒家と道家ばかりで、実際に兵を動かす術を持つ者など、初めから一人もいなかったのだから。
不安げな表情でキョロキョロと食客たちを見回す安平君に、僕はつい哀愁を感じてしまう。
――と、ふいに安平君と目が合った。
その瞬間、安平君の目が、キラリと光ったような気がした。嫌な予感がする。
「子安先生。あなたは恐らく法家とお見受けします。どうかご意見を頂けないでしょうか?」
その瞬間、広間中の儒家たちが、一斉に冷たい光を宿した目で僕を睨んだ。
……いや、確かに軍功爵を導入しろとは言ったけどさ。別に僕、法家じゃないんですけど。




