幕間・一
安平君との面会から数日が経った、今日。
僕はふかふかのベッドに横たわりながら、天井の木目をぼんやりと見つめていた。こんな上質なベッド、僕が持っているわけがない。
ここは安平君の邸宅だ。
「……どうしてこうなった」
思わず声が漏れる。
安平君との舌戦のあと、微妙な空気になった場から逃げるように帰宅しようとした。けれど安平君に呼び止められ、なかば強引に食客にさせられてしまったのだ。
部屋は上等。出される食事は山海の珍味。挙句には絹や宝剣まで押しつけられる始末だ。断ろうとするたびに、安平君は「ニコッ」と笑う。
権力者の意味深な笑顔ほど、怖いものはない。
結果として僕は、安平君から一方的に恩を積み上げられている状態にある。
いわゆる返報性の法則だ。与えられた分だけ何かを返さなければ気持ちが悪い。そんな感覚に、僕はすっかり絡め取られていた。
現代日本なら、政治家が票欲しさに恩を売るのを防ぐため贈答は禁じられている。だがここは紀元前の中国。当然、そんな法律は存在しない。
「先生、入りますぞ」
「どうぞ」
入ってきた安平君は、当然のように書物を差し出してきた。
……これは、韓非子か。
読んでみたかった一冊だ。素直に嬉しい。そんな僕の様子を、安平君は目ざとく見ていた。
「先生。実は今日は、折り入ってお願いがあって参りました」
「……え? なんですか」
このタイミングで頼み事をするのは卑怯だと思う。
「私と共に、鎮西城に入ってはくださらぬか」
「あの……最前線の城ですか?」
「ええ。現在、秦との国境付近にある城です」
――嫌です。という言葉をぐっと飲み込む。誰が好き好んで秦の首狩り族のそばに近づきたいものか。
「……安平君が鎮西城に向かわれる理由はなんでしょうか」
「斉との国境沿いに駐屯する秦軍が、恩賞欲しさにたびたび小規模な侵攻を行っているのです」
「なるほど」
歴史書にそんな記録はなかったが、局地的な小競り合いくらいは容易に想像できる。白髭を撫でる安平君の表情が、不意に翳った。
「まだ、兵士の首が取られるだけならいいのです。しかし秦の奴らは、無抵抗の民の首まで落とし、それを手柄と称して国から褒賞を得ている」
「……えっ」
一瞬、目の前が真っ暗になる。血の気が引いていく僕に構わず、安平君は続けた。
「ですので、それを食い止めるために私兵を率いて鎮西城に入ろうと思うのです。先生には、文官として従軍していただきたい」
「ですが、安平君ご自身が鎮西城へ赴かれる必要はないのでは?」
秦との主戦派の頭領が自ら軍を率いて最前線に入れば、間違いなく秦を刺激してしまう。最悪、戦争になるかもしれない。
「いいえ。私自らが赴くことで、内にも外にも『斉に抗戦の意思あり』と示すのです」
「……さいですか」
斉の人々にとっては朗報だろう。だが僕にとっては最悪の答えだった。けれど、目の前の安平君の意志は固くとても覆せそうにない。
「それで先生。ご同行願えますかな?」
安平君が心配そうに尋ねてくる。
……正直、今でも史実通り斉にはあっさり降伏してほしいと思っている。それは、死ぬ人の数を、少しでも減らしたいからで。
――ですが私は……私たちは、斉が滅びるのが、嫌なのです。
数日前、安平君が口にした言葉が脳裏によぎる。それから、手に持つ韓非子を見た。
「……そういうことであれば、分かりました」
苦渋の末に、僕はそう答えてしまった。
「おおっ! ありがとうございます、先生!」
……大丈夫。
この時期に斉と秦との間で戦争が起きたなんて記録はない。だから、きっと鎮西城に向かうこと自体は問題ないはずだ。
「ですが、安平君。こちらからは決して戦いを仕掛けないでくださいね」
「ええ、もちろんですとも、先生。あくまでも秦の小規模な侵攻を防ぐための威嚇です」
一抹の不安は残る。
それでも、これは史実でも起きたはずの出来事だろう。きっと問題はないはずだ。そう、僕は自分に言い聞かせていた。




