13.立つ鳥跡を濁さず、つまりは縁切り
ぐったりしながらも薄ら笑いしている皇、べったりと床に流れている血、しっかりとたぬきを抱きしめる阿止里さん。
そりゃ一国の皇の寝室がそんなことになってたら、みんな固まるよね。
「……阿止里、おまえはいったい何を抱えているんだ?」
多々弥手の胡乱な声にも納得だ。私の存在を知らない人たちからすれば、なんで皇の寝所にたぬき? となるのは当然である。
私は声を出そうとしたんだけど、のど元がひゅうひゅうしていて、おまけになんだか寒気がしてきてとても声が出せない状況だった。
ただ、阿止里さんに誰も傷つけて欲しくなくて必死に目で訴えた。
阿止里さんはそんな私に、まだ迷うように眉根を寄せてから目を逸らした。納得したのではなく、あくまで問題を先送りにしただけというふうだった。
「それにその血は……父上、ご無事で」
最初に動いたのは多々弥手だ。私と阿止里さんなどいないかのように皇のそばへ滑り寄り、寝台にしがみつくようにして皇の手をとった。
多々弥手は父親を敬愛し、失うことを恐れているみたい。志比もまた小走りに駆け寄る。ちらりと私を横目で見て多々弥手のとなりに膝をついた。
「ずっとお眠りになられていたのです。お気づきになられたと聞き、この多々弥手、山向こうの那の視察より戻ったところです。ご気分はいかがですか?」
真摯な声。でも皇はそんな息子からの気遣いなどどうでもいいようだった。阿止里さんと命のやりとりをしているときはあんなに目を爛々とさせていたのに、いまは別人のように目を伏せている。
そんな様子に多々弥手も志比も傷ついたように口をつぐむ。私はいいかげんこのろくでなしの人間にひとこと言ってやりたかったが、すさまじい寒気で頭が回らない。
阿止里さんは私を見て眉をひそめ、侍女が抱えていた布を無言で取り上げる。侍女は目を瞠って口を開けたけど、結局なにも言えないようだった。
その布を私の傷口に押し当てるようにしながら縛りあげる。きゅっと締められる感覚に吐き気が増した。口から内臓出てません?
そのまま無言で私を抱え、さっさと部屋を出て行こうとする阿止里さん。
皇がその気配に目を開く。待て、という低い声が部屋に響く。
「阿止里」
皇の言葉に多々弥手は頬を張られたように硬直した。こちらを見る視線には、嫉妬と怒りがあった。
阿止里さんは立ち止まって振り返る。
「あんたに聞きたいことは聞けた。俺は今後いっさい、この那に関わることはない」
皇は目を細めた。少しだけ惜しむように見えたのは、私にだけだったのかもしれない。わからない。それから意趣返しのように口元をゆがめる。
「血から逃れることはできない。おまえは私に似ている。とてもよく。いつかそうと知るときが来る」
呪いのような言葉だった。私はいらんこと言うなと、皇になにか言ってやりたかったけど、やっぱり言葉なんてとてもじゃないが出せないのだ。勝手に身体ががたがた震えている。
阿止里さんは背中に投げられたその呪詛を歯牙にもかけず、ふたたび部屋を出て行く。
皇は完全に興味を失ったようだった。そして今度こそ目を伏せ、決意ある沈黙に沈んでいった。
まとわりつく多々弥手の視線をうっとうしく思ったのだろう。阿止里さんは眉を寄せ、おそらくは面倒ごとを避けるために言い放つ。
「皇位になど鼠の糞ほどの興味もない。俺はこれから遠くへ行く。二度とこの地を踏むことはない。あんたたちとも、何一つ関わりになることはない。なぜならその筋合いなどないからだ。それでいいな?」
言い方。
巻き込むな、と言外に念を押す阿止里さんに、多々弥手は逆上しかけたようだったが志比が慌てて止めた。
「行ってください、あ……阿止里。健やかで」
たぶん志比は兄上、と呼びかけて訂正したんだと思う。皇家と関わらないという阿止里さんの絶縁の意志を汲んだのだ。そっと私に視線を流す。感謝と気後れがないまぜになった目だ。多々弥手を支え、いい補佐官になるだろう。羽田度さんと同じで苦労性の。
多々弥手も繊細で短気なふしはあるけど、民への思いやりはあるらしいから、きっといい皇になるんじゃないかな。たぶん志比の舵取りしだいだけど。
ばいばい、と志比に言いたかった。だけどたぶん言えないまま、私は意識を失った。
※
なんだか船酔いをしている。
私が目を覚ましたとき、気分は船酔いグロッキーそのものだった。
目を開けば相変わらずモノクロの世界。緑色のはずの草はただの灰色、茶色のはずの地面や木の幹は濃いねずみ色。
人間の視界、色とりどりの鮮やかな色彩が恋しい。
まだたぬきの中にいるのだとうんざりして、それからぼんやりと見上げれば、神の彫刻のように美しい輪郭、通った鼻筋、みずみずしい首筋のラインが視界に映る。
(……きれいだなあ)
ただの外見の美しさだけではない。内側に、彼の確固たる何かがあって、それが肉体といういれものを通してさえも輝いて見えるのだと思う。
でもその何かとは何なのだろう。
うむむ気になるとじっと見ていると、視線を感じたのか阿止里さんはふと私を見下ろした。
見下ろした?
(うへっ)
「たぬきらしい間抜けな声を上げるんだな」
阿止里さんは呆れと辟易の半々の声音で呟いた。
そりゃ、間抜けな声も出るでしょ。
たぬきの私は、阿止里さんのたくましい胸板で抱っこ紐あかちゃん状態で運ばれていたのだ。
風呂敷のような布地で上手に密着するようにすっぽり結ばれているようだ。ひええと思っていると、おなかのあたりがもぞもぞした。丸まっていた拓斗がむにゃむにゃとくちばしをのぞかせて、あくびをする。
(主さま、お目覚めで。……まだまだ着かないようですぜ、もう一眠りといきやしょうや)
どこにいても図太いあんたみたいになりたいもんだ。
※
阿止里さんは湯守へ向かっているとのことだった。
もちろん私はそれを聞いて歓喜した。狂喜と言ってもいい。血の吐く思いで求めていた温泉の地へ行けるのだ。
あまりの興奮に阿止里さんと拓斗は引いていた。鼻息荒く私はたんぱく質じゃなくて温泉の神だった、と言えば揃って無視された。
たぬきの私は出血が多く、けっこう危ない状態だったみたい。拓斗ができる範囲の魔法で癒してくれて傷口は塞がっているけど、失われた血はどうしようもない。
いまもかなりの貧血気味で、酸欠みたいに息苦しい。
危篤状態だったせいか、なんだかいろいろな実感が失われていた。
抱っこ紐の船酔いかつ貧血という状況で思考がまとまらないまま、阿止里さんにとりとめもない会話を投げかけたりした。それこそ部屋で猫の拓斗に話しかけるみたいな気安さで。
(阿止里さんは未来で、いちばん最初に奴隷の私を買うって言ってくれたんですよ)
「へえ」
(でもそのくせ、ほかのみんなよりも私への距離感はいちばん遠くて)
「ふうん」
(いつも観察するように、推し量るように見ているのが不思議でした)
「そうか」
興味のかけらもないという生返事。でもいいんだ。阿止里さんはいま、ちゃんと生きて自分の意志で歩いている。
「……ほかのみんな?」
珍しく阿止里さんが問いかけてきた。問いかけというよりも呟きだったかもしれない。
私はそうか、と時系列を並べ直す。彼はまだ未来でギルドに仲間で登録して働くなんて夢にも思っていないのだ。
(そうですよ、阿止里さんはほかに三人の男の人の仲間がいるんです。砂漠の町で、四人で一緒に働くんですよ)
揺られながら、ククルージャを思い出す。強い太陽と乾いた風が懐かしい。夕方の日差しになったころ、みんなでドアを開けて帰宅する。それを待つ日常。
(あっ、あと、阿止里さんの一人称は俺じゃなくて私でしたね。落ち着いた大人の男の余裕を感じていました)
阿止里さんはたいして興味をそそられなかったのか、また沈黙に戻った。
日が暮れると大きな樹のふもとにうずくまり、火を絶やさないようにして睡眠をとった。阿止里さんは山歩きの方法と、保身のための遵守すべきいくつもの決まりを熟知しているようだった。
私は安心して揺られているだけでよかった。どこからか彼は水を調達してくれたし、食べやすい果物も与えてくれた。わさわさ蠢く毛虫をたっぷり与えられた拓斗は完全に阿止里さんに懐き、私が回復のために寝ている間は阿止里さんとあれこれ話をしているようだった。
またある日にはこんな会話もした。
(未来の阿止里さんはとにかく優しく紳士で素敵で……)
意地悪というか、俺さまな部分が垣間見えたのははしょっておく。
阿止里さんはもはやデフォルトになりつつある無視をするかと思いきや、ちょっと待てと珍しく言葉をかぶせてきた。
「まさかと思うが、未来の俺はたぬきに惚れていたのか」
そう言われて私は言葉に詰まる。最低限の好意はあったと思うが、とくべつな感情を寄せられていたかと言えばわからない。
奴隷だった私を買い大切にしてくれていたが、それは私が彼らを人間扱いしていた部分が大きいように思える。
でもなんとなく、目の前の阿止里さんには大きく出たいような気持ちもあった。
(そうです。阿止里さんは私にべたぼれでした)
「べたぼれ」
(かたときも手放したくないというふうでして)
「信じたくないな」
(それはもうめろめろだったわけです)
「俺はゲテモノ食いだったのか」
(しっ、失礼な!)
「ああ、ゲテモノではなくケモノだったな。今から矯正しておきたい嗜好だ」
(だから私の本当の姿は人間なんですって。とっても! 可憐な! 女性ですよ)
阿止里さんはうるさそうに眉をひそめた。じっさい、抱っこひも状態で胸のあたりできゃんきゃんまくし立てられたら耳に響きそうだ。
「わかったわかった。では俺が心を奪われる可憐な女性はどのような容姿をしているんだ?」
私の見た目。
まともな鏡というものがないこの世界、きちんと自分を見れる機会などほぼなかった上に、ここのところはたぬき生活だ。そのせいで一瞬自分がどんな見た目だったか忘れそうになる。その事実にぞっとして、慌てて懸命に思い出す。
「肩までの黒髪と、黒い目の……ほかはとりたててとくべつなところはない二十台後半の乙女です」
「しましまの尻尾の生えた乙女?」
尻尾は生えてないってば!
そしてそういうふうに何日か過ごしたあとで、あの崖に至った。




