9.えっけん、謁見、えっけん
これが一国の皇というものか。
私は完全に萎縮していた。寝台に横たわっているのは明らかに具合が悪そうな老人だ。にも関わらず、こちらを圧倒するような威圧感が肩にのしかかってくる。
両手を組んでおなかの上に置いている。私を見据える瞳には、病に苦しめられながらも鋭い光がある。
阿止里さんによく似ていた。造作だけではなく、他者を呑むような空気感も。
頭の毛から足の爪まで、じっくりと。たぬきの肉体なのに、入り込んでいる私本人を眺められているような心地になる。目を逸らしたくなるのをこらえて、私は何か言いたくて、でも何の言葉も出てこないことにじれったくなる。
かすかに饐えたような、病室独特のにおいがして、どんな人間も老いるということを思い出させてくれた。
(存在そのもの質量が常人とはまるで異なるのですな。支配者というものは興味深い)
拓斗が感心したように呟いて、私ははっと息を吐く。いつの間にか呼吸が浅くなっていたのだ。
(……おうさまってすごいんだね。ただ対面しているだけなのに、あと私は何も悪いことしてないのに、こっちが膝をついて頭を下げないとだめな気持ちにさせられる)
拓斗がくすっと笑った。
えっ、笑うところあった?
(主さまに形容させると、そのように身も蓋もない言い分になるんですな)
「それはすまないな。人間の道理などの外におわす神の遣いなのだから、膝などつかなくともいい。なにやらずっと寝ていたようで、意識がぼんやりしているのだ。何か話をしよう」
もう少しこちらへおいで、と皇の声。張り上げているわけでもないのに水の波紋のように身体を震わせる。太くて低く、響く声。
拓斗との会話は丸聞こえだったようだ。ちょっとばつが悪いような心持ちになりながらも、私はあいまいにうなずいて寝台へ近づく。
寝室はこざっぱりとして調度品も少なかった。寝台と、そのわきの小さな机、スツールのような丸い木の椅子。
さすがに皇の部屋だなと思うのは、床に広げられているじゅうたんや、丸い窓のわきに束ねられたカーテンなどへの豪奢な文様だ。光をきれいに反射しているから金色なのかもしれない糸で、深い黒(藍色かもしれない)の生地にこてこてと刺繍してある。色が見えたら目に楽しかったろうに。
窓の外はそのまま崖っぽくなっているみたい。窓といってもガラスなどは嵌められてなくて、丸くくりぬかれただけの穴とも言える。すぐ手の届くところに大木の葉っぱが揺らめいているのが見えた。
窓の対角にはバルコニーのように外に続くテラスがある。由伊津の市井の方向なのでで、見下ろせるようになっているのかも。
「部屋の見物は済んだかな? さて、人語を操るけもの。いったいどのような用向きで由伊津の皇のもとへきたのか」
横目でちらちらと部屋を眺めていたのがばればれだ。私はぺろりと鼻を舐めて(たぬきの舌は意外と長い)、そっと問いかけてみる。
(……あの、阿止里さんのことを聞きたくて)
すると皇は不思議そうに首を傾けた。あとり? と聞きなじみのない言葉のように繰り返す。
「さて、あとりとは誰のことだか。私にゆかりのある者か?」
(えっ、いや、おうさまの子どもだと思うんですが)
「私の子」
皇はゆっくりまぶたを閉じて、吟味するように沈黙した。
「さて、いったいどの子のことやら。夭折した子の名など覚えておらぬしな」
夭折? いやいや、生きてますって!
もしかして、皇は阿止里さんのことを――存在を知らないのか?
私はその可能性に思い至って、首筋のあたりがぞわりとする。
由伊津から遠い湯守で育った阿止里さん。
多々弥手に牢に入れられていた阿止里さん。
その多々弥手は次の皇の有力候補だという。
「なんにしても、語れることなどありはせんな。もとより子のことなど興味はない」
私は驚く。子どものことなどって言ったか今。
(興味はないって、あなたの息子なんですよ?)
皇は眉を上げる。肩をすくめたかったけど身体が重いからかわりに眉を動かしたというように。
「子のことならず、人に興味を持てない質でね。私が人に興味を持ったのはただの一度きりだ。神の遣い、おまえはその話を聞きたくてわざわざ参ったのか?」
その話? 皇が興味をもった人の話ってこと?
いや、そうではない。そうではないのだが、私は混乱していた。皇は阿止里さんの存在を知らず、それにもまして自分の子どもたちに、人に、興味がない? 一国のリーダーが人に興味ないってありなの?
(じゃあ、あなたが興味を持った人って)
皇はそうだなと呟いて、記憶に身を沈めるようにすうっと目を閉じた。ひとつ大きく息を吸って吐く。静かに口を開く。
「……雷に打たれたように。濁流に飲まれるように。絶対に私のものにしたいとただ一度だけ思った。生きているのだと実感したのはあの時がはじめてだった。この身にも、全身をあたたかな血流が巡っているのだと知った。それを戯れに、死に際の父に言えば、父は笑った。血筋だなと。父もまたただ一人の女に対してのみそう思ったという」
(恋をしたの?)
私がびっくりして聞けば、皇は笑った。恋か、と上機嫌に口元を上げる。
「恋とはおぞましいものだ。そんな言葉では言い表せない。とうてい、言い表わせるものではない。どのような言葉も、役に立たない」
恋がおぞましいもの? 皇の言うことは私の理解の外ばかりで、同じ言葉のはずなのにわかりあえる手ごたえがほとんどなくて困ってしまう。
それは執着なのか、妄執なのか。それとも愛なのか。
皇はとっておきの記憶を舌の上で転がすようにうっとりと目を閉じている。
「神の遣い。おまえは私の血を引くという阿止里に近いところにいる、ということなのだな」
会話の運びがわからないまま、私はうなずく。皇は私を見る。
「阿止里は私に似ているか?」
容貌、眼光、圧倒される存在感。すべてにおいて。
(そう見えます)
皇はゆっくりと目を眇めて私を射抜いた。もしそれが事実なら、と口を開く。
「私に似ているほど血は濃い。気をつけるといい。この血脈は、欲しいと思ったものは何をしてでも――必ず手に入れる」
父がそうだったように。私がそうだったように。
星の光を閉じ込めたように皇の瞳は輝いている。地鳴りのように低い声が、たぬきのひげの先を確かに揺らす。それは願望でも意志でもなく、ただの確定した事項を伝える声だった。
私は何を言うべきなのかちっともわからなくて、ただ木偶の坊のように突っ立っているだけだった。
そうしているうちに、廊下から足音が近づいてきた。ぱたぱたと、今度はたくさんの足袋が木の床をすべる音。
「そろそろ行ったほうがいい。楽しい時間だった。出るときはその窓をおすすめするよ」
皇はそういって窓を横目で示した。太く茂った枝葉がせり出している。枝は細く、人は無理だけど獣なら飛び移れそうだった。
私は少し迷って、でも近づいてくる足音に追い立てられるように窓枠へ飛び上がる。
「私に彼女のことを思い出させてくれてありがとう」
ちらりと皇を見ると、深い微笑みの彼と目が合った。
皇、お目覚めになられたのですか、という男性の焦った声が耳に届く。
扉が勢いよく開かれる音を背中に受けながら、私は木の枝に飛び移った。




