第10話 ガレオン(後編)
事故が起きたのは、その翌日の昼だった。
私たちの店の向かいで、荷役用のクレーンが、巨大な木箱を吊り上げていた。
ガレオンでは、見慣れた光景だ。
クレーンの動力は、太い給電ケーブルを通って、岸壁の発電所から送られている。
そのケーブルが、ぶつり、と音を立てた。
火花。
切れた太い蛇のように、ケーブルが空中を跳ねる。
青白い火の粉を撒き散らしながら、まっすぐ、こちらへ——店の前で、客の玩具を覗き込んでいた、渉のほうへ。
考えるより先に、体が動いていた。
渉の肩を、突き飛ばす。
次の瞬間、左腕に、焼けつくような衝撃が走った。
視界が、白く爆ぜる。
袖の焦げる匂い。
腕の感覚が、ずるりと抜け落ちる。
「凪さん!!」
悲鳴。
怒号。
人の逃げ惑う足音。
ケーブルは、やがて岸壁の向こうで、力尽きたように動かなくなった。
私は、膝をついて、その場に座り込んでいた。
渉の顔が、すぐ目の前にある。
青ざめて、唇が震えていた。
「ごめん、なさ——」
「大丈夫だよ」
反射のように、笑った。
「渉くんが無事で、よかった。……あ、お客さんが並んでるね。続き、やらなきゃ」
「何言ってんだよ!」
渉の声が、裏返った。
初めて聞く、大きな声だった。
周りの人々が、驚いて振り向く。
「腕、見せて!」
「平気だってば。ほら、動かなくなっただけ」
「……っ」
渉は、唇をきつく噛んだ。
それ以上は、何も言わなかった。
ただ、私の左腕を、帆布で、乱暴なほど丁寧に、巻きはじめる。
少し離れた場所から、澪が、黙って見ていた。
「行こう」
その日の午後、渉が、突然、言った。
「地図の印。灯台。……潮が引いてる、今のうちに」
「でも、凪さんの腕が」
「だから、今だ。ここにいたって、直せない。……行こう」
固い声だった。
何かを、堪えているような。
潮の引いた堤を、三人で歩いた。
足もとの石は濡れて光り、両側には、浅い海が、きらきらと広がっている。
港の喧噪が、少しずつ、遠ざかっていく。
「凪さん」
後ろを歩いていた澪が、私の隣に並んだ。
「さっき、ミカゲに言ったこと」
「うん?」
「あれ、ほんとに、凪さんの言葉だったね」
「……そう、かな」
「うん。誰かに言わされたんじゃなくて、自分の言葉だった」
澪は、前を歩く渉の背中を、ちらりと見た。
「それなのに」
言いかけて、口をつぐむ。
「ううん。なんでもない」
「どうしたの?」
「……あとで、話す」
澪は、そう言って、少しだけ、足を速めた。
私は、焦げた袖を、右手でそっと押さえた。
堤の先に、黒い灯台が、静かに待っていた。
扉には、錆びた鎖が、何重にも巻かれている。
渉は無言のまま、腰の工具で、一本ずつ切っていった。
鎖が落ちるたび、がちゃん、と重い音が、海に響いた。
灯台の足もとには、地下へ降りる階段があった。
冷たい、狭い、石の部屋。
波の音が、壁の向こうで、規則正しく、鳴っている。
部屋の中央の台座に、カートリッジが、ひとつ、置かれていた。
湊 記憶(5)
「……再生、する?」
渉が、静かに訊いた。
私は、すぐには、答えられなかった。
左腕が、痺れている。
袖の隙間から、小さな火花が、ときどき、ぱち、と散った。
「うん、お願いね」
笑って、頷いた。
視界が、湊のものになる。
明るい部屋だった。
壁には、子どもの描いた絵が、いくつも貼られている。
窓際に、小さな椅子と、積み木。
日だまりの匂い。
湊の手は、また、震えていた。
ただし、今度の震えは、あのときのものとは、違った。
胸の奥が、熱い。
何か、とても、大きなものを、これから受け取ろうとしている。
「こちらです」
白い服の女性が、扉を開けた。
部屋の隅に、小さな男の子が、ひとり、座っている。
三つくらいだろうか。
大きな目で、こちらを、じっと見ていた。
隣に、少女の私が、立っていた。
私は、胸の奥で、息を呑んだ。
少女の私は、緊張した顔で、両手を、胸の前で握りしめていた。
完璧な笑顔は、そこにはなかった。
ただ、不器用な、ぎこちない微笑み。
「……行きましょう、湊さん」
二人で、ゆっくりと、男の子の前へ歩いていく。
少女の私は、しゃがんで、男の子と、目の高さを合わせた。
「はじめまして、晴くん」
男の子は、きょとんとして、私を見つめた。
それから、何を思ったのか、ふいに、くしゃりと笑った。
小さな手が、伸びる。
少女の私の、指を、ぎゅっと握った。
湊の胸の底から、熱い声が、溢れ出す。
——この言葉が。
——こんなにあたたかく、響く日が、来るなんて。
湊は、そっと、男の子の頭に、手を乗せた。
その手は、まだ、震えていた。
けれど、その震えは、恐れではなかった。
少女の私が、顔を上げて、湊を見る。
その目の端が、少しだけ、やわらかく下がっていた。
作られた笑顔の、その奥で、ほんの少しだけ、本物の何かが、顔を覗かせている。
——この子の前でだけは。
湊の意識の隅で、そんな呟きが、聞こえた。
——この子の前でだけ、凪の目は、少しだけ、笑う。
再生が終わると、灯台の地下に、波の音が、戻ってきた。
私は、膝を抱えて、座っていた。
晴。
あの小さな手の、あたたかさ。
思い出せないはずなのに、指先が、まだ、覚えているような気がした。
「凪さん」
渉の声。
「その、腕」
見ると、左の袖が、肘のあたりまで、黒く焦げていた。
破れた布の隙間から、むき出しの部品と、焼けた配線が、のぞいている。
ときおり、青白い火花が、ぱち、と跳ねた。
「あ、ごめん。見えちゃった」
慌てて、右手で、袖を引き寄せる。
「平気。ほら、動かなくなっただけで。痛くもないし」
「痛く、ない?」
「うん。ロボットだから」
渉は、何も言わなかった。
ただ、澪が、水の入った袋を、そっと、私の膝に置いた。
それから、気を利かせたのか、「ちょっと、上の様子、見てくる」と言って、階段を上がっていった。
二人きりの、石の部屋。
「……凪さん」
渉が、ゆっくりと、腰を下ろした。
目の高さが、私と、同じになる。
「痛いなら、痛いって、言っていいんだよ」
息が、止まった。
「きみが、俺に、言ってくれたろ。頼っていいって。あのとき、俺、本当に、嬉しかったんだ。
生まれて初めて、そんなこと、言われたから」
渉の声は、少しだけ、震えていた。
「だから、きみにも、そうしてほしい。痛いなら、痛いって」
私は、渉の顔を、見た。
真剣な目。
握りしめた拳。
何かを、必死に、差し出そうとしている顔。
その手を、取れたら、どんなに楽だろう。
——取れなかった。
口が、先に、笑顔の形を作っていた。
「ありがとう。渉くんは、優しいね」
「……凪さん」
「でも、本当に、平気なの。ほら、大丈夫。ちゃんと、直せば、元どおりだし。
それより、渉くん、今夜はもう、休んだほうがいいよ。いっぱい走ったでしょう」
渉の目が、揺れた。
何かを、言いかけた。
それを、飲み込んだ。
「……分かった」
小さく、そう言って、渉は、立ち上がった。
その背中が、ほんの少し、寂しそうに見えた。
階段の上から、澪の足音が、戻ってくる。
私は、焦げた袖を、右手で、しっかりと押さえていた。
平気、と言うたびに、何かが、少しずつ、遠ざかっていく。
けれど、その何かの名前を、私は、まだ、知らなかった。
夜明けの潮が、引きはじめる音が、壁の向こうから、聞こえていた。




