11.親子の会話
志比が開けてくれた隙間からすべるように部屋へ入る。開いたときと同じように、扉は音もなく注意深く閉められた。
阿止里さんの背中が見える。つややかな黒髪のポニーテール。すらりとした立ち姿。
ずっと牢の薄暗闇のなかで窮屈そうに身体を折りたたんでいたところしか見ていなかったけど、こうして明るい日差しのもとで見れば確かに高校生くらいに見えた。成人前、つまりまだ十七になる前だという。
長身である背丈はほぼ伸び止まっているけど、身体の厚みが追いついていない。成長途上の若木を思わせる。伸びやかな四肢にはしなやかな筋肉がついているようだった。
湯守の仕事はそれなりに身体を使うだろうし、何より湯治客の中には高位の剣客だって多いだろう。未来の阿止里さんの腕前を思えば、彼らから手ほどきを受けていることは疑いようがなかった。
それにしても堂々とした立ち姿だった。はだしの足の裏でしっかりと地面を踏みしめ、そこから大地のエネルギーを吸い取ってでもいるのかと思うほどに、健全な生命力を放っている。型を取って銅像にしてもいいくらいで、私は場違いにもほれぼれとしてしまう。
着ている服こそ粗末だけど、それすらも彼の輝きを曇らせることはできないみたい。ブランド服とか着せたらめちゃくちゃプロモーションに使えそう。
そして阿止里さんの向こう、寝台には皇がいた。さっき私と会ったときは横たわっていたけど、今は上半身を起こしている。先ほどよりもずいぶん具合が悪そうだ。顔色は青く、唇はひび割れ、別人のように小さく見えた。
しばらくの間、沈黙が続いた。窓の外から、葉擦れのさやさやという場違いにさわやかな音が届くほどだった。
皇は阿止里さんを見て、阿止里さんは皇を見ている。阿止里さんの表情はこちらからは見えないけど、皇の目元には愉快そうなしわが浮かんでいる。
「――おまえが阿止里か。なるほど、口もとが照り葉によく似ている」
沈黙を破ったのは力ない皇の声だ。それでも口調は明るかった。懐かしむように、歓迎するように。
「そのほかは私にとてもよく似ているようだ。年のころにも覚えがある。私の息子だな」
「そのようだな」
――吐き気がする。
そう言い捨てた阿止里さんの声は低く凍えている。彼の声が床に落ち、そこから冷気が広がるみたいだ。
声に込められていたのは紛れもない憎悪。私はびっくりする。
阿止里さんは初めて会った皇を、お父さんを憎んでいる?
「ずっと知りたかった。聞きたかった。あんたは母に何をした?」
皇はその問いが意外だというように片眉を上げる。
「照り葉はおまえに話していないのか」
「一度だけ尋ねたことがある。だが、そのときの母の顔……。そんな顔をさせるくらいなら、彼女には二度と聞かないと決めた」
皇はふうん、とわずかにあごを上げた。彼の顔色はほとんど土気色なのに、表情は愉しげで、目だけが怪しく強い光を放っている。そのギャップは異様だった。
「照り葉と私の話を聞くこと、それがおまえの望みか」
「そうだ」
唸るように阿止里さんは答えた。
阿止里さんがどんな表情をしているのか見たくて、そうっと何歩か動く。阿止里さんの斜め後ろ、横顔がわずかに伺えた。寄せられている秀麗な眉。
いまさらながら私がこの場に居合わせていいのかどうか迷ったとき、いいだろう、と皇が話し出す。
「私が皇になるまえ。由伊津はまだまだ成長途上であり、一方でまわりの那は成熟しつつあった。隙を見せれば簡単に飲まれてしまうくらい不安定だった。そんななか、当時の皇である父が狂った。息子たちや娘たちをみんな殺そうとしたのだ。私は乱心した父とも、また後継者の候補である兄弟たちとも激しく争った。信頼できる側近も、幼いころから育ってきた乳兄弟も、ほとんど命を落とした。私は傷を負った。偶然逃げ込んだ先が、照り葉のいた湯守だった」
視界をくゆらせる湯気の向こう、顔もわからない照り葉さんが驚き顔で負傷した皇と出会う場面が、私の頭をよぎった。
「照り葉は私をよく看病した。しばらくして腕の傷も癒えたので、私は照り葉を私のものとした」
ん? 文の繋がりかたおかしくない?
私がちょっと固まっていると、皇の言葉尻に噛み付くように、阿止里さんが鋭く言い放った。
「だが母には夫と乳飲み子がいた」
えっ、どういうこと?
私が完全に理解する前に、話が進んでいく。
皇はなんでもないことのようにうなずいて言葉を続ける。
「そうだ。だから男を剣で刺した。赤子は奪った。聞け阿止里。なぜならその時の私はとても冴えていた。あの地は神気が濃いだろう? そのせいだろうな、照り葉と私の子どもができると、天啓のような確信もあった」
当たっていたな、と満足そうに微笑む。
「……母の子どもはどうした」
「子ども?」
「お前が奪った赤子のことだ」
ああ、と明日の天気のことみたいにあいづちをうった皇は、どうだったかなとちょっと考えて、思い出したようにうなずく。
「私との子どもができていたとして、それを成人まで育てたら返してやると言った。できていなければそうとわかったときに返してやる、というような内容だったな。阿止里、おまえはもうすぐ成人なのだな」
よく育った、とほれぼれと皇は息子を見た。阿止里さんも皇を見ている。この世の汚物を煮詰めたものを見る目。
「瓢をどうしたと聞いている」
ひさご? と皇は首を傾けた。
照り葉と夫の娘だ、と阿止里さんが低く言えば、皇はそうだった、とうなずいて言葉を続けた。
「ほら、湯守の手前に長い吊り橋があるだろう。あの真ん中あたりから」
皇は確か、と斜め上を見上げて言った。
「谷に投げた」




