孤独な運命論者・四
「先生。このままでは斉は……滅ぶのでしょうか?」
安平君が静かに尋ねられた。
「安平君はどうお思いですか?」
前世で読み漁った歴史書の知識を総動員しながら、僕はそう聞き返す。こういう時はまず相手に問いを投げ返すことが多い。
「私は、半信半疑なのです」
「とおっしゃると?」
「約五十年前。斉は燕の楽毅の攻撃によって、即墨と莒の二城を除いた全ての城を失いました」
首都である臨淄も陥落し、莒へ逃げた当時の斉王も殺された。あの時点で、斉は一度滅んだと言ってもいい。
「しかし我が父田単が斉を救い、失地をすべて取り戻しました。……そのこともあって、『斉は天のご加護を受けている』と考え、無策のまま時を無駄にする者が多いのです」
愚かだとは思う。
けれど、一度起きたことがもう一度起きるだろうと考えるのは、人間心理として十分に理解できる。
僕も昔、綺麗なお姉さんに偶然話しかけられ、次も声をかけられるだろうと期待したことがあった。
次に会った時は素通りされた。
「先生。お答えください。斉は滅ぶのでしょうか?」
安平君が、真剣な表情で僕を見据える。
彼の望み通り「斉は滅びない」と言うこともできる。けれどそう言えば、安平君はきっと僕に斉を救う献策を求めてくるだろう。
それで乱世が長引いてしまうのが嫌だった。
「……いっそのこと、無抵抗のまま滅ぼされるというのも悪くないかと思いますよ」
安平君の顔から、笑みが消えた。
一瞬、意味を理解できなかったように見えた。
そして次の瞬間――。
「なっ!?」
安平君が勢いよく立ち上がった。好々爺といった雰囲気は消え失せ、その顔には怒りが浮かんでいる。
「聞き捨てなりませんぞ、先生!」
日が暮れてすっかり暗くなった邸宅に、安平君の怒鳴り声が響いた。
僕は深く息を吐いてから、口を開く。
「客観的に見て、秦の天下統一はもはや避けられないところまで来ています。これまで安穏と過ごしてきたのに、今さら斉が足掻いたところで何になりましょう」
「それは……その通りですが……。しかし!」
痛いところを突かれ、安平君の怒りが少しだけ鎮まる。
安平君は六十一歳にして斉最大の実力者だ。けれど、これまでの政治人生で斉に対して何か功を挙げたかと言えば、そうではない。
僕は静かに続けた。
「徹底抗戦すれば、それだけ多くの血が流れます。それならば、大人しく秦を受け入れ、天下統一を認めた方がいいのではないですか? 数百年続いた戦乱の時代が、ようやく終わるのですから」
正確には、秦はすぐに滅んで漢が興り、ゴタゴタがあった後にようやく平和が訪れるのだけれど。それでも、未来に平和が来ることに変わりはない。
「それに、中原では戦乱が続き、黄河の治水すらままならないと聞きます。国境がある限り解決できない問題もあるのです」
安平君は静かに座り直し、深く息を吐いた。
「先生のおっしゃることは、確かに理に適っています。統一によって乱世が終わり、戦に費やされるはずだった費用が治水に当てられるのであれば、それは素晴らしいことでしょう」
「ならば――」
「ですが」
すかさず安平君が僕の言葉を遮った。
「ですが先生の理論は、人の感情を無視しておりますぞ」
「感情、ですか?」
「はい。秦が天下を統一すれば、平和が訪れるかもしれません。ですが、滅ぼされる我々の気持ちはどうなるのです?」
安平君の瞳が、まっすぐに僕を見据えた。
「斉と秦では言葉も文化も違います。西の果ての秦に東の果ての斉が支配されるのは、恐ろしいのです。斉が滅ぼされたという出来事は、いずれ歴史になるでしょう。ですが、今を生きる私たちの感情はどうすればいいのです?」
「乱世が一年長引けば、より多くの血が流れます。戦争のために税や労役が課せられます。それに比べれば些事ですよ」
「……それはそうですが」
安平君は悔しそうに認めた。
「しかし秦が支配した我々斉人を奴隷のように扱い、不当な労役に駆り立てないとも限らないでしょう」
……確かに、秦が万里の長城や宮殿の建築で人民に相当な負担を強いたことは有名な話だ。
「それに、降伏したからといって秦が斉で略奪や虐殺を行わない保障はあるのですか?」
「これから支配する国でそのようなことを行うとは……」
「先生は秦王と知り合いなのですか?」
「……いえ」
「であれば、降伏したから安全という保障はどこにもないわけです。秦が斉王を殺すかもしれない。田氏を排除するかもしれない。人民を虐げるかもしれない」
「……”かもしれない”など、いくらでも作れますよ」
僕がそう言い切ると、安平君は唇を固く結んだ。反論の言葉を探しているのか、その口が何度か開いては閉じる。
やがて、安平君がぽつりと呟いた。
「先生は、秦が天下を統一すれば戦が終わり、治水も進むとおっしゃった。……ですが先生。それは斉の言葉で、斉の暦で、斉の祭祀で語られる未来なのですか?」
「……と、おっしゃると?」
「我らが祖先を祀る作法も、田を耕す暦も、市で使う枡や秤の目盛りすらも、いずれすべて秦のものに改められるでしょう。臨淄の人々が話すこの言葉さえ、子や孫の代には失われるかもしれない」
安平君の声は静かだったが、そこには確かな熱があった。
「秦が、そこまで徹底した支配を望むかどうかは分かりません。ですが、もしそうなれば……斉という国は、地図の上からだけでなく、人々の暮らしからも消えることになります」
僕は何も言えなかった。
秦が天下を統一した後、文字や度量衡、車軌までも統一したことは、歴史書で読んで知っていた。
あれは単なる行政上の改革ではない。土地に根付いた無数の暮らしを、根こそぎ塗り替える作業だったのだろう。
「先生。私の父、田単は即墨で兵を挙げた時、城内の民と共に、斉の社稷を守り抜きました」
安平君の目が、遠くを見るように細められた。
「あの時、民が命を懸けて守ったのは、王でも土地でもありません。斉という国のかたち、そのものだったのです。……先生には、その気持ちがお分かりになりますか」
僕は分かる、とは言えなかった。
前世の記憶を持つ僕にとって、国とは移り変わるものだ。王朝は興り、そして滅びる。それを何度も歴史書で読んできた。
けれど、安平君にとってそれは、歴史ではない。
「秦に降れば、父が守ったものは全て意味を失います。斉という名は地図から消え、いずれ史書の中の、たった一行になるだけでしょう」
「……」
「先生にとって、斉の滅亡は、歴史の一頁に過ぎないのかもしれません」
その言葉に、僕は思わず息を呑んだ。
まるで見透かされているようだった。
「ですが私たちにとっては、明日からの暮らしそのものなのです。先祖の墓に、誰が香を手向けるのか。生まれてくる子らは、どの言葉で育つのか。……それは、後の世の者が『天下統一』の四文字で片付けてよいものではないはずです」
安平君の声が、わずかに震えていた。
数秒の沈黙のあと、彼はゆっくりと顔を上げる。
「先生の仰ることは、おそらく全て正しいのでしょう」
論理での敗北を、安平君ははっきりと認めた。
「ですが私は……私たちは、斉が滅びるのが、嫌なのです」
何の理屈もない、純粋な感情論だ。
けれど、それを否定することは、僕にはできなかった。
「先生は、秦が天下を統一した後の世を知っているかのようにおっしゃる。……ですが、私たちにとって秦の天下など、まだ訪れてもいない未来なのです」




