幕間・二
趙の都、邯鄲。
安平君田仲が一万の兵を率いて鎮西城に向かったこと。その報せは秦に買収されている斉の宰相、后勝を通じて直ちに秦へと届けられた。
「后勝め。財を貪る豚としては優れているが、御者としては失格だな」
そう呟く秦王の眼下には、深い穴が口を開けていた。その周囲には、縄で縛られた大勢の人間が転がされ、口々に命乞いの声を上げている。
「……はは。いい気味だな」
彼らが泣きわめき、土下座し、天に祈るのを見下ろし、秦王は満足そうに笑った。
「やれ」
「はっ!」
合図一つで、縛られた人々が次々と暗い穴の底へと突き落とされていく。絶叫と、叩きつけられる肉の音が重なり、湿った土の匂いに血生臭さが混じり始めた。
秦王は阿鼻叫喚と化した穴から興味を失ったように、ふいと背を向ける。
「ひ、ひぃ……! 嫌だ! 助けてくれぇ!!」
「お許しを、お許しを!」
「殺す……! 殺してやるぞ、秦王!」
秦王は煩わしそうに耳を塞いだ。
「おい。五月蠅くて敵わん。土を被せる作業を急がせろ」
「はっ!」
秦王は夜空に浮かぶ満月を見上げ、独り言のように呟いた。
「趙人四十万を生き埋めにした長平の戦いの翌年に、私は邯鄲で生まれた。趙人の憎悪が罪なき私を襲った。そして私の趙人への憎悪を生んだ」
その表情に何かを感じ取ったのか、月が雲の陰へと隠れていく。
「月よ。覚えているか? 『いつか趙を滅ぼし、恨みある者を生き埋めにする』という誓いを。……どうだ、果たしたぞ?」
秦王の高笑いが、静まり返った邯鄲の夜に響き渡る。
周囲の者たちは、誰一人として声を上げない。恐れが場を支配していた。
だが、そんな空気など意にも介さぬ様子で、一人の大男が秦王へと歩み寄った。
「大王様。田仲の件、どうするんですか?」
「む? 李信か」
体躯は二メートルを超えるだろう。若く、精悍な顔つきに、巨大な矛を無造作に担いだその姿は、いかにも猛将然としていた。
秦王は、初めから決めていたことのように命令を下す。
「お前が二万の兵を率いて、田仲の首をとってこい」
「二万?」
李信はわずかに眉を上げ、それから肩をすくめた。
「……いや、失礼しました。斉ごときなら五千でも十分かと思いまして」
周囲の将兵たちが息を呑む。
李信は気にした様子もなく続けた。
「斉兵など、長らく戦場から遠ざかっていた連中でしょう。一万を率いているといっても、数だけです。まして田仲は将軍ではなく、文官と聞きます」
巨大な矛の石突きを、地面へと軽く突き立てる。
「二万もあれば、逃げ道を塞ぐ兵まで用意できますね。贅沢な兵力です」
その声音には、敵を侮るというより、最初から勝利を疑ってすらいない者特有の余裕があった。
秦王はしばらく李信を見つめていたが、やがて口を開いた。
「……李信」
「はっ」
「お前は、まだ斉と戦ったことがないな」
「ありません。しかし――」
「だから釘を刺す」
李信の言葉を、秦王は静かに遮った。
「兵が弱いことと、敵が弱いことは違う」
李信の表情から、わずかに笑みが消える。
「斉は確かに衰えた。王も宰相も腐り、朝廷は割れている。だが、田仲は違う。だからこそ、奴は一万の兵を集められた」
秦王は李信の前まで歩み寄る。
「獲物を侮るな。例え弱くとも、追い詰められた時に何をするかわからん」
「……承知しております」
「いや。承知していないから言っている」
秦王の声が、わずかに低くなった。
「お前は強い。若く、勇猛で、兵を率いる才もある。だからこそ危うい」
周囲の者たちが固唾を呑む。
秦王は李信を真っ直ぐに見据えた。
「勝てる戦で死ぬな。つまらぬ慢心で兵を失うな。秦の将軍は、己の武勇を示すためにいるのではない。秦を勝たせるためにいる」
李信は一瞬だけ目を見開いた。
「……肝に銘じます」
「本当に銘じたか?」
「ええ」
李信の言葉に、秦王は満足そうに頷いた。
「ここで主戦派の筆頭である田仲を殺せば、斉は降伏論で一つにまとまるだろう。田仲と鎮西城にいる斉兵を、従軍した文官も含めて一人残らず殺せ」
当然のように、秦王は皆殺しを命じた。
李信は特に動じることもなく頷く。
「秦に逆らう者は死ぬと、斉に教えるためですね。……コホッ」
「風邪か?」
「ええ。お恥ずかしいところですが、ここ一週間ほど体調が優れず」
秦王は少し思案し、手を叩いた。
「夏無且。いるか」
「はい。ここに」
夏無且と呼ばれた医者風の老人が、すぐに一歩進み出た。
「お前は李信に付き添え」
「……しかし、私は大王様の侍医でございます」
「構わん。私は至って健康だ。それより、若く才能ある李信を労わってやったほうがよいだろう」
「……承知いたしました」
拝礼した夏無且に、李信が声をかける。
「安心なされ、侍医殿。貴殿には私が傷一つつけさせはせぬ。私の側にいれば、死ぬこともないでしょう」
「心強いことです」
夏無且が再び拝礼した。
「李信。さっさと行ってこい」
「はっ。承知いたしました、大王」




