第8話 ミロワ(後編)
工房は、湖に面した、煉瓦造りの建物だった。
夕方、澪が、顔の利く職人から、一角を借りてくれた。
渉は、さっそく、携帯用の再生機を分解して、点検を始めている。
ハンダごてを握る背中が、いつもより、ほんの少し、焦って見えた。
「ずいぶん、いい手をしているわね」
声に、渉の肩が跳ねた。
作業台の脇に、白髪の女性が立っていた。
六十代くらいだろうか。
作業着に、使い込まれた革の前掛け。
けれど、立ち姿には、不思議な威厳がある。
「失礼。後ろから、見ていたの。この回路は、誰に教わったの?」
「誰にも。……独学です」
「独学で、この水準」
女性は、再生機を取り上げ、拡大鏡で端子を覗き込んだ。
長い沈黙のあと、顔を上げる。
「私は、イサナ。この街で、工学を教えています。君の名前は?」
「渉、です」
「渉くん。ここには、君の話を、きちんと理解できる人間が、何十人もいる。
工房も、設備も、書庫も使える。……よければ、学院に来なさい」
渉の手から、ハンダごてが、からりと落ちた。
「俺、が」
「君が、よ」
声が、出ないらしい。
耳が、赤を通り越して、白くなっている。
私は、少し離れた場所から、その横顔を見ていた。
村で「変なやつ」と呼ばれ続けた少年が、いま、百年に一人の才能だと、告げられている。
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
「……少し、考えさせてください」
絞り出した渉の答えに、教授は、頷いた。
「もちろん。ただ」
視線が、ゆっくりと、私に向く。
「そちらの、お嬢さんのことも、聞いています。委員会の顧問として」
空気が、凍った。
「……逃げます」と、澪が低く言う。
「今すぐ」
「落ち着きなさい。止めるつもりなら、ひとりで、ここには来ない」
イサナ教授は、前掛けのポケットから、古い鍵を取り出した。
「湖の中島に、旧大学の観測所がある。百年前から、立入禁止にしてあるの。
地図に、印があるのでしょう?」
渉の手が、思わず、胸のポケットを押さえた。
「岸の桟橋に、小舟がある。夜明け前に、島へ渡りなさい。それから、反対側の岸へ抜ければ、街道に出られる」
「どうして」と、私は訊いた。
「助けてくれるんですか」
教授は、少しだけ、寂しそうに笑った。
「禁忌は、必要だと思っています。ただ、人を檻に入れることが、正しいとは、思わない。
……それだけです」
鍵が、私の掌に落ちる。
「渉くん。戻ってきたら、返事を聞かせて」
夜の湖を、小舟で渡った。
櫂を握ったのは、私だった。
「ロボットって、こういうとき便利」と笑ったら、澪が「便利って言うな」と、顔をしかめた。
風のない夜だった。
湖面は、昼よりもさらに深く、黒く、静かだ。
そこに、満天の星が、一粒も欠けずに映っている。
舟が進むたび、水面の星がゆらぎ、砕け、また元に戻っていく。
まるで、私たちは、星の海の上を、滑っているようだった。
舳先で、澪と渉が、並んで座っていた。
二人の会話が、水の上を、静かに渡ってくる。
「……行くの? 学院」
「分からない。……行きたい、とは、思った。初めてだった。あんなふうに、言われたの」
「行きたいなら、行けばいいよ」
「でも」
「でも?」
長い沈黙のあと、渉が、ぽつりと言った。
「凪さんのこと、置いていけない」
澪は、答えなかった。
ただ、星の映る水面を見つめたまま、小さく、息を吐いた。
「……私はね」
「うん」
「渉くんの腕が、凪さんのために使われてるの、好きだな」
渉が、息を呑む気配がした。
耳は、見なくても、分かる。
真っ赤だ。
私は、櫂をそっと、静かに動かした。
聞こえないふりをして。
口元が、勝手に、緩んでいた。
中島の観測所は、半ば崩れた白いドームを、星空に突き出していた。
扉は、教授の鍵で、あっさりと開いた。
中は、冷たい石と、古い機械の匂い。
巨大な望遠鏡が、錆びた骨のように、天井へ向かって伸びている。
その根元の台座に、ひとつだけ、カートリッジが置かれていた。
湊 記憶(4)
「再生、する?」
渉が、静かに訊いた。
「……うん」
指先が、少しだけ、震えていた。
スイッチの音が、ドームに、小さく響く。
視界が、湊のものになる。
見覚えのある部屋だった。
割れていない天井。
塩に侵されていない機械たち。
ハーヴェンの、あの研究所。
窓の外の海は、まだ鉛色ではなく、深い青をしている。
部屋の隅の小さな机には、白い布がかけられていた。
その下に、小さな丸いものが、隠れているように見えた。
湊の手は、震えていた。
視界の隅に映る腕は、今のそれよりずっと若い。
それなのに、ひどく痩せて、袖口がだらしなく垂れている。
何日も、眠っていないのだ。
何日も、何週間も、あるいは、もっと。
目の前の金属の椅子に、少女が座っていた。
目を閉じている。
肩に届く髪。
静かな横顔。
膝の上に、両手が揃えて置かれている。
——まだ、起きない。
喉の奥で、声にならない声が、掠れた。
——頼む。
制御盤のスイッチを、湊が押す。
低い唸りが、部屋を満たした。
少女の指先が、ぴくりと動く。
肩が、小さく上下する。
そして、まぶたが、ゆっくりと持ち上がった。
私は、見てしまった。
その目に、光が灯る瞬間を。
ハーヴェンで、渉が私を見つめていた、あの瞬間と、同じ光だった。
少女は、湊を見た。
何度か瞬きをする。
それから、考えるより先に、顔が動いた。
「はじめまして」
湊の、息が止まった。
視界が揺れる。
膝が折れる。
湊は、制御盤にすがるようにして、その場へ崩れ落ちた。
「……そうか」
声は、ほとんど、音になっていなかった。
「そうだよな。……覚えているわけが、ないよな」
「あの」
少女の私が、戸惑った声で言う。
「大丈夫ですか。お加減が——」
「大丈夫。大丈夫、だよ」
湊は、笑おうとしていた。
口の端が引きつって、うまく形にならない。
「ごめん。……こちらこそ、はじめまして」
覚悟は、していたのだ。
胸の底から、そんな声がした。
こうなると、分かっていた。
分かっていて、やったのだ。
それなのに。
同じ顔で。
同じ声で。
「はじめまして」と、言われること。
それが、これほど残酷だとは、思わなかった。
——僕は、何を期待していたんだろう。
湊は、床に額をつけたまま、肩を震わせている。
少女の私は、おろおろと、その背中へ手を伸ばしかけて、止めた。
見知らぬ人に触れていいのか、分からないのだ。
「あの、私、何か……間違えましたか」
「……いいえ。何も。何も、間違えていない」
湊の中から、静かな声が、聞こえた。
——間違っているのは、僕のほうだ。
再生が終わっても、私は、しばらく、動けなかった。
ドームの割れた天井から、星が見える。
湖面で見たのと、同じ星。
「……凪さん」
渉が、そっと、隣に膝をついた。
「うん、なあに?」
「あの、最初の言葉。『はじめまして』って」
「うん。……私が、渉くんに、最初に言ったのと、同じだった」
言いながら、気づいていた。
あのとき、渉は、半歩、後ずさった。
驚いただけだと、思っていた。
けれど、あの記憶の中の湊は、崩れ落ちるほどの、痛みを抱えていた。
同じ言葉が、人によって、こんなにも、違う重さを持つ。
「湊さんは」と、私は言った。
「誰かに、会いたかったんだと思う」
「……誰かに?」
「私じゃない、誰かに会いたかったんだと思うの」
言葉にした途端、胸の底に、冷たいものが、すとんと落ちた。
私は、その人の、代わりなのだろうか。
「俺は、そうは、見えなかった」
渉が、低い声で言った。
「あの人、最後まで、凪さんのこと、見てたよ。ちゃんと、凪さんのこと」
「……そうかな。そうだと、いいな」
「うん」
理由は、言わなかった。
ただ、それだけを、はっきりと言い切った。
澪が、後ろから、私の肩に、そっと手を置く。
誰も、何も言わなかった。
ドームの隙間から、東の空が、うっすらと白みはじめていた。




