14.長く不吉な吊り橋、あるいははじまり
その谷は、阿止里さんの話から想像したものよりも、ずっと深くて恐ろしかった。
まず、対岸の崖がほとんどかすむような遠さ。今日はたまたま天気のいいお昼ごろだからまだましだけど、霧が出ていたり風が強いときなんてまともな思考では渡れない。クレイジーすぎる。
体重かけたら崩れませんか、という崖の端、そこから伸びる吊り橋も、橋って言っていいのこれ? というお粗末さ。
想像していたのは板をいくつも縄で結んで、橋みたいに、あるいはすこし隙間があっても線路の枕木くらいには足場があるものだ。だれでも想像するやつだと思う。
でも実際は、ただ三本の綱引きの縄がはるか向こうに延びてるだけ! 足場は太めの縄を三つ編みにしたロープ一本のみ、それを底にして、手すりの縄が二本。正面から見通すとアルファベットのV字状態で、横の部分だって網目みたいに編まれているわけでなく、気休め程度に手すりと足場をつなぐ細っこい紐でつなげといたよ。以上! という構成だ。サーカスのほうがまだましだ。あっちは命綱がある。
もちろん私は身体から内蔵ぜんぶ落っことす気持ちになった。無理無理、抱っこ紐状態でも無理。なんぼお金積まれても渡りたくないぞこんなもの。
と思っていたのに、阿止里さんはすたすたと渡り始めたではないか!
まって待ってほんとにまって!
(あっ あとり さん ひえっ まっ て)
あうあうあうと心拍数が高くなり混乱した私は、抱っこ紐から抜け出るように阿止里さんの首筋にしがみついた。ちょうど赤ちゃんがお母さんにすがりつくような体勢である。
(主さま……)
情けない、と言いたげな拓斗の声なんて本気でどうでもいい。あんたはいいよ、羽あって!
私のおなかのあたりですっぽりぬくぬくしていた拓斗は急に動かれて居場所がなくなり、不服そうに羽ばたいて手すりの縄に降り立った。
(しかしまあ、呆れるほどに神気の濃いところですな。地形も一役買っているのでしょうかね。濾過をして、さらに煮詰めたかのよう。普通の人間ならあてられて、思考に影響が出てもおかしくはないですぜ)
(あてられる?)
(ほら、皇も言ってたでしょう。冴えていたと。濃すぎる神気は良くも悪くも鋭敏にさせてしまいやす。時には意識を研ぎ澄ませもするし、思考をかき乱したりもする。常人ならば望まず思索の淵に落ち、気づけば転落なんてこともありえやすぜ)
拓斗が興味深そうに呟く。よくわからないが神気が濃いと言うのは単純にいいことだけではないらしい。
阿止里さんは器用に、というよりも慣れた感じで両脇の縄に交互に手を出し。身体をすこし横にするようにして足場のロープを進んでいく。信じられない光景に言葉を失う。
(こっ、怖くないんですか)
しばらくしてなんとか口を動かして聞けば、阿止里さんは歩みを乱さずに何がだと答える。どんどん進んで、もう後ろの崖からかなり離れてしまっている。
「怖い?」
(そうですよ、こんなに高くて、揺れて、風もあって、しっ、下が谷で……)
阿止里さんは無造作に足を止めた。わたしがぎゃっと声を上げる。ちょうど吊り橋の中ほどくらいかな。風はほとんどないとはいえ多少は吹いている。静止した阿止里さんと私をまるごと揺らす。
なっ、なんで? なんでここで止まるんですか。
歩かれても止まられても私は落ち着けない。戻りたいし渡りたいしなんとかしてほしい。完全に他人頼みの情けない状況だけど私に非はないはず! トイレにいますぐ行きたい心地の私とは対照的に、阿止里さんはむしろ寛いで凪いだ面持ちで谷を見下ろしている。
たぶん、という声が風にさらわれる。
「たぶん、俺は怖いと感じたことがなかったように思う」
平坦な声だった。もしかしたら今まで無意識に、なめられないようにか少なからず虚勢を張っていた彼の、素の状態なのだろうか。私は思いがけないその様子に、言葉を返すべきなのか少し悩んでから、あたりさわりのない合槌をうつ。
(そっ……それはたくましいことですね)
「だがおそらく、初めてそれに似たものを体験した」
(えっ、いつですか)
「おまえが俺の短剣に飛び込んできたときだ」
私は意外な答えに瞬きをする。
「あのとき、俺はぜったいに血を流させると決めていた。あの男が理不尽に奪った命を、その血で贖わせなければならなかった」
彼はじっと谷底を見ている。私もそっと視線だけを下ろす。
底の見えない谷、噴き上げる風、吸い込まれていったふたつの命。
「だが流されたのは、あの男のものではなくお前の血だった。俺の目的は、ずっと求めていたものは、望まない形で――歪められ、別の形で果たされてしまった。あっけなく、できそこなったものとして。加えてお前は俺に生きろという。未来のお前を救うために生きろという」
そう、私は言った。ちゃんと覚えている。阿止里さんに人を殺してほしくなかった。
ましてや半分の血が流れる父親を。だってどんなに認めたくなくても、私たちの身体は父親と母親の半分ずつからできている。自分の半身に刃を突き刺すようなものに思えた。そんな救いのない惨めなことを、阿止里さんにしてほしくなかった。
未来の私のために生きろとはずいぶんな言い草だけど、結果としてあのときの阿止里さんを止められたので後悔はしていない。とっさの言葉とはいえ、いま振り返るとだいぶ俺様な感じではあるが。
「その言葉に、責を負えるか」
それは質問ではなかった。鋭く切り込む要求だった。
(責?)
責任ってこと? えっ、どういう?
私は話の筋道に予測がつかなくなって、少し混乱した。
「俺は俺の命などどうでもいい。今だってそうだ。だがお前があいつの代わりに血を流した。そして未来のおまえを救えという。俺はいつ会うともしれない未来のお前を探し求めて生きていくというわけだ。それもいい。だがその先、未来でおまえを救ったその先の俺の生にも責を負い続けると誓えるか」
未来で出会うその先。
その先で私は現代の、拓斗の待つあのアパートへ帰る。
未来で出会う阿止里さんとずっと時間をともには――できない。
言葉に詰まった私の後ろめたさ、その卑怯を暴くように鋭く見据えて、阿止里さんは大きく一歩踏み出す。わざと吊り橋を揺らす。
反射的に強くしがみつく私を見下ろしながら、そのまま縄を背にゆったりとのけぞる。
「――なあ、よくも都合よくこの俺を使おうとしたものだな? 皇を殺すな、未来のお前を救え、そして救われたならもう用なしということだ。おまえはきっと俺を捨てどこかへと消える算段なんだろう。こんな救いようのない俺のそばに、望んでいたがるやつがいるはずがないんだ。とにかく未来のある一点において俺の助力が必要だから、こんな獣の身体に入ってまでして俺にまとわりつき、かくも懐柔しようとしたわけだ」
阿止里さんの視線がどんどん冷えていく。それは私を恐怖させた。
傷口が疼いて、揺れる橋が怖くて、吹き抜ける風が冷たくて、私はよくない思考へ落ちそうになる。いままでのことすべてが頭を渦巻いて、橋の揺れに合わせて吐き気がしてくる。
(主さま、意識に碇を下ろしなされ。神気に影響し、流されてしまいやす)
拓斗の声が、何枚もの緞帳の向こうから聞こえる気がする。
どうして、と私は思考のどこかが決壊しそうになる予感に震える。それは今の今まで必死に守ってきたところで、最後まで触れられずにおきたかった場所だった。でもだめだった。この切っ先のような黒曜石の瞳は切り裂いてしまう。
どうしてこんなことを言われなきゃいけないんだろう。異世界に理不尽に落とされて、その後も何度もいろんな土地に落っことされながらがんばって、あげくの果てにこんなたぬきの身体に詰められながらも精一杯やってきたのに!
月花に言った言葉がはね返ってくる。自分を哀れみたくて仕方がない。
「だがまあいい。おまえの筋書きなんてものに興味はない」
阿止里さんの纏う空気が変わった。淡々とした視線から、刃物のように攻撃的な瞳になる。あのときと同じ、皇と対峙していたときと同じように、黒々とした美しい瞳に溶岩が噴き出す。
「おまえはずいぶん偉そうにものをいうが。その実、心底から他人に踏み込む勇気など持ち合わせていないのではないか。中途半端に近づいて、心の飢えたところ、弱くやわらかい部分にぬるま湯をかけて去っていく。上澄の、旨みのあるところだけを味わって。卑怯者、薄情者め」
その言葉は的確に私の心を抉った。ぎりぎりだった思考の堤防を決定的に破壊した。
思考が堰を切ったように流れ出す。
この世界で触れ合う人たちを通じて、再認識しつつあったこと。
心底から他人に踏み込めない――私自身が見ないようにしていた部分。恋愛で泣いたことのないわたし。地団太を踏むほどの欲望を見せたことのないわたし。
妹のためにすべてを懸けて動いていたギィ。
諦めながらも最後には家族に歩み寄ったユーリオットさん。
愛情を希う月花のきれいな涙。
理不尽な誹りに耐えながら、屈しない心を持ち続けたナラガルさん。
そして何より、友情を求め続けたアレクシスの清らかさ。
みんな辛くて大変だっただろう。だけどだからこそ持つ感情の熱量に、私は憧れた。
いつでも全力で泣いたり笑ったり、みずみずしく生きている人たちがうらやましかった。
あんなふうに、心の感情を解放できたら。
でもしょうがないではないか。やろうと思ってもできなかったのだから。
阿止里さんは私の表情をじっくりと観察している。
暴こうとしている目だった。彼の放った言葉がどれくらい私を揺るがしたか確認するように瞬く。
それから独り言のように呟いた。俺はおまえを知る必要がある。
「傷つきたくないからと、相手にはさらけ出さずにいるんだな」
そうかもしれない。わからない。
「おまえの本心をよこせ。おまえに期待などしていない俺は、おまえに幻滅することもまたない」
幻滅、という言葉はまるで剃刀のように柔らかいところを切り裂いた。なぜだろう。傷つくということは、私はそれを恐れていたのだろうか。
……ほんとに、幻滅しないの
「しない」
どれだけ子どもっぽくて情けなくてしょうもなくても?
「そうだ」
ともすれば興味がないような声音に、私は心の底から安心する。そのとおりだ。期待がなければ幻滅もない。何を言っても赦してくれる、受け止めてくれる。阿止里さんにほとんどすがるような自分の声は、川辺の月花の声に似て響いた。
ほんとは、と私は目を閉じる。
(私だってそうしたい。みんなみたいに自由に心を解き放って、好きなだけ相手を求めて、傷ついたときには泣き喚きたい。お父さんにもお母さんにも、もっと抱きしめてほしかった。何もしなくてもいい子ねかわいい子ねって、存在自体をただかわいがられたかった)
スーパーでひっくり返って地団駄を踏む子を冷めた目で見ながら横切った母。もし私が同じことをしたなら、彼女はとう反応しただろう? あの子のお母さんのように、仕方のない子ねと、呆れながらも許容をしてくれただろうか?
(恋だって、何も言わなくても私がくっつきたいとか嫉妬してるとか察してほしかった。別れるときだって、人目をはばからずに追いすがりたかった。伝わってなかったとしても、私はちゃんと)
ちゃんと好きだった。
こんなふうに伝えたいと思ったことや、プライドとか人目を気にしてできなかったことは澱のように沈殿していたのだと、はじめて気づいた。大人だからとか、感情的になったらださいとか、いろんなやらない理由をつけて閉じ込めた願望は腐敗して発酵し、いやな残りかすになっていた。
だって幻滅されたくなかったから。いい子とか、いい女とか思われたかったから。
でも誰に?
誰にいい子だと思われたかったのだろう。ちょっとわがままを言ったりしたくらいで、父も母も私に幻滅するだろうか。帰りが遅くなったことにすねたり、嫉妬したりする程度で彼氏は幻滅するだろうか?
大多数に愛されたいわけではなかったのだと改めて気づく。父と母と、友人とそして恋人と。それでじゅうぶんすぎるほどなのに。
「おまえが信じてなかっただけだろう」
その通りだ。私が彼らを信じて、信頼の上にひねくれのない、適切な甘え方を表に出せば、きっとなにひとつねじくれることもなく、また違う生き方をできていたのかもしれなかった。
阿止里さんの言うとおりだ。私はうつむいて力なくつぶやく。
(私はきっと不完全なの。阿止里さんが言うように、誰かを信じることができない。みんなと違って、信じようと思えば受け止めてくれる人たちばかりだったはずなのに。そして信頼のないところに、ほんものの交流は生まれない。心底から求めて求められることに憧れながら、それができないのは先に信じて飛び込む勇気のない私のせい)
ネット上ではいろんなものが飛び交っている。感情的になるのはださくて、いかに冷静で的確な言葉を言えるか、言えたものが勝ちみたいに感じられるときがある。
じゃあ感情的になるのは間違っているのか? そもそも人間は、そういういろんな感情を持っている生き物なのに。正しく、適切に発露されるべきたくさんの想いはねじまげられて行き場をなくしていないか?
かと言って現実の生活でそんなふうに行動できるはずもなく、私はその矛盾を抱えて、みんなにぶつけただけではないか。
脳裏をみんながよぎる。ギィやユーリオットさん、月花にナラ・ガルさん、そしてアレクシス。言いたい放題言っておいて、私のこのざまは何だ。信じたいと思いつつ、本当には誰も信じてこられなかった私が、よくもまあ偉そうに彼らを叱咤したものだ。
顔から火が出るような羞恥、情けなさに私の頭はほとんど沸騰している。
阿止里さんはそんな私をじっと見ている。
違うな、と首を横に振る。
「完全さなどない。それを言い出したら誰だって不完全だ。神以外はな。おまえの哀れなところはそこではない。何もかもを、始める前に諦めていることだ」
そうかもしれない。そうだったかもしれない。両親を友人を恋人を、信じたいけど信じられないまま。信じる努力を投げ出したまま。
「でもそれだけではないのだろう?」
どこか宥めるような声音に、そっと背中を押されるように、そうだ、と私は思い直す。
今は違う。
みんなにもらった純粋な気持ちをかき集め、なけなしの勇気を振り絞って自分を鼓舞する。
今はちがう。私は人生でたぶんはじめて、自分をきちんと信じている。日本に帰るということを諦めず、ぜったいに帰れると信じている。そしてそれにともなって、今までどおりうわべだけで深く関わらずにいようとした態度を、ギィとの出会いで改めた。そこから出会ったみんなに対してだって、そのときそのときの私なりに、全力で信じていい未来につながるように模索した。
だからこそ、みんなも私を少なからず信じてくれた。私はそう感じる。そしてその信頼は、私が自分を信じる手助けになる。
その努力は、今までしたことのないものだ。人生で初めての種類の努力だ。
きっとこれは私にとっても変化の兆しなのだ。
だとしたら私も変わることができる。ユーリオットさんや月花、ナラ・ガルさんやアレクシスが変われたように。傷つくことを恐れてはじめから諦めていたところから、抜け出して再生することができる。
怖いではないですか、と震えていたアレクシス。ほんとだね、信じるって、こんなに怖いんだよね。
ただその怖さの先に、次元の異なる深い交流が産まれることも知ったから。
視界がぼやけて、私は泣いているということに気づいた。たぬきの瞳にも涙腺の機能はあるのだ、と驚きながら、自分のための涙にもっと驚く。
弾力を失いつつある私の心、もう何かに心を震わせることなんてないのだろうとぼんやり生きていた私なのに、まだ自分のために泣けるということが純粋に嬉しかった。
私はまだやっていける。
そう思えて、私は心から安心した。
阿止里さんは静かに私を見ている。そして私は、彼があえて私を取り乱させる言葉を選んだのだと気づいた。
まんまと吐露させられたのだ。これまでずっとひた隠しにしてきた私の後ろ暗いところを、阿止里さんはすぐに見抜いたあげくに吐き出させた。私は悔しくなる。
でもまあ仕方ないか、とも思う。
ククルージャのあの夜、彼が私の名前を誰よりも正確なアクセントで呼んだあの夜から、こうなることは決まっていたのだろう。




