第2話 リーヴァ
川沿いの道を、二日かけて歩いた。
もとは舗装されていたのだろう。
灰色の路面は、あちこちで木の根に持ち上げられ、割れ目から枯れ草が突き出している。
道の脇には、人の気配のない街の残骸が、点々と続いた。
ガラスの抜け落ちた高い建物。
草に呑まれた線路。
横倒しになった、巨大な看板。
かつてここに、たくさんの人が暮らしていたこと——それだけは、見ればわかる。
渉は、あまり喋らない。
歩幅は私に合わせてくれているのに、話しかけるときは、かならず一拍遅れる。
言葉を一度飲み込んでから、出す人なのだ。
だから私は、沈黙を急かさなかった。
代わりに、目に入るものを、順番に口にする。
あの鳥は何。
あの花は。
この川は、海まで続いているの? 渉は、答えられるものには短く答え、答えられないものには、正直に「知らない」と言った。
その「知らない」が、不思議と心地よかった。
「ねえ、体の調子は」
二日目の昼、彼がふいに言った。
「うん?」
「電気。ええと、その、減ってる、感じとか」
「あ、気にしてくれてたんだ」
「……一応」
胸のあたりに意識を向けてみる。
内側の、ずっと奥のほうに、小さな目盛りのようなものがあった。
目覚めたときより、確かに、ほんの少しだけ低い。
「ちょっとだけ、重くなってきたかも。でも、まだ全然歩けるよ」
「そっか」
短く答えた渉は、歩調をほんの少しだけ緩めた。
夜は、崩れた橋の下で火を焚いた。
眠る必要がないと言ったのに、彼は自分のマフラーを外して、私の肩に巻きつける。
「寒くなくても、なんか、見てて寒いから」
小さな声だった。
私はそのマフラーを巻いたまま、一晩中、焚き火の番をした。
渉の寝息を聞きながら、百年という数字を何度も転がす。
転がしても、何も思い出せなかった。
それなのに、胸の奥のどこかが、ずっと静かに痛んでいる。
リーヴァは、川が大きく曲がる内側に、身を寄せ合うようにして建っていた。
遠くから見ると、地面に置き忘れられた玩具のように小さい。
十数軒の家、畑、干された洗濯物、煙突から立ちのぼる細い煙。
近づくにつれて、暮らしの音が、少しずつ聞こえてくる。
鶏の声。
子どもの笑い。
誰かが薪を割る、乾いた音。
私たちが村の入口に立った途端、その音が、ふっと止んだ。
人が集まってくる。
遠巻きに、誰も近づいてはこない。
囁き声があちこちで起こった。
「機械だ」
「あの渉が」
「誰か連れてきたぞ」
「人型だよ、高いやつだよ」
ロボットを知らないわけではない。
ただ、人間と並んで歩いてくる人型を、見たことがないのだ。
渉の肩が、固くなるのが分かった。
私は一歩前に出て、深くお辞儀をした。
「こんにちは。渉くんに連れてきてもらいました。突然お邪魔して、ごめんなさい」
どうすればいいのか、頭は知らない。
けれど、体は知っていた。
顔を上げ、一人ひとりの目を、順番に見ていく。
微笑みかける。
そして、訊ねる。
「お名前、教えてもらってもいいですか」
最初に答えてくれたのは、籠を抱えたおばさんだった。
次におじいさん。
子どもたち。
三人目あたりから、輪が少しずつ縮まりはじめる。
聞いた名前は、そのつど口に出して、繰り返した。
ミヨさん。
ケンタ君。
ゲンさん。
茶色い犬の名は、ポチではなく、ジョーだった。
「あんた、なんで一度聞いただけで覚えてるんだい」
ミヨさんが、目を丸くして笑う。
「覚えるのが、好きみたいなんです。人のことを、知るのが」
答えてから、自分でも少し驚いた。
人のことを覚えるのが好き。
それは、空っぽの私の中にあった、数少ない確かな手触りだった。
渉は輪の外で、小さくなって立っている。
誰も、彼には声をかけない。
冷たいというより、慣れた距離なのだと、見ていて分かった。
「あの子はねえ」
ミヨさんが、私にだけ聞こえる声で囁いた。
「機械いじりばっかりして、人とはろくに口もきかないのさ。悪い子じゃないんだけどね。
それが、人を連れてくるなんて」
悪い子じゃないんだけどね。
その一言が、なぜか、小さな棘のように胸に残った。
渉の家の裏手には、水車小屋があった。
苔むした石の壁。
軒下で回る大きな水車。
中には、古い発電機が据えつけられている。
作業台には工具が整然と並び、棚には、壊れた機械たちが並べられていた。
直されて、また動くことを、静かに待っているみたいに。
「変換器、組むから。ちょっと待ってて」
そう言うなり、渉は別人になった。
背を丸め、ドライバーを握り、無言で基板を睨む。
研究所から運んできた部品が、彼の指の下で、みるみる形を変えていった。
ハンダの白い煙。
短い舌打ち。
「ここの電圧が」と独りごちる声。
私はその隣に座って、飽きもせず、手元を眺めていた。
「……見てて、つまらなくない?」
ふいに、渉が言った。
「ううん、ちっともつまらなくないよ。見てて、すごくきれいだなって思うの」
「きれい?」
「渉くんの指が、ね。機械に話しかけてるみたいに見えるんだ」
手が止まった。
耳が赤い。
「そんなこと、言われたの、初めてだ」
「そうなの?」
「みんな、俺がやってること、分からないから。分かろうとも、してくれないし。
笑われるくらいなら、一人でやってるほうが、いい」
「だから、一人でハーヴェンまで来たんだね」
「頼む相手、いなかったから」
言ってから、渉は、しまった、というように耳の後ろを掻いた。
「いや、あの、別にかわいそうな話じゃなくて」
「渉くん」
私は、彼のほうへ体を向けた。
「頼っていいんだよ」
口にしてから、自分でも驚いた。
初めて言うはずの言葉だった。
それなのに、舌が、驚くほど自然に、その形を覚えている。
まるで、何度も、誰かに向かって言い聞かせてきたみたいに。
「私は、笑ったりしないから。約束するよ」
渉は、しばらく何も言わなかった。
やがて、肩の力がほんの少しだけ抜ける。
「……ありがとう」
小さな声だった。
けれど、その一言で、小屋の空気が柔らかくなった気がした。
言った私の胸のほうが、なぜか少し痛んだ。
誰かに言い聞かせた言葉。
——自分に? そんな考えが一瞬だけ頭をよぎって、すぐに、笑顔で打ち消した。
「できた」
夜更け、渉が低く言った。
作業台の上に、手のひら二つぶんほどの、無骨な箱が置かれている。
二本の太いコードが、水車小屋の発電機へ伸びていた。
「背中、開けられる? 充電口が、あると思うんだ」
「たぶん、ここだと思う」
肩甲骨の下あたりに指を這わせると、かちり、と小さな蓋が開いた。
コードの端子を差し込む。
次の瞬間、体の奥に、温かいものが流れ込んできた。
水が、乾いた土に染みていくような感覚。
胸の奥の目盛りが、ゆっくりと、しかし確実に、持ち上がっていく。
同時に、視界の端に見慣れない表示が浮かんだ。
予備電力:残り二十四日 → 二十五日 → ……
数字が、増えていく。
「……増えてるよ」
「うそ」
「ほんとだよ。ちゃんと、増えてる」
渉が、椅子を蹴る勢いで立ち上がった。
目を見開いて、それから、堪えきれないように笑う。
心の底から弾けたような、笑顔だった。
「やった。やった、やった。動いた」
「すごいよ、渉くん」
「すごい、かな」
「すごいよ。渉くんがいなかったら、私、二十六日で止まっちゃってたもの」
渉は、笑顔のまま、少し泣きそうな顔になった。
慌てて袖で目をこすって、ごまかす。
「……あのさ」
「うん、なあに?」
「明日からも、毎日、これ、やる。持ち歩ける充電器も、作る。旅の間は、それで、持たせる」
「ありがとう。頼りにしてる」
「頼り、に」
その言葉を、渉は噛みしめるように繰り返した。
翌朝、トメさんの家に呼ばれた。
長老は、小さな骨ばった体に、大きな毛布を巻きつけて、囲炉裏の前に座っていた。
年齢は、見当もつかない。
ただ、目だけが、驚くほど澄んでいる。
「機械のお嬢さんかい」
「はい。名前は、まだ、ありませんけど」
「そうかい。そうかい」
何度か頷いて、トメさんは、火箸で灰をゆっくり掻き混ぜた。
「うちの家にはね、昔から、言い伝えがあるのさ。ばあちゃんの家には、ずっと、家族を待っている人がいる。
鍵と地図は、その人のところへ行く者のためのもの。……ただの昔話だと思ってたよ。
おまえさんを見るまではね」
「ばあちゃん、というのは」
「さあね。わたしの、ばあさんの、そのまたばあさんの、そのまた上の話だ。
名前も顔も、伝わっちゃいない。ただ、機械の人だった、って話も、あるにはあるんだよ。
それ以上は、誰も知らない。……ただね、『家族を待ってる人』が、ひとりだけとは、限らないよ。
昔話ってのは、そういうもんさ」
胸のどこかが、ことりと鳴った。
それが何なのかは、掴めない。
「おまえさんは、その人を、知ってるのかい」
「いえ。何も、覚えていないんです」
「そうかい」
トメさんは、少しだけ目を細めた。
「けど、あの子——渉が、昨日、人前でまっすぐ立っていたのを、わたしは久しぶりに見たよ。
いいことだ」
帰り際、トメさんは私の手に、自分の手を重ねた。
皺だらけで、驚くほど温かい。
「待たせたんなら、行ってやりな。ゆっくりでいい。急ぐ旅じゃないが——行かないでいる旅でも、ないからね」




