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Late Bloom 〜凪と いつかの地図〜  作者: KJ
第2幕 収集と違和感

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第7話 ミロワ(前編)


ヴェルデを発つ朝、ナナが、折りたたんだ紙を私の手に押し込んだ。


「あげる」


広げてみると、クレヨンで描かれた絵だった。

大きな丸い頭に、にこにこ笑う口。

その隣に、背の低い丸が二つ。


「『機械のお母さん』と、トモと、わたし」

「……ありがとう。大事にするね」

「また来てね。ぜったいだよ」


しゃがんで、目の高さを合わせる。

笑顔を作った。

いつもの、完璧な笑顔。


「うん、約束するね」


絵は丁寧に畳んで、胸の内ポケットに納めた。


カートリッジの、隣に。


サワさんとリョウさんは、門まで見送ってくれた。

振り返ると、庭の隅でベルが、小さな腕をいつまでも振っている。


「……大丈夫?」


街道に出てしばらく歩いてから、澪が小声で訊いた。

昨夜の日記のことは、澪も渉も、ひとことも口にしない。


「大丈夫だよ」


先に答える。


「元気だよ。さあ、次はミロワだね」




ミロワへは、川舟で向かった。


ヴェルデの渡し場で乗ったのは、底の平らな舟。

三日かけて、緩やかな流れを下っていくという。

船頭のおじいさんは無口な人で、ときどき煙管をふかしては、岸の景色に目をやるだけだった。


「ミロワって、どんな街?」


舳先に足を投げ出していた澪が、振り返る。


「学者の街。昔の大学がそのまま残ってて、今は『学術会』っていうのが、全部を取り仕切ってるの。

 図書塔とか研究棟とか工房とか。頭のいい人ばっかり」

「澪さんだって、頭いいよ」

「私は、手が器用なだけ。……でも、ミロワはちょっと苦手」

「どうして苦手なの?」


澪は、声を少し落とした。


「ロボットとかAIとか、そういうのを研究するには、学術会の許可が要るの。

 それに、『人格や記憶の再現』は禁止。法律で。見つかったら、機械のほうも人間のほうも、ただじゃ済まない」


胸の内ポケットの、カートリッジの感触を、そっと確かめる。


「……そっか。気をつけるね」

「だから、凪さんは、街の中ではあんまり目立たないほうがいいかも」

「頑張ってみる」

「頑張ってみる、って」澪は吹き出した。

「無理でしょ。凪さん、歩いてるだけで人が集まるのに」


隣で、渉が小さく笑った。


三日目の昼、舟はふいに、広い水面へ滑り出た。


湖だった。


風のない午後。

水面は一枚の巨大な鏡のように静まり返り、空の青と白い雲と、岸に並ぶ街並みを、そっくり逆さまに映している。

街は、ふたつあった。

本物と、映った街と。

どちらが本物なのか、一瞬、分からなくなるほどに。


「だから、ミロワ。鏡の湖」


澪が、誇らしそうに言う。


「……なんて、きれいなんだろう」


思わず、そう呟いていた。


胸の奥が、またきゅっと狭くなる。


ハーヴェンで目覚めたときと、同じ感覚。

水と、光と、静けさ。


そのどれかに、私は、昔、何かを預けていた気がする。




ミロワの街は、白かった。


石灰を塗った壁。

青い屋根。

湖に面した石畳の通りには、若い学生たちが行き交い、書物を抱えた老学者がゆっくりと歩いていく。

至るところに掲示板があった。

講義の予定。

研究会の案内。

そして街の入口の、いちばん目立つ場所に、大きな板が掲げられている。


自律機械および人工知能に関する研究・展示は、学術会の許可を要する。

人格および記憶の再現は、これを固く禁ずる。


「……ほんとに、書いてある」


渉が、低く言った。


「大丈夫、大丈夫」私は笑ってみせる。

「普通にしてれば、バレないよ」

「バレる、って言葉が出ること自体、もうバレそう」と、澪。


そう言いながら三人が向かったのは、学生食堂だった。

三日間、川の上で乾パンばかり。


澪が「ここのフライは絶品」と、強く主張したのだ。


湖でとれた白身魚のフライが、山のように盛られた皿で運ばれてくる。

衣は、音を立てて崩れるほど薄い。


「塩! 絶対、塩!」

「いや、酢だろ」

「酢は、油が重いときの逃げでしょ」

「逃げじゃない。味が、締まる」

「渉くん、意外と頑固」


どうでもいい論争が、白熱していく。

私は二人のやりとりを、フライをかじりながら眺めた。

味は、ちゃんと分かる。

おいしい。


この平和で、他愛なく、騒がしい時間が、胸の奥の痛みを、少しだけ和らげてくれる。


「あの、ロボットさんですか?」


いつのまにか、隣のテーブルの学生たちが、私たちを囲んでいた。

眼鏡の青年。

三つ編みの少女。

眠そうな顔の男の子。


「あ、はい。凪といいます」

「表情のあるロボットなんて、初めて見ました! どこの工房で——」

「それが、分からなくて。目が覚めたら、もうこの体だったんです」

「目が覚めたら」と、三つ編みの少女が目を輝かせる。

「すてき。物語みたい」


質問は、止まらなかった。

講義の噂。

教授たちの癖。

この街名物の、湖の夜景。

気づけば私は、学生たちから、街の事情をあらいざらい教えてもらっていた。


「凪さんさ」眠そうな男の子が、あくびまじりに言う。

「イサナ教授には、会っておいたほうがいいよ。ここの工学の、いちばん偉い人。

 ロボットのことなら、あの人が一番詳しい。ただ」

「ただ、何かあるの?」

「記憶倫理委員会の、顧問もしてる。あんまり近づきすぎないほうが、いいかも」


頷いて、笑顔を保つ。

テーブルの下で、澪が私の足を、こつんと蹴った。




図書塔は、湖畔の岬に、まっすぐ立っていた。


見上げるほど高い石の塔。

壁に沿って、螺旋の階段が何十階も続く。

どの階にも、天井まで届く書棚がぎっしりと並び、紙と革と古い埃の匂いがした。


「湊」という名を司書の青年に告げたのは、澪だ。

「百年前の研究者で、ロボット工学とAIの。論文とか資料とか、残ってませんか?」

「百年前……」青年は眼鏡を押し上げ、難しい顔をする。

「あの時代のものは、旧文書庫です。ただ、ほとんど手つかずで。

 当時の文字と言葉を、完全に読める人が、今はいないんですよ。学術会でも、解読に何年もかかっていて」

「見るだけでも、いいですか?」

「それなら、まあ」


旧文書庫は、塔の地下にあった。

ひんやりと湿った、天井の低い部屋。

棚には黄ばんだ紙の束が、無造作に積まれている。

背表紙に並ぶのは、渉の目には、ただの模様にしか見えない文字ばかりだ。


「……全部、模様に見える」


途方に暮れる渉の隣で、司書の青年も頭を掻いた。


私は、棚の前に立った。

背表紙を、目で追う。


読める。


一文字ずつ拾う必要さえない。

意味が、勝手に頭の中へ流れ込んでくる。


「この箱、気になるな」


棚の最下段から、古い木箱を引き出した。

蓋に、擦れた字がある。


共同研究記録 湊/千景


「『共同研究記録、湊、千景』って、書いてある」

「えっ」司書の声が裏返った。

「読めるんですか!?」

「はい。……なんとなく」


蓋を開けると、手紙の束。

いちばん上の一通を、声に出して読む。


湊へ。

君がやろうとしていることを、私は止められなかった。だから、せめて書いておく。

それは、研究と呼んでいいものではない。願いだ。そして、願いは、ときに人を縛る。

君の手は確かだ。できてしまうことが、私は怖い。

彼女のことを、私は好きだった。だから、君を止められなかった。

千景


「……彼女、って」


読み終えて、顔を上げる。


胸の奥で、何かが、ことりと鳴った。


「誰のことでしょう」と、司書が首をかしげる。

「分かりません」


嘘ではなかった。

ただ、その二文字だけが、いつまでも耳に残っていた。




「あの」


塔を出た途端、背後から呼び止められた。


四角い眼鏡の、若い女性だった。

濃紺の上着の胸に、天秤の紋章。

そのさらに下に、小さな文字で、こう刺繍されている。


記憶倫理委員会


「旧文書庫での、お話、聞こえてしまいました」


澪の肩が、固くなる。

渉が、私の前に半歩、出た。


「私は、ハルカ。委員会の、補佐です。……そんなに警戒しないでください。

 取って食べたりしません」

「何の用ですか」と、渉。

「確認です。あなたたちが探している『湊』は、うちの委員会の、最古の案件に出てくる名前です」


ハルカさんは、周囲を見回して、声を落とした。


「百年前、ある研究者が、個人の工房で、ある『人格』を機械に移そうとした。

 その記録に、湊という名が残っています。成功の記録は、ありません。

 だから、この街の禁止条文は、その案件を発端に、作られた」


私は、何も言えなかった。


「旧文書を、読める機械。表情を作る機構。……あなた、その人の、遺産ですよね」

「私にも、分からないんです」


正直に、答えた。


「本当に、何も、覚えていなくて」


ハルカさんは、しばらく私を見つめていた。

それから、眼鏡の奥で、ふっと目を伏せた。


「報告しないといけません。私の、仕事なので。……ただ、明日の朝まで、時間はあります」

「え」

「夜明けまでに、街を出てください。委員会の決まりでは、再現の疑いのある個体は、検査の名目で、保護されます。

 ……保護というのは、檻のことです」


言い残して、ハルカさんは、足早に雑踏へ消えた。



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