10.いまがどれほど特別な時か
(おうさまって、プレッシャーはんぱない……)
飛び移った枝がぼっきり折れて、あたふたしながら木の幹に爪を立てて、そのままぞりぞりと崖下まで降りた私は大きく息を吐いた。
なんだあれ、人の上に立つって無意識レベルで威圧しないと気がすまないのか。
終始蛇ににらまれた蛙の心地だったので、青空の下さわやかな緑に囲まれている今、開放感がすさまじい。
(あの人間がいる空間というだけで、湿度も室温も上がる心地になりやすな)
常人とは違う拓斗ですらそう感じるらしい。ほんとそれ。気圧が高い。空気圧が何倍かにはなっている。
うーんと前脚を伸ばし、腰まわりまでストレッチをする。猫が立ち上がるときによくやるあれだ。筋がほどよくほぐれる気がして気持ちいい。
さてどうするか。とりあえず都へ降りていって、うまいことおなかを膨らませるかと笹の茂みを分け下ってみる。林の隙間からはちらちらと由伊津の大通りが見え隠れしている。
(主さま、収穫はあったので?)
拓斗が飛びづらそうにしながら頭に載ってきた。木々の梢が生い茂っていて、羽ばたくのに一苦労している。
(うーん、収穫。どうだろ……)
知りたかったのは阿止里さんのことだ。父親だという彼から息子の阿止里さんのことを聞きたかったのに、むしろ皇は阿止里さんの存在を知らないという。話が不思議に転んで聞けたのは、皇の恋の話。
皇との会話を思い返す。
ひとりの女性に執着したという。それは阿止里さんに関わりのあることなのか?
(主さま、志比とやらがおりますぜ)
えっ、どこに?
(あの渡り廊下。急いでいる様子でさ)
拓斗が首を向けたほう、王宮を見上げれば、確かに渡り廊下を急ぎ足で歩いている志比が見える。
私はちょっと迷ったけど、再度茂みを駆け上った。
(志比!)
「なに……、たぬき? おまえユカリコか、どこから来た?」
廊下を渡り終わる志比の前に飛び出せば、目を瞠りながらも慌てたように抱き上げてくれた。志比の肩が上下している。どこから走ってきたのだろう。
(騒がしいの、どうしたの?)
「ずっと眠られていた皇がお目覚めになった。みんな慌てている」
えっ、皇さまって意識不明だったのか。
じゃあ私はちょうど、たまたま、まさしく、彼が目覚めたところに居合わせたってこと? すごいタイミングだなと思いつつ、あのとき侍女が慌てたように飛び出していったのを思い出す。
(みんな慌ててるって)
「決まっていなかった皇の後を継ぐものをはっきりさせるためだ」
(多々弥手という人なんじゃなかったの)
志比はものわかりが悪い、とでもいいたげに顔をゆがめた。そっちの事情を知らないんだからしょうがないでしょうよ。
「皇のいちばんの側近が連れてきた阿止里兄上の存在だ。皇と多々弥手兄上、それぞれがどうでるかわからない」
志比の真剣な面持ちに、拓斗は鼻息荒くぴょこんと私の背中から顔をのぞかせた。
(主さま、これは家騒動というやつですぞ。ドラマのようでがぜん心躍る展開になってきやしたな!)
こいつはほんとに、魔術師なのか? ただの昼ドラ好きなニートに認識改めるぞ。
※
志比に抱っこされながらふたたび皇の部屋へ向かえば、扉の前には見知らぬ男性が立っていた。
「羽田度!」
志比は驚きの声を上げた。羽田度と呼ばれた男性は背が低く痩せている。目を開けているのかわからないくらいの一重で、やつれた面立ちの中にも思慮深さが見えた。
「志比さま、皇がお目覚めになりました」
「そう聞いている。おまえは今までどこに行っていた? 多々弥手兄上は?」
「私は多々弥手さまを腹立たせてしまい、幽閉されておりました。さきほど私の手のものが探し出し、戻ってきたところです」
着替えるひまもなかったのだろう。着ている服は立派な仕立ての官吏服だけど、泥や汚れにまみれていた。みずらのように結い上げてある髪もあちこち乱れている。
「腹立たせた? いったい何をしたというのだ」
「阿止里さまをお迎えするため動いたことです。皇の病状から、皇と阿止里さまを引き合わせる必要があると判断しました。しかし私が阿止里さまのもとへ向かうことで、その存在が多々弥手さまの知るところとなりました。多々弥手さまは皇と阿止里さまを会わせることをよしとせず、私と阿止里さまをそれぞれ牢へ入れていたのです」
阿止里さんの存在を、皇は知らずに側近であるこの人は知っていたということか。
羽田度さんの顔色は真っ青だった。ずっと幽閉されていたのにいまもこうして側近の務めを果たしている。真面目で苦労性な官房大臣ってところなのかしら。
志比は情報を整理するように一拍の間を取った。
「……つまり、父上はずっと阿止里兄上の存在を知らずにいたということなのだな。羽田度、おまえは知っていたにも関わらず」
羽田度さんは沈黙した。志比に話すべきかどうか逡巡しているようにも見えた。それから思い切ったように視線を上げて、志比を見つめた。
「『子ができていようがいまいがどうでもよい。ただ成人する子がいる場合は引き合わせよ』。それが皇ご本人からの、十七年前の命令でした。阿止里さまはじきに十七になられるはずです」
どういうことだ。自分の赤ちゃんがいるとかはどうでもいいけど、そこそこ育ったならそれだけ知らせろってこと?
夭折した子の名前は覚えていない、と言った皇を思い出す。ワクチンも薬もないこの時代、たしかに子どもが成人するまで育つのはハードだろうけど、興味がないにもほどがある。
志比は眉をひそめたけど、何も言わなかった。皇の性格を知っているなら納得いくのかもしれない。
「それで、多々弥手兄上は」
「今朝がた、隣の那の視察に向かわれたと聞いています。ただ皇の目覚めを伝える遣いもいちばんの早馬で発ってしばらくたちます。じきお戻りになられるかと」
「中にいるのは、皇と阿止里兄上か?」
羽田度さんは首肯した。
「お二人の強い希望により、女官や護衛なども退席させられております」
羽田度さんが皇を心配する様子が声からわかる。志比は何か言おうとして、口を閉じた。
(志比、開けて)
志比は視線だけ動かして私を見下ろす。
「……いまがどれほど特別な時かわかっているのか? お二人が始めてお会いになっていて、それに――」
(わかってる。でもたぶん、私は立ち会わなければならない)
しゃべるたぬきにぎょっとして、慌てて止めようとする羽田度さんを、志比が手で制した。
そして志比は私の目をじっと覗き込んだ。まずい手札で思いがけずジョーカーを引いて、使うべきかどうか悩むときみたいに。幼いながらも全力で善い結果を求める目だ。彼の切れ長の瞳にたぬきが映りこんでいる。戸惑いとかすかな希望が揺れている。
大丈夫、と私はうなずく。
きっと私は、このためにきたのだ。




