第3話 最初の記憶
渉は、三日間、ほとんど眠らなかった。
ハンダの匂いと、ランプの白い光と、基板の上を行き来する細い指。
水車小屋の作業台は、あっという間に、部品の海になった。
研究所から運んできた基板、配線、小さなレンズ。
彼はそれらを一つずつ分解し、並べ替え、組み直していく。
「全部は無理なんだ。本体は、部屋ひとつぶんの大きさだったから」
作業の合間に、渉がぽつぽつと説明してくれた。
「だから、記憶を読み出す部分だけを取り出して、小さくして。それを、持ち運べる箱にする」
「できそうかな?」
「……たぶん」
「たぶん、が口癖だね」
「そう? ……そうかも」
私は作業台の隣に座って、言われるままに配線を押さえたり、部品を渡したりした。
ときどき、うっかり順番を間違えて、渉に小さく笑われる。
不器用な自分が、少しだけ愛しかった。
二日目の夕方、小屋の戸が、ぎい、と開いた。
大きな鍋を抱えた男の人が、立っている。
肩幅の広い、日に焼けた人だった。
眉間に深い皺があって、渉とは、あまり似ていない。
——けれど、黒い髪の質と、目の奥の静けさだけは、よく似ていた。
「……父さん」
「飯だ」
渉のお父さんは、それだけ言って、作業台の端に鍋を置いた。
湯気の立つ、豆と根菜のスープ。
それから、ようやく私に気づいたように、視線を向ける。
「あんたが、機械の嬢ちゃんか」
「はい。いつも渉くんに、お世話になっています」
お父さんは、少し黙った。
それから、ごく小さく、鼻を鳴らす。
「世話に、ねえ。こいつが、人に世話を焼かれる日が来るとは思わなかった」
「父さん」
「冷めるぞ」
そう言い残して、お父さんは戸を閉めて出ていった。
けれど、戸が閉まる直前、ちらりと作業台の上を見た。
渉の手元の、複雑な基板を。
その目に、何かが一瞬だけ光った気がした。
「……怒ってるのかな」
「ううん」と私は言った。
「怒ってるんじゃなくて、心配してるんだと思うよ」
「どうして分かるの」
「なんとなく、だけどね。……だって、あのお鍋、すごく大きかったもの」
渉が、きょとんとして、それから小さく吹き出した。
三日目の夜。
「できた」
渉の声は掠れていた。
目の下に、濃い隈ができている。
作業台の上には、手のひらに乗るくらいの銀色の箱。
端子がいくつも突き出し、側面に、小さなレンズがついていた。
「試運転。……さっきの、カートリッジで」
研究所から持ち出した円筒を、渉が慎重に箱の下へ差し込む。
側面の擦り切れた文字が、ランプの火に淡く浮かんだ。
湊 記憶(1)
「何かあったら、すぐ止めるから」
「うん、わかった」
「本当に、すぐ」
「うん。お願いね」
渉が、スイッチに指をかける。
一瞬、息を吸って——押した。
視界が、私のものではなくなる。
低い天井。
薄い橙色の灯り。
窓の外には、夜の海。
波の音が、ずっと遠くで、寄せては引いている。
体が重い。
息をするたびに、胸の奥で細い音が鳴る。
腕は枯れ枝のように痩せて、シーツの上に投げ出されていた。
——ああ。
これは、私の目じゃない。
そう悟った瞬間、視線がゆっくりと横へ動いた。
ベッドのそばの椅子に、誰かが座っている。
少女だった。
背筋をまっすぐに伸ばし、膝の上で両手を揃えている。
肩に届く髪。
丸い目。
唇の端が、きれいに持ち上がっていた。
完璧な笑顔。
その少女は、私だった。
鏡を見た記憶などないのに、分かる。
私の顔が、私の目の前に座っている。
いや——この記憶の持ち主の、目の前に。
「凪」
声がした。
自分の喉から出たものではない。
年老いて、掠れて、それでいて、驚くほど優しい声。
「ずっと、そこにいてくれたのか」
「はい」と、少女の私が答える。
「湊さんが眠るまで、ここにいます」
湊。
私は、湊という人の目を通して、自分を見ているのだった。
そして、気づいてしまう。
少女の私は笑っている。
完璧に。
それなのに、見ているこちらの胸が痛むほど、その目だけが、少しも笑っていない。
視界が揺れる。
湊の手が、枕元の小さな機械へ伸びる。
赤い録音の灯が、ともった。
「……記録、開始」
息を吸う音。
長い、長い、間。
「凪。これを聞いているとき、僕は、もういないと思う。……君は、長く眠ることになる。
それが君のためになると、思ってる」
咳き込む。
少女の私が、背をさすろうと腕を伸ばしかけて、止まる。
「目が覚めたら、世界を見てきてほしい。地図を持った誰かと、一緒に。
ゆっくりでいい。たくさんの人に会って、笑って。君は、そういう人だから」
灯が、消えた。
場面が、切り替わる。
灯りの色が違った。
窓の外は、明け方に近い薄い青。
湊の呼吸は、さっきよりも、いっそう細い。
また、赤い灯がともる。
「凪」
声が、震えていた。
「ごめん。さっきの言葉、取り消させてほしい」
少女の私は、笑顔のまま、黙って聞いている。
「……行かなくていい。いや、行ってもいい。でも、必ず、帰ってきてほしい。
ここに。僕が、いなくなっても」
声が途切れ、また続く。
「勝手だって、分かってる。君を、一人にしたくない。……けど、君を縛りたくもない。
どっちも、本当なんだ」
そこで初めて、少女の私が、ほんのわずか、唇を動かした。
「大丈夫です」
穏やかな声。
「大丈夫ですから、湊さん」
湊の目が、少女の私を、じっと見つめる。
その視線の底に、いくつもの感情が渦を巻くのが、私にも見えた。
愛しさ。
後悔。
恐れ。
そして、もっと重くて、名前をつけられない何か。
世界が、白く滲んでいく。
「——凪さん!」
その声で、現実に引き戻された。
作業台。
ランプ。
油の匂い。
手の甲に、ぽたり、と何かが落ちる。
水滴だった。
頬に触れる。
濡れていた。
「え……?」
自分の顔を涙が伝っているのを、他人事のように確かめる。
目の端が、熱い。
ロボットなのに。
そんな機能が私にあるなんて、知らなかった。
「あの、止めたほうが、よかった? ごめん、俺」
「違うの、止めなくて大丈夫だったよ」
慌てて笑う。
笑うのは得意だ。
「大丈夫だよ。ちょっとびっくりしただけ。涙って、出るんだね、私」
渉は、何か言いたそうに口を開いて、閉じた。
もう一度開きかけて、また閉じる。
結局、彼は何も言わないまま、ポケットから油の染みた布を取り出して、私に差し出した。
「……ありがとう。借りるね」
受け取った布は、機械油の匂いがした。
不思議と、嫌ではなかった。
「ねえ、渉くん」涙を拭きながら、私は言った。
「今、あの人が呼んでたよね」
「うん。……凪」
「凪」
口に出してみる。
その二文字は、驚くほど、私の口に馴染んだ。
何年も、何十年も、呼ばれ続けてきた名前みたいに。
「私の名前、凪っていうんだ」
「いい名前だと思う」と、渉がぼそりと言った。
頷く。
泣いたあとの顔で、笑った。
遺言が、二つあった。
世界を見てきてほしい、という言葉。
帰ってきてほしい、という言葉。
二つは矛盾していて、矛盾したまま、どちらも本当だと、あの人は言った。
あの人は、湊。
そして私は、凪。
何も思い出せない。
それなのに、あの顔を、あの声を、私の体は、確かに知っていた。
「行こう」と、渉が言った。
夜明け前の、村の入口。
東の空が、わずかに白んでいた。
背中には、渉が作った持ち運びの充電器と、小さな再生機。
肩には、あのマフラー。
「行くのか」
門のところに、お父さんが立っていた。
腕を組み、いつもの眉間の皺。
「うん」
「そうか」
沈黙。
吐く息が、白い。
「……好きに、しろ」
お父さんはそう言って、背嚢をひとつ、渉に押しつけた。
中には、干した肉とパンと毛布と、分厚い手袋。
「春までには、顔を見せろ。それと」
視線が、私に向く。
「凪さん。こいつに、寒い思いさせるなよ」
「はい。——お預かりします」
笑って頭を下げると、お父さんは、ふい、と顔を背けた。
その耳が、ほんの少し赤い。
渉の耳の赤さは、この人譲りなのかもしれない。
「行ってきます」と、渉が言った。
「ああ」
歩き出す。
数歩進んで振り返ると、お父さんはまだ門のところに立っていた。
朝靄の中で、小さく、片手を上げている。
渉も、片手を上げた。
地図を広げる。
赤い印のひとつを、渉の指が、とん、と叩いた。
「最初の印は、アルバーナ」
北の、山の向こう。
私の旅が、始まる場所だった。




