愚王との謁見・一
宮殿の壁には、古代の聖王や暴君、戦場で華々しく戦う男の勇姿がバリエーション豊かに描かれている。
その隙間を埋めるように、書や水墨画が下品にならない程度に配置されていた。
冷えた石造りの回廊に、僕たちの足音だけが硬く反響する。どこかで焚かれている香の匂いが、鼻の奥にじんわりと絡みついた。
鏡のように磨き上げられた通路とは反対に、僕の心は曇り模様だ。
「……帰りたい」
「子安殿。大王があなたに会いたがっている以上、それは無理というものですよ」
「顔将軍は堂々としていますね。慣れているのですか?」
「ええ。私の屋敷も壮麗でしたから」
さすが、血縁主義の斉で将軍を務めている人物だ。いいとこの出である。
「子安殿のご実家はどのような場所だったのです?」
「小役人が住むのに相応しい類の四合院ですよ。四つの家庭で共有しています。父と二人の叔父、それから祖父の四家庭ですね」
「子安殿はまだ家庭を持っていないのですか?」
「はい。ですので、早く結婚しろと両親がうるさいです」
口ではさらりと流したが、両親の顔が一瞬だけ頭をよぎる。
――「お前に何かあれば、うちの血はそこで終わりなんだぞ」
何度も聞かされた台詞だ。
子孫を残すことが強く求められるこの時代、僕以外に子に恵まれなかった両親からの重圧は、決して笑い話では済まされない重さを持っていた。
二十一世紀の記憶がそうさせるのか、愛情もないまま子を生すためだけに結婚する、という発想にどうしても馴染めず、のらりくらりと先延ばしにしている。
「今の子安殿であれば、名家の美しい娘とも結婚できるでしょうな」
「……そうですね」
名家の娘と結婚すれば、目立たずに生きるという僕の目標からは遠ざかる一方だ。もっとも、大王に呼び出されている時点で、今さらな話ではあるのだが。
「顔将軍、子安先生。そろそろ玉座の間に着きますぞ」
先頭を歩く安平君が、声を強張らせて呟いた。両手が小刻みに震えているのが見える。寒さのせいではないだろう。
僕は安平君を落ち着かせるために、ゆっくりとした口調で話しかける。
「大丈夫ですよ、安平君。前に申した通り、平身低頭で謝罪すれば切り抜けられます」
「……ええ、分かっておりますとも。大王の感情は移ろう天気のようなもの。その時に目に映った光景でしか物を考えません。仮に今私を殺すつもりでも、私が必死になって謝ればすぐに思い直します」
……王として、それはどうなのだろうか。
だが、歴史上で見る暗君というのは、長期的に物事を考えることができなかったり、施策が一貫しなかったりすることが多いと思う。
今の王も、その類なのだろう。
なにせ、斉最後の王なのだから。
「例え許されると分かっていても、殺されるかもしれない。そう思うと怖いものです。……ふぅ」
安平君が肩を揺らして息を吐いた拍子に、持っていた笏を落としそうになり、慌てて両手で抱え直す。
その指先は、さっきよりも白くなっていた。
「安平君。王の前では、ひたすら小物を演じてください」
僕がそう切り出すと、安平君の足がコツリと止まった。
「……どういうことでしょうか? 子安先生」
「実績と名声、そして軍事力。この三つを兼ね備えた臣下には、たとえ名君であっても疑いの目を向けずにはいられないものです」
そこで言葉を切り、安平君と顔聚将軍の反応を窺う。
「かつて、中山を攻め落としながらも君主に疑われた魏の名将・楽羊のようにです。あれほどの名君と謳われた文侯でさえ、猜疑心からは逃れられなかった」
「……確かに」
顔聚将軍が声を落として頷いた。
「王の立場からすれば、その者が反乱、あるいは独立に走ることを警戒せねばならない。道理ですな」
「ですので――」
僕は一拍おいた。
この先を口にすることに、正直、抵抗がなかったと言えば嘘になる。
「名声を落としましょう。臣下が反乱を成功させるには、諸侯からの支持が不可欠です。この際、安平君が率いる主戦派の大臣たちにも呆れられるほどの小物を演じてください」
「……先生。私が主戦派からの支持を失えば、反乱の起こしようなどないと誰もが判断するでしょう。しかしそうなれば、私は斉で影響力を振るえなくなる。抗秦の指揮を執ることもできなくなってしまいます」
「大丈夫です。大王は保身の塊のような御方なのでしょう? 秦が攻めてくれば、ご自身の地位を守るために、結局は軍を動員するでしょう。そしてその時、総大将を任せられるのは安平君以外にあり得ません。何しろ、秦に勝ったという実績を持つ唯一の御方なのですから」
名声を落とし、「あの男に反乱を起こすなどという大それたことができるはずがない。よしんば起こしたところで、諸侯の支持がないのだから成功しない」と思わせる。
その一方で、能力そのものは必要とされ続ける。
だから、身を害される心配はない……はずだ。
いずれにせよ、これで安平君が主体性を持って抗秦活動を行うことはできなくなる。秦に抗って、無駄に民を死なせずに済む。
――とんでもない裏切り者だな、僕は。
そう分かっていながら、僕はこの道を選んだ。
安平君はしばらく僕を見つめていたが、やがて静かに目を伏せた。
「……分かりました。先生のお教えの通りにいたします」
それ以降、誰も口を開かなかった。
回廊の突き当たりに見えてきた朱塗りの巨大な扉の前で、槍を構えた衛兵たちが音もなく左右に割れる。
軋みながら開いていく扉の向こうから、冷たい風が僕たちの頬を撫でた。
まるで、僕がたった今選び取った道の代償を、前もって突きつけてくるかのように。




