12.あの月夜、蜜のように輝いていたもの
なんということを、という震える声。
阿止里さんは指でまぶたを強く押す。頭の芯が痛むときのように。
皇はそんな阿止里さんの様子など意に介さず問いかける。
「照り葉はどうした? おまえが育っているということは、母の役割を果たしているようだ」
「……その谷に身を投げた」
皇がかすかに眉を上げた。
「いつ」
「あんたの側近が迎えにきた夜」
皇は少しだけ目を細めた。ずっと意識がなかったから、時間の感覚を取り戻せていないのかもしれない。
「俺の成人が近いからと、そしてあんたが死にそうだから跡継ぎの候補として由伊津へ来いと、あんたの側近が迎えに来た。背の低い、痩せた男だ。母は半狂乱で瓢のことを問い詰めた。あんなに感情をあらわにする母を、俺ははじめてみた。何を話しているかは聞こえなかったが、母は声を荒げながら男と話したあと、呆然とその場に座り込んだ。俺が何を言っても動かなかった。そしてしばらくして、橋へ走りそのまま身を投げた」
私の脳裏に、激しく揺れる吊り橋がよぎった。板はかたかたと音を立てて、女の人が縄を背にする。彼女は空を仰ぎ見ながらゆっくりと背を反らす。
俺の目の前で。と、阿止里さんの震える声にはっと我に返る。
俺は、と振り絞るような声。
「俺はずっと聞きたかったんだ、俺を見る母の目、その理由。父の話。それがこれか? あんたは皇だかなんだか知らないが、ひっそり山奥で暮らしていた夫婦の夫を殺し、女を犯し、彼らの子どもを質に自分の子どもを育てろと脅した? あまつさえ舌の根の乾かぬうちにその子を投げ捨てた? あの深く暗い邪悪な谷に? 母の人生とは何だ。いったい俺は――」
阿止里さんは身体を揺らした。あふれる激情が渦巻いて、彼の中から情念がにじみ出てくるようだった。
そのとき、廊下の奥、役場とつながるほうが騒がしくなってきた。耳をそばだてれば、近づいてくるいくつもの荒い足音がどんどん大きくなってくる。遠くのほうで諌めるような声がして、足音が少しだけ穏やかになる。
阿止里さんはゆるりと顔を上げた。その横顔からは、表情というものがすっぽり抜け落ちていた。
「――あんたを殺す」
ほう、と皇が目を細めた。口元がうれしそうに弧を描く。
「私を殺すか。本当によく私に似ている」
「ふざけるな。あんたになど、何一つ似ていない」
「似ているさ。私もまた親殺しをして皇となった」
「俺は皇になどならない。あんたの息の根を止めるだけだ」
そうかな、と皇は首を傾ける。
「まわりが放っておかないだろう」
皇は愉しげだった。浮かべている表情はまったく正反対なのに、顔かたちがどうしても似ているのだ。皮肉なことに。
湯守で意図せずいろいろな知恵を身につけてしまった阿止ふ里さん。皇によく似た容姿と才気。にじみ出るゆるぎない意思があふれる瑞々しい身体。頭を垂れて、思わず従っていたくなる雰囲気。
彼のそばにいれば間違いないのだと、思考を放棄して盲目的に追従できる安心感。血筋というものなのだろうか。阿止里さんが望むと望まざるに関わらず。
皇に心酔する側近たちがもし阿止里さんを見てしまったら。彼の堂々たる立ち姿を忘れられずにいられるだろうか。
「とことんまでろくでもない血筋だ。あんたと、あんたの血を引くものはすべて害悪だ。全員俺がこの世から消し去ってやる」
破壊神降臨の予言である。
皇は表情を崩さない。むしろ歓迎するように目じりのしわを深くする。
阿止里さんはその様子にさらに苛立ったようだった。着物の前身ごろから短剣を取り出し鞘を投げ捨てる。乾いた皮と木の床がぶつかる軽い音。大股で寝台に歩み寄り阿止里さんは振りかぶる。鉄ではない、でも確かな金属の光が鈍く陽光をはじく。私はその光に我に返る。
(だめ!)
思わず飛び出す。人間だったらしがみついて止めれるけど、こちとら抱きつけもしないたぬきだ。どうしたらいいかわからないまま、皇の寝台に飛び乗って阿止里さんと向き合う。
たぬき、と阿止里さんがはっと息を吐いた。憤怒そのものの顔。正面から向けられている怒りに、内臓が絞られるよう。
その顔は誰かに似ていた。
ギィだ。
思えばギィもまた、長い憎しみを抱いてそれを解放しようとしていた。
「なぜ止める。こんな男、生かす価値などない」
地の底から唸るような声だった。阿止里さんから向けられる感情の強さに目を逸らしたくなる。なんとかこらえながら、違う、と私は頭を横に振る。
(この人のためじゃない。だって殺したら同じになっちゃう)
阿止里さんは理解できない、というように眉根を寄せた。
(皇は身勝手にも、殺したいからと照り葉さんの夫を殺したんだよね? 阿止里さんが、皇を殺したいからって殺せば、同じになってしまう。邪魔だからって殺したら、この人と阿止里さんは同じ土俵に立ってしまうことになる)
人を殺すということは不可逆だ。一度超えてしまえば、二度と戻ってはこられない。
阿止里さんはぴくりと眉間にしわを寄せて口元を歪めた。
「……だとしても、生きる望みなどもはやない。俺がこの男を殺せば、多々弥手たちもまた俺を殺すだろう。望むところだ」
どうだっていいと吐き捨てる。
阿止里さんはずっと苦しんできたのだ。出口の見えない暗く冷たいところから、ようやく自分の気持ちのぶつける先を得て、そうしてすべて終わりにしたいのだ。
でも私は、そんなのいやなのだ。
だけどどうしたらいい。数日前に出会ったたぬきの話なんて、幼いころから傷つき続けてきた阿止里さんに届くはずがない。
ギィとは決定的に違うことがある。ギィにはニグラさんがいた。救うべきもの、清らかに心の中に輝くもの。
阿止里さんの日々にもあっただろうか、砂漠のように荒んだ心のなか、一ヶ所でも欠かさず水を与え続けられる存在が?
いったいどんな日々だろう。唯一頼れる大人である母親は、阿止里さんにどんな視線を向けながら過ごしてきたのだろう。夫を殺され子を奪われ、あまつさえその仇の子を孕まされ、育てなければならない日常とは? すべてを投げ出したくても瓢さんの存在がある。それは希望か枷か、どちらだったのか。つかまり立ちを始めたころの阿止里さんをやさしく抱きしめることはあっただろうか。やんちゃな幼少期、頬を合わせて目を覗き込み微笑む瞬間は?
どんな時代、どんな場所であろうと、帰りが遅くなると心配してくれる人が必要なのに。
私は想像力を意志の力で遮断する。いまそれを考えたところで目の前の阿止里さんの激情を止めることはできない。
わずかな間でいい。憎しみにがんじがらめになった彼の感情を引き剥がすには――。
そのとき私の脳裏をよぎったのは、藍色の月夜にとろりと流れた蜜だった。
ああそうか、と息を吐いて私は目を閉じる。
流されなければならない、と阿止里さんは言った。
彼はとっくに流してくれていたではないか。
顔を上げる。息を吸って、お腹に力を入れて、それから阿止里さんの持っている短剣に、私は自ら飛び込んだ。
予期しない行動に驚いた阿止里さんは一瞬硬直した。
熱が、左の肩口からおなかのあたりに走る。
阿止里さんは目を瞠る。
黒曜石を磨いたような美しい瞳だ。吸い込まれそうに清らかな輝きの瞳だ。ここまで純粋な驚き顔は初めて見たかもしれない。高校生の男の子って感じで、すごく魅力的だ。
そうだ、彼はまだたったの十七歳だ。どれだけ優秀でカリスマ性があってリーダー気質であろうと、車の免許だって取れない歳なのだ。保護者から庇護されて慈しまれているべき年齢にもかかわらず、まわりの誰からも省みられずに、傷口からだらだらと血を流し続けている少年だ。
(……血を見せ付けてきたんだよ)
「何の話だ」
なんとか着地したものの、ふらりとよろける私を慌てたように抱き込んで、左の前脚を高く掲げられる。怪我の具合を確かめているようだ。
(未来で、私がすごく荒んで自棄になったときに。阿止里さんは自分で自分の左腕を切り裂いて、血を見せ付けてきたの)
「そんなおろかなことを俺はしない。おまえ、自刃しようとしたのか」
(そして現実なんだよって教えてくれた。私にとってはばかげたこの異世界転移っていう現象が、切れば血が出てひりつくほどに痛みのある、ほんとの世界だよって教えてくれた)
「何のためにーー俺を、止めるために? 異世界? 何のことだ。ああもう、しゃべるな。血が止まらない」
そうだ、と私は思い返す。あのときに私は初めて実感を得たのだった。
社会保険料と厚生年金を天引きされながら家賃と光熱費と携帯代を払って貯金なんて夢のまた夢だよと嘆きながら働いていた私が、この異世界に間違いなく来てしまったという事実に対する実感を。
そしてそんなばかげた現象のなか、私を保護して大切にしてくれるあなたたちの存在を。
どれだけありがたく、身にしみるものだったか。きっと一生わからない。
布を引き裂く小気味いい音がした。そこに心臓があるように脈うつ傷口に巻きつけられる。
(何をしてるんです)
「血を止めるに決まっているだろう」
(どうして血を止めようとするんです)
「そうしないと死ぬだろうが」
(どうして死んだらだめなんです)
「どうしてって」
阿止里さんは動きを止めた。なんとか見上げると、珍しく言いよどんで続く言葉を捜すように口を開けている。
「……目覚めが悪い」
そんなに不本意そうな顔しなくても。
痛みをこらえて私は笑う。
(いま阿止里さんが助けている縁子っていう私は、これから先の未来で、阿止里さんに救われたの)
不思議なものを見るように、阿止里さんが私を見る。
「救ったって? 俺がおまえを?」
私はうなずく。
「おまえは、俺に救われた?」
英語の受動態の例文かな?
「おまえは」
言葉を切る。迷うような沈黙のあとで、
「……俺がいて、よかった?」
震える声。
初めて見る、迷子のような顔。はぐれて寄る辺を失い絶望し、蜘蛛の糸にすがろうとした男よりもなお、何かを希求する瞳。
阿止里さんの生きる意味がないというなら。
(未来の私を救うために生きてください。それが阿止里さんの生きる意味)
阿止里さんは目を見開いた。信じられないものを見る目だ。ウミウシが手袋を編んでるのを見てもここまで驚かないんじゃないかってくらい。それから唇をかみ締めて、ゆっくりと目を細めてーー私を睨みつけた。
その目! 人生で対峙したもののなかで最も鮮烈な瞳だった。視線だけで切り刻まれそうだ。たぬきのタタキになってしまいそうなほどだ。
彼の中にある秤が揺れている。顔がくしゃりと歪む。飢え死にしそうな人が、世界一まずい食べ物を差し出されたみたいな顔をしている。
その巨大な葛藤のせいか、彼の全身が小刻みに震えているのが、抱っこされている今よくわかった。一瞬のようにも、永遠のようにも感じられる。時間が、確かに引き伸ばされる。
阿止里さんが何かを言おうと身じろいだとき、堪忍袋の緒が切れたとでもいうように廊下から騒音が爆発した。
「――父上!」
蹴破る勢いで多々弥手が飛び込んできた。
「取り込み中だ!」
阿止里さんが鋭く言い放てば、多々弥手と側近たち、ついでに志比と羽田度さんも、みんな目を白黒させた。
隣の巣穴に間違って入って怒られたかわうそみたいに。




