第9話 ガレオン(前編)
湖の対岸から街道へ出て、東へ四日。
潮の匂いが、風に混じりはじめたのは、三日目の夕方だった。
ハーヴェンの、塩を噴いた冷たい匂いとは違う。
生きた匂いだ。
魚と、油と、香辛料と、焼けた砂糖の匂い。
たくさんの人が働き、食べ、笑っている場所の匂いがした。
丘を越えた瞬間、視界が、帆柱の森で埋まった。
「……うわ」
渉が、また、同じ声を漏らす。
港だった。
湾いっぱいに、大小の船が、ひしめき合っている。
白い帆。
黒い煙突。
荷を吊り上げる巨大な腕のようなクレーンが、あちこちで、ゆっくりと首を振っていた。
その足もとを、四つ足の荷役ロボットが、何十台も列をなして、荷を運んでいく。
「ガレオンは、この国でいちばん大きな港。人口は、ええと、二万くらいだけど」と、澪が指を折る。
「出入りの船乗りを入れたら、アルバーナより多い日もあるんだって」
「ほんとに、いろんな人がいるね」
見回すと、肌の色も、服装も、言葉の抑揚も、まるで違う人々が、ひとつの通りを行き交っていた。
南の島の商人は、色鮮やかな布を肩にかけ、北の船乗りは、毛皮の帽子を深くかぶっている。
値切る声。
笑い声。
怒鳴り声。
耳が、いくつもの音で、飽和しそうだった。
「……人が、多すぎる」
またその台詞を言いかけた渉の袖を、今度は、私から、軽くつまんだ。
「迷子になったら大変だからね」
渉は、ぎこちなく笑って、私の袖を、同じようにつまみ返した。
問題は、財布だった。
「……残り、これだけ」
宿の安い一室で、澪が、硬貨をテーブルに並べた。
ヴェルデでもらった食料のおかげで、ここまでは持った。
だが、充電器の部品。
道具の補充。
三人分の宿代。
ガレオンは、何をするにも、金がかかる。
「稼ぐしかないね」と、澪が言った。
「どうやって?」
三人の視線が、自然に、渉の手に集まった。
翌朝、市場の隅の空き地に、私たちは小さな店を出した。
なんでも診ます 壊れたもの お預かりします
看板の字は、私が書いた。
百年前の書体だったのだが、渉が「古くて、かっこいい」と言うので、そのままにした。
最初の客は、膝までの短いズボンの、小さな男の子だった。
両手で、犬の形をした玩具のロボットを、抱きしめている。
目が、真っ赤だ。
「……動かないの」
鼻をすすりながら、男の子が言った。
「おじいちゃんが、くれたの。昨日まで、ちゃんと、歩いてたのに」
「見せてごらん」
渉が、しゃがんで、玩具を受け取った。
背中の小さな蓋を開け、指先で、中の配線を、いくつか、たどる。
「……ここ、だな。線が、外れてる」
かち、と小さな音。
犬の耳が、ぴくりと動いた。
それから、四つの脚が、ぎこちなく、しかし確かに、地面を蹴った。
「あっ」
男の子の顔が、ぱっと明るくなる。
犬は、くるりと一周して、男の子の足もとへ、ころころと駆け寄った。
「歩いた! 歩いたよ!」
「よかったね」と、私は言った。
男の子は、あふれそうな笑顔で、渉を見上げた。
「ありがとう、お兄ちゃん!」
渉は、その場で、固まった。
「……お、おにい、ちゃん」
「渉くん、お兄ちゃんだって」と、澪が、後ろから小声で囁く。
「呼ばれたの、初めてでしょ」
渉の耳が、赤くなる。
けれど、その口元は、どうしても、緩んでいた。
男の子の母親が、お礼に、大きな干し魚を二匹、置いていった。
それが、いい宣伝になった。
昼過ぎには、店の前に、列ができていた。
壊れた時計。
動かない荷車の車輪。
片脚の折れた椅子。
ガレオンは、直したいものの、宝庫だった。
澪は、帳面を片手に、てきぱきと値段を決めていく。
「はい、これは、銀貨二枚。これは、お魚で。ただし、小さいのはだめ」
私は、列の整理と、客の相手を受け持った。
「お待たせしました。どんな具合ですか?」「ああ、それは、ここが壊れやすいんです。
次から、こう持つといいですよ」。
話しているうちに、客たちは、いつのまにか、自分の家の話や、自分の悩みを、私に打ち明けはじめる。
「あんた、ほんとに、ロボットなのかい」
老婆に、そう訊かれた。
「はい。ちょっと、変わってますけど」
「変わってる。でも、いい子だ」
老婆は、にこにこして、焼き菓子をくれた。
三日で、財布は、倍になった。
四日目の夕方、一人の男が、店の前に立っていた。
三十代くらい。
仕立てのいい黒い上着。
手入れされた髪に、片眼鏡。
港の喧噪の中で、その人の周りだけ、妙に、空気が静まっている気がした。
「いい店だね」
男は、渉の仕事ぶりを、しばらく黙って眺めていた。
それから、私のほうへ、ゆっくりと視線を移した。
「ミカゲという。港で、いろいろな品を、扱っている」
「いらっしゃいませ。何か、お直しですか」
「いや。……君を、見に来た」
ミカゲさんは、私の顔を、まっすぐに見た。
値踏み、という言葉が、ふさわしい目だった。
「いい表情だ。この三十年、これほどの個体は、見たことがない。
誰が作ったのかは、知らない。知る必要も、ない」
「何の、話ですか」と、渉が立ち上がる。
「単純な話だ。この子を、買いたい」
空気が、凍った。
「金貨で、三千。この港で、君たちが一生かかっても、稼げない額だ」
「売り物じゃない」
渉の声は、低く、硬かった。
拳が、握りしめられている。
「そうか」ミカゲさんは、驚いた様子もなく、片眼鏡を、そっと押し上げた。
「では、本人に訊こう」
視線が、まっすぐ、私に向く。
「君は、どうしたい? 持ち主の決めた値段ではなく、君自身の言葉で、聞かせてほしい」
喉が、ひとつ、鳴った。
渉が、何かを言いかけた。
私は、その袖を、軽く引いて止めた。
これは、私が、言わなければならないことだった。
「私は、売り物では、ありません」
声は、思っていたよりも、はっきり出た。
「まだ、自分が何なのかも、分かっていません。誰が作ったのかも、どこへ向かえばいいのかも。
……それでも、値段をつけてもらうために、目を覚ましたわけではないんです。
私が何なのかは、私が、自分で、確かめます」
静かな沈黙が、市場の喧噪の真ん中に、ぽつんと落ちた。
ミカゲさんは、しばらく、私の顔を見つめていた。
それから、ふっと、口元を緩める。
「なるほど。値のつかないものも、あるらしい」
片眼鏡の奥の目は、笑っていなかった。
けれど、そこには、さっきまでなかった種類の、静かな興味が宿っていた。
「失礼した。……気が変わったら、いつでも。ただし」
一歩、近づいて、囁く。
「この港には、私より遠慮のない人間も、たくさんいる。気をつけたまえ」
立ち去る背中を、三人で、黙って見送った。
「……凪さん」
澪が、小さく、息を吐く。
「かっこよかった。今の」
「そう? 足、ちょっと震えてる」
「それでも、かっこよかった」
渉は、何も言わなかった。
ただ、握りしめていた拳を、ゆっくりとほどく。
その横顔に、誇らしそうな、少し照れたような色が、浮かんでいた。




