15.ただいまとおかえりのはなし
「それがお前の隠したかったものか」
阿止里さんの声はどこか誇らしげだった。まるで私を価値あるものだと認めるようで、不思議に思う。
それからしばらく静けさだけが広がった。何かを吟味するような間のように思えて、おそるおそる阿止里さんを見上げれば、彼はまた吊り橋を揺らした。
大きく上下して、私は阿止里さんから振り落とされそうになる。いや涙もひっこむぞ、この揺れっぷり。
慌ててしがみつけば、イヌ科の鋭い爪が彼の首を傷つけた。あっと思う間に玉が浮かぶ。モノクロのたぬきの視界のはずなのに、脳内では珊瑚のような鮮烈な赤に見えた。
阿止里さんは痛みなど気にも止めないように、その血を親指でぬぐった。ぬらりと光る赤。
「あのときおまえが守ろうとしたのは、あの男の命ではなく、俺の心なのだな」
独り言のような呟きが耳に届いて理解したとき、私は慌てた。違う、そんなたいそうなことは考えていません。ただ目の前で殺人事件が起きそうになっていたら、誰だって止めるでしょって話です。
だけど阿止里さんは私の考えなどどうでもいいようだった。だとしたら、と低く続ける。
「だとしたら、流されたあの血は、一滴残らず俺のものだ」
阿止里さんは独白するように呟いて、そっと目を閉じた。私は目の前の美青年が、表情なく目をつぶっているのを見て、状況も忘れてただ見惚れた。
ポニーテールが風に揺らめく。きれいな瞼、きれいな額。美しいということはそれだけで、何かを引き寄せるエネルギーを持つのだ。
そして目を開けた阿止里さんは何かを決意していた。その意思の固さに、私は得体の知れない恐怖を覚える。
「俺に生きて欲しい?」
阿止里さんはおもむろに問う。いきなり何の話ですかと思っていると、少しだけ首を傾けて、もう一度問いかけられる。
「俺に、生きていて欲しい?」
そりゃまあ、生きる死ぬで言われたら返事はひとつでしょうに。私は話の方向性がわからなくて、ちょっと警戒しながらも頷いた。
阿止里さんはそんな私を見下ろしながら、そう? というように首を傾ける。だが、とどこか愉しそうに言葉を続けた。
「だが俺には生きる目的もないわけだ。何のために生きればいいんだろうな?」
視線には試すような色がにじんだ。その視線は皇を思い出させた。気をつけるがいい、と言っていた皇。彼の首筋に浮かぶ真紅の珠。執着するという血脈……。
阿止里さんの瞳はまるでどろどろに溶けた金属のようだった。火山の火口を覗いているよう――いや、溶岩そのものだ。だって確かな熱を感じる。ちりちりと、焼け焦げそうなくらいの。
そしてその瞳は雄弁だった。
さあ言え。
誓え。
俺を求めて俺から逃げないと。
でもどうしたらいい。それは約束だ。誓った瞬間、私は未来の彼のそばを離れられなくなってしまうのでは?
神気とは底が知れない――先ほど私が幼いころから抱えていた感情をあんなにたやすく出してしまったのは、この神気のせいに違いなかった。そういう計り知れないものが濃く漂うこの土地で、約定なんてものを口にしてしまえば、取り返しのつかないことになるのではないか。
かといってここで拒絶すれば、阿止里さんはきっと一瞬のためらいもなく足場を蹴り上げるだろう。背にした縄を飛び越えて、微笑みながらひとつの未練も見せずに。
そんな私の葛藤を哀れむように、あるいは愛でるように、そしてどこか歓迎するかのように阿止里さんはわざとらしく微笑んだ。
彼の微笑み! この時間軸で初めて目にするその深い微笑みは、蒸留して再結晶したように純粋な残酷さをのせている。
「さあ答えろ、慎重に。誰のために、生きていてほしい?」
私は言葉に詰まる。
答える、答えない、沈黙する、揺れる橋。吹く風、遠くで鳴く鳥の声……。
阿止里さんは吊り橋の縄から両手を離す。すさまじいバランス感覚で、足場の綱に立っている。私の顔をつかむ。目を逸らすことを許してくれない。まるで恋人にするように両頬に手を差し伸べて包み込み、目を覗き込む。
「さきほど、おまえの一面を知った。俺が生きるに値する涙だった」
知る? そういえば、私を知る必要があるとかなんとか言っていた。だけど涙なんだっていうの。
「俺は、俺のためには生きない。だが、おまえのためになら生きてやる」
とろりとした蜜のような声だ。こんなに甘ったるい声を、私は知らない。
阿止里さんの、切れ長の黒の瞳にはたぬきが映りこんでいる。哀れなけものだった。罠にかかって捕まって、皮を剥がれる前のたぬきそのものだった。
底なしの黒い瞳だ。
何も信じたことのない瞳。
何か信じるものを見つけた瞳。
答えてはいけない。私は現代に帰るのだ。ここで答えたら、それを果たせなくなってしまうかもしれない。
阿止里さんは焦れたように吊り橋を揺らしはじめる。リズムに乗って、もし私が拒絶すれば鮮やかに微笑んで谷へ飛躍するのだ。堕ちてくるのを指折り数えて待つ顔で、阿止里さんは微笑みを深くする。
仕組まれた微笑みだった。この微笑みのためなら答えてしまいたくなるように、阿止里さんはきちんと計算している。
そんな私の、砕ける寸前の意思に最後の楔を打ち込むように、阿止里さんはささやく。
「なあ、――諦めて俺のこの先を引き受けろ。後悔する暇もないくらい、俺はおまえを満たし続ける」
私にできることはほとんどなかった。せめてもの反抗に、ゆるゆると目を伏せる。
「俺は、だれのために、生きればいい?」
だめだ、かなわない。
もう限界だった。身体も心もぐちゃぐちゃで、考えることを放棄したかった。楽になりたい。
(……わたしの、ために)
「わたし、とは誰? 名を与えろ。俺におまえの真名を」
まな? まなとは何だったか。フルネームのことだっけ?
主さま、という拓斗の諌めるような声がどこかで聞こえた気がした。でもどうでもよかった。この美しい声に支配されて、彼の望むものを与えるのは心地いいに違いない。
(佐藤、縁子のために)
閉じる寸前のたぬきの目は、うつくしい黒の瞳がどろりと溶けゆくのを見た。
世界から音が消える。
身体の奥が疼く。
人生で感じたことのない痺れ。
それはとても言葉に押し込められない歓び。
目の前の、この男から全身全霊で望まれることへの、えもいわれぬ愉悦。
美しい唇が開かれる。見惚れている間に、世界に音が戻ってくる。
「この越智宿禰阿止里は、ユカリコ、おまえのためだけに生きていくと誓う」
だからお前も、ずっと俺とともに在るのだ――。そう阿止里さんが耳元で低く刻むように言う。
そして血にぬれた親指を、私の口にあてがった。たぬきの味覚でもわかる鉄錆の味。
その瞬間、頭上でぱきんとワイングラスにひびが入るような音が響いた。思わず見上げる。割れた空が落ちてくると思ったからだ。
でも空は空のままだった。どこも欠けてはいなかった。次いで鎖骨のあたりに熱された烙印を突き立てられるような鋭い痛みがあって――ただほんとうに刹那のことで、次の瞬間にはそれらの感覚はふうっと消える。
そして次の瞬間だった。混乱する暇もなく突然、とてつもない風が吹いた。凪いでいた今までが嘘のような、意志のある風。
その風の目的はどうやら私だった。たぬきの肉体をすくいあげて、へっと思う間もなく私は宙へ吹き飛ばされて――そのままあろうことか、不吉な谷へ落下する。えっ、うそでしょ?
一瞬の無重力のあとで、血の気が引くのを感じながら、阿止里さんの驚愕に見開かれた瞳と目が合う。びっくり顔はちょっとレアでかっこいい、何かを悟ったように眉を顰める。苛立ちをあらわにする。落下する私を視線で捕らえ射殺すように見据える。吊り橋から身を乗り出して、阿止里さんは予言する。
「首を洗って待ってろ。逃がしはしない。絶対におまえを、見つけ出す!」
それ悪人に言うやつです!
それでも私はなんだかここまでのいろいろなものごとが腑に落ちて、しっくりきて、納得と安心をしながらおとなしく落下する。
(尻尾まで洗ってお待ちしてますよ)
どんどん遠ざかる阿止里さんと吊り橋、耳元で風を切る音、そして拓斗のお疲れ様でやす、というねぎらいの声。
(真名を交わし、なおかつ血まで与えられやしたか。そいつはちょいと厄介ですよ)
ちょっと同情するような声だった。
えっ、そうなの?
厄介って言われても、この世界に来てからずっと厄介しかなかったせいで危機感を抱けない。厄介じゃない瞬間ってあった?
また未来で会いましょう、阿止里さん。
ちゃんと私を見つけてね。
そして胸元から、稲光のような鮮烈な光がはじけて――温泉への無念が頭をよぎって――私の視界は真っ白になる。
全身が重い、細胞のひとつひとつが鉛になったんですかね。
漬物石乗っけられた白菜ってこういう気持ちなのかもな。
むしろ自分が漬物石になったの? まつげの一本すら鉄でできたかのようだった。頬に感じるのは乾いた砂の感覚。
「……う」
肺を使った呼吸がどうしてか苦痛だった。陸に揚げられた人魚姫の、初めての呼吸はどのような苦しみだったんだろう。私は意識してゆっくりと呼吸のやりかたを取り戻していく。
少しだけ息遣いが楽になる。次にもう一度、まぶたを開けるよう努力する。
うつぶせに倒れている。右目だけはなんとかうっすら明けられそう。
そして視界に移ったのは、見慣れたじゅうたん。木の扉。乾いた空気とオレンジに染まった室内。
朝焼け? それとも夕焼け?
何にしてもここは、ククルージャのみんなの家だ。
玄関のローブ掛けには何もかかっていない。みんなが着ていっているからだ。仕事に出ている時間――つまり、いまは夕方なのだ。
もうすぐみんなが帰ってくる。
ぼんやりと扉を見つめる。乾燥で木目がぼろぼろになりつつある、木の扉。ドアノブの真鍮のひんやりとした感触を思い出す。そうだ、買い物の度に回していたドアノブだ。籐で編んだ籠を持って。籠は台所に置いてあるはずだ。だんだん、ククルージャでの日常が沈んでいた記憶の底から浮上してくる。
夜ご飯を作らないとな。それにしてもじゅうたんに砂が入り込みすぎている。掃除もしたい。ああ、でも身体が重い。
そんなふうに私が全く動けなくても、時間はちゃんと流れているようだった。オレンジ色だった夕陽が鮮烈な赤みを帯びて、差し込んでくる角度がどんどん低くなっていく。
外から声が近づいてきた。玄関先の鍵穴に金属が差し込まれる音が響く。鍵を開けるにはちょっとしたコツがあって、ドアノブを手前に引くようにしながらじゃないと鍵が回らないのだ。
まだ立ち上がれもしない、うつぶせに倒れた状態ではみんなを驚かせてしまうな、とか、いったい転移してからどれだけの時間が経っているのかとか、私の身体はアレクシスのいるスヌキシュにあったはずでどうしてククルージャにいるのかとか、拓斗はどこへいったのかとか、頭を駆け巡ることは多かったけど、それらはぐるぐる頭の端のほうで空回るだけで答えなんてものにはたどり着かないともわかっていた。
かちゃり、と小気味いい音とともに錠が回る。開かれるドアに向かってこれだけは言わなくちゃ、とおなかになけなしの力をこめる。
おかえりなさい。
きちんと声は出ただろうか。久々に聞く自分の声帯からの声は録画したものみたいで違和感がすごい。みんなの気配はするのに誰も何も返事をしてくれなくて、ただ沈黙が横たわって、私の回らない頭は不思議に思う。
ただいまって言うべきだった?
なんにしても言いたいことを言えた満足感が沸き起こる。すごく満ち足りた気分なのだ。達成感といってもいいくらいだ。誇らしい気持ちすらある。自分が誇らしいというのは、なんだかいいものだ。みんながこんなふうに自分に満足できていれば、きっと素敵だろうな。
そしてふたたび意識は泥のように沈んでいく。
今はただ、もうちょっとだけ眠りたかった。
第九章はここまでとなります。(今回は幕間の話はありません)
お付き合いいただけた方々、長い間お待ち頂いた方々、楽しんで頂けましたでしょうか。(今回はいろんな面で今までとは構成が違っていたので、戦々恐々です)
そして感想、評価、レビュー、ブックマーク、メッセージ、いいね等、本当にありがとうございます。どれも励みとさせて頂いております。
思いがけずあたたかいお声がけを頂き、じんわりほっこりさせて頂きました。書き続けられるのは、間違いなくみなさんのお声のおかげです。感想、沁みてます……。
お話もようやくここまで辿り着けました。縁子はしばらくゆっくり休んでほしいです。おつかれさま。
ここまでおおむね予定通りの筋道を通ってくることができていることに胸を撫で下ろしつつ、いちばん書きたかった最後の章に向かいたく思っています。
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お付き合いいただけるみなさんに、心から感謝を。




