幕間
「下水道があるかないだけでも、随分と変わりますね」
大王との謁見の為に、安平から臨淄へと戻ってきていた。下水道の整備されている臨淄は、安平と比較して悪臭が随分とマシで散策をしやすい。
それでも、清潔感や異臭は現代日本とは比べ物にはならないが。
そう思うと、下水施設が備わっていなかったのに清潔だと呼ばれた江戸は凄かったんだなと感じる。
「おい聞いたか? 安平君が秦軍に勝ったって話。いや~、スカッとするよなぁ! 俺もお国のために戦いたいぜ!」
「お前遅れてるなぁ。その話を臨淄で知らないのは、赤子か病人くらいだぞ?」
斉の首都である臨淄の市場では、この国の噂話の全てが揃っている。大王との謁見前に情報収集を行うには最適だ。
普段は噂話にも大きくバリエーションがあるのだが、今日ばかりはどこに行っても話の種は変わらなかった。
曇り空の隙間から漏れ出る陽光を頼りに、薄暗い市場で足を進める。今歩いている辺りは化粧品を売る店が並んでいて、女性が随分と多い。
「ねぇ聞いた? 安平君のとこで戦争に参加すれば、たんと報酬を貰えるそうよ」
「でもやっぱり、夫や息子が戦争に行くと思うと、私は……ちょっと」
「私だって死んでほしくはないわよ。……けど、私たち農民は生活が厳しいんだし。次男くらいなら……なんて思っちゃうのよ」
「あんた……」
「なんでもないわ、忘れてちょうだい。……はぁ、やだやだ。玉の輿になりたかったわ」
「あんた、そんな器量良しでもないでしょう」
「んまぁ、失礼ね!」
女性ばかりいる場所に留まるのは居心地が悪く、足早で移動を始める。
次の区画へと入った瞬間、張り詰めるような冬の冷たい空気の中に、焦げた蝉の臭いが混じっていることに気づいた。
「お役人さん、買っていきますか?」
屋台の前に座る、小柄で皺だらけの老人に話しかけられる。
もう十一月だというのに、屋台の上には大量の蝉が置かれていた。冷凍でもして保存していたのだろうか。
「……いえ。遠慮しておきます」
「そうですかい。そりゃあ残念だ」
老人は残念そうに身をかがめた。蝉は手軽な栄養補給の方法であり、老人などが蝉取りの仕事をすることが多いらしい。
だが、現代日本人としての感覚を未だ強く残している僕からすれば、どうしても、蝉を食べる気が起こらなかった。
食を選り好みできる時点で、僕は相当裕福な家庭に生まれたのだなと思う。その点において、強く感謝をしなければならない。
まぁ、転生しないのが一番だったのだが。
「儂も若けりゃ、安平君の御領地に移って、戦争に行ったんだけどねぇ」
屋台の前で考え事をしていたら、老人が話かけてきた。
「と、おっしゃると?」
「いやなに、冬は農業も終わって収入がないだろう? だから、労役なんかは案外嬉しいものなんだ。お上から銭を貰えなくても、労役中は飯にありつけるからね」
「そう、ですね」
「戦争に行くのは嫌だが、でも、安平君のとこで功績挙げたら免税してもらえたり、銭とかを貰えたりするんだろう? 羨ましいねぇ、最近の若いのは」
生活が苦しいから戦争に行く、か。
老人の語り口に、僕の頭に一つの疑問が浮かんだ。
「ご老人。あなたは秦が列国を滅ぼしていることについて、どう思いますか?」
「んん? 斉だって色んな小国を滅ぼしてきただろう? それと同じさ。それに正直、属する国が変わろうが、儂ら農民の生活はそう変わらんだろ。……まぁ、斉が滅びるのは嫌だけどな」
「……そうですか」
農民からすれば、国家の存亡よりも日々の生活の方が大切か。……当たり前だよな。
愛国心から戦争に参加する人がいるのも間違いはないが、それ以上に、食い扶持のために参加する者の方が多いのだろう。
僕が口にしてしまったせいで導入された軍功制度。
それが、貧しい農民たちを戦争に駆り立ててしまっている。
「……ご老人、お体を大切に」
「ありがとう。あんたも、その謙虚な姿勢を大切にな。威張らない役人は久しぶりだったよ」
市場の門へと足を進めるたびに、焦げた臭いが薄くなっていく。
あの老人の屋台からはもう随分と距離が空いたはずなのに、焼かれた蝉の嫌な臭いが、いつまでも鼻にこびりついていた。




