第1章 起動
最初に戻ってきたのは、音だった。
波。
遠いところで、何かを洗っている水の音。
寄せては引き、引いてはまた寄せる。
その単調な繰り返しが、なぜかひどく懐かしくて、胸の奥が少しだけゆるんだ。
次に、冷たさ。
指先から順に、体の輪郭が戻ってくる。
尻の下には硬い金属の椅子。
背中には背もたれ。
膝の上には、誰のものとも知れない自分の両手。
まぶたを持ち上げる、ただそれだけのことに、呆れるほど長い時間がかかった。
「……動いた」
息を詰めた声が、すぐそばで言った。
焦点が合っていく。
目の前に、男の子が立っていた。
十六、七だろうか。
肘に継ぎ当てのある厚いコート、指先の出た革手袋は油染みで黒ずんでいる。
片手には古びた真鍮の鍵。
もう片方の手は、行き場をなくして宙に浮いたままだ。
寝癖のついた黒髪の下から、目だけが、驚くほどまっすぐこちらを射抜いていた。
ひとつ、瞬き。
それから、考えるより先に、口が動いた。
「はじめまして」
自分の声に、自分で驚く。
思っていたより柔らかく、ほんの少し掠れている。
男の子は鍵を握りしめたまま、半歩、後ずさった。
「しゃ、しゃべった」
「しゃべるよ。そういうふうに、できてるみたいなの」
答えてから、首をかしげる。
できている——つまり私は、作られたものなのだ。
目を開けた瞬間から、それだけは疑いようもなく分かっていた。
手の甲の継ぎ目。
関節の内側を走る細い線。
息をするたび、胸の奥でかすかに鳴る駆動の音。
人の形をしているけれど、私は機械だった。
では、それ以外は?
何もない。
「ここは、どこなの?」
「ハーヴェン。の、研究所……だった場所。潮風で、ほとんど崩れちゃってるけど」
男の子の視線を追って、私も部屋を見回した。
天井は大きく裂け、冬の薄い光が柱になって降りている。
壁際には、塩を噴いた機械たちが、背の高い棺のように並んでいた。
床の隅では、割れた配管から滲んだ水が細い筋を引き、窓のほうへ這っていく。
窓の向こうは鉛色の海。
波打ち際には、水に沈みかけた街の屋根が、いくつも、いくつも、洗われていた。
きれいだ、と思う。
同時に、胸の奥がきゅうっと狭くなる。
理由は分からない。
「あなたの名前、教えてくれる?」
訊ねると、男の子は少し迷ってから答えた。
「渉。リーヴァ村の、渉」
「渉くん。私は——」
言葉が、そこで途切れた。
名前。
私の、名前。
探しに行った先は、がらんどうだった。
棚ごと抜け落ちたような空白。
血の気が引く感覚は、けれど一瞬で、気づけば右手が勝手に持ち上がっている。
耳の横の髪を一房つまみ、くるりと巻く。
渉が、ぱちぱちと瞬きをした。
「……今の、何?」
「え?」
「髪。さわった」
「ああ」慌てて手を下ろす。
「癖、みたいなの。考え事をするときの。……変だよね、機械なのに」
「機械なのに」と渉は復唱し、それから我に返ったように付け足した。
「あ、いや、ロボットなのは分かってるんだ。見たこともある。行商の機械が、年に何度か村に来るから。
でも、こんなに……なんていうか、人みたいなのは初めてで」
「ロボットらしくない、かな?」
「らしくない、というか」言葉を探して、探しきれず、彼は目を逸らす。
「表情が、すごく、ある」
吹き出してしまった。
褒められたのか困らせたのか、本人にも判断がつかないらしい。
渉の耳が、みるみる赤くなっていく。
「名前、分からないの?」
「うん。何も入ってないみたいなの」
あっさり言うと、渉のほうがうろたえた。
「それって壊れてるんじゃ……直さないと——」
「大丈夫だよ」
笑ってみせる。
笑うことだけは得意だった。
どうしてかは分からないけれど、体がそのやり方を覚えている。
「名前がなくても困らないよ。渉くんの呼びたいように、呼んでくれたらいいし」
「呼ぶって、いきなり言われても…」
「うーん」
考え込むふりをして、部屋の隅へ視線を逃がした。
割れた画面の端末が、薄暗がりの中で、一行だけ頼りなく光を保っている。
スリープ経過 一〇〇年と七か月
「……ひゃく、ねん」
呟いたのは、私ではなく渉だった。
百年。
数えようとして、すぐに諦めた。
数えるための材料が、私の手の中には何ひとつない。
渉は端末に駆け寄ると、手袋を外し、割れた画面の縁を指でなぞった。
真鍮の鍵を、脇の小さな差込口へ——私を目覚めさせたのと同じ口へ——もう一度差し込む。
画面が、ぱ、ぱ、と明滅した。
文字の列が浮かび上がる。
渉が、画面に顔を近づけて、眉を寄せる。
「……だめだ。古い字ばっかりで、読めない」
私は、画面を見つめた。
——読める。
理由は分からない。
けれど、並んだ古い文字は、見慣れた絵のように、すっと頭に入ってきた。
「読めるよ。私が、読むね」そう言って、指で行を追いながら、ひとつずつ声に出していった。
個体状態:良好
記憶領域:初期化済み
関連記録:外部保管(十か所)
再生装置:本体に設置(要修復)
予備電力:残り二十六日
「二十六日……?」
「予備の蓄電池の残り、だと思う。この研究所、もう主電源が死んでるみたい。
私はずっと、最後の蓄えで眠ってたんだね。それが、目が覚めたから、使い始めて——」
言いながら、自分の声が、ふと細くなるのが分かった。
「二十六日で、止まっちゃうんだね」
沈黙が落ちた。
窓の向こうで、波だけが変わらずに寄せては返している。
不思議と、怖くはなかった。
ただ、足もとの床が急に薄くなったような、心許なさがあった。
目覚めて、まだ数分。
名前も知らず、過去もなく、それなのに終わりの日付だけは、はっきりと与えられている。
「……関連記録、って、何のことだろう」
三行目を指さす。
「私の記憶の、ことかな。初期化されて、空っぽだけど、どこかに残ってるものがある、ってことみたい。
それが、十か所もあるんだって」
「十か所」
渉がはっと顔を上げた。
ポーチに手を突っ込み、乱暴に何かを引っ張り出す。
折りたたまれた、黄ばんだ紙。
「これ」
広げられた地図の上に、赤いインクの印が点々と並んでいた。
隅のほうには、ペンで描いた、小さな、にこにこ顔の落書きが、ひとつ。
一つ、二つ、三つ——印を、数えていく。
十個。
印の脇には、細かな文字が添えられていた。
ひどく古い書体で、渉の目には、模様にしか見えないのだろう。
——けれど、私には読める。
第三補給庫。
旧公営倉庫。
……どれも、百年前の地名らしい。
「うちに、ずっと伝わってきた地図。字が古すぎて、何の印なのか誰にも読めなかった。
でも、十個あるってことだけは、みんな知ってる」
「同じ数、なんだね」
「偶然、じゃないよね」
震えた声は、恐怖のせいではなかった。
半分作り話だと思い込んできたものが、突然、現実の手触りを持ちはじめたことへの戸惑い。
きっと、それだった。
「どうして、ここまで来てくれたの?」
端末の前の椅子に腰を下ろして、訊いた。
渉は畳み直した地図を膝に置いたまま、しばらく黙っていた。
「うちに、代々伝わってる話があって」
ぽつり、と落ちた声。
「『ばあちゃんの家』って呼ばれてる場所に、家族を待ってる人がいる。
この鍵と地図は、その人のところへ行くためのもの。……誰も本気にしなかった。
父さんも、じいちゃんも、昔話だって笑ってた。俺も、半分は、そう思ってた」
「半分は、って?」
「もう半分は」鍵を見つめる。
「そうだったらいいな、って」
「どうして?」
訊いてから、踏み込みすぎたかな、と思った。
けれど渉は、意外なほど素直に続けた。
「村に、居場所がなくて。変なやつ、って言われてる。機械いじりばっかりしてるから。
誰も俺の作るものを分かってくれないし、分かってほしいとも、思わなかった。
でも、冬は駄目なんだ。みんなが家の中に集まる季節に、俺だけ納屋でネジを回してるのが」
そこではっとして、彼は口をつぐんだ。
「ごめん。かわいそうな話にしたいわけじゃなくて」
「うん」
それ以上は、何も言わなかった。
聞かなかったことにするのではなく、ちゃんと受け取った、という意味で、ただ頷く。
「だから、来たんだ。もし本当に誰かが待ってたら、その人に会いたかった。
……って言ってたら、変な気分になってきた」
「どうして、変な気分に?」
「待ってたの、きみ、なんだろ」
おずおずと、渉が私を見る。
少し考えてから、私は答えた。
「そうなのかも、しれない。待たれてたのかどうかは、分からないけど」
それから、微笑む。
「でも、来てくれたのは渉くんだよ。ありがとう」
渉が、思いきり目を逸らした。
耳が、また赤い。
「……ま、まだ、何もしてない」
窓の外の光が傾きはじめていた。
灰色だった海が、鈍い銀に変わっていく。
私たちは並んで、地図と端末を見比べた。
「二十六日」と私は言った。
「その間に、できることを考えなきゃ」
「まず、電気だ」
即座に渉が答える。
声が、急に頼もしくなった。
機械の話になると、この子は別人のように淀みがない。
「きみの体に外から充電できれば、止まるまでの時間は延ばせる。
俺の村には水車の発電機がある。ここの設備とは規格が違うけど、変換器を組めば——たぶん」
「たぶん、なんだね」
「たぶん。でも、やってみる価値はある」
「村は、遠いの?」
「歩いて二日」
二日。
二十六日のうちの二日は、決して小さな数字ではない。
けれど、他にあてはなかった。
「……ねえ、渉くん」
「うん」
「十か所に、湊さんの残したものがあるんだよね。私の知らない私が、そこに」
「たぶん」
「行かなきゃ、って思うの」
口に出した途端、胸の奥にずっとあった感覚の正体が、少しだけ輪郭を持った気がした。
名前も、過去もない。
あるのは空白と、期限と、地図の上の十個の印。
けれど、それだけではなかった。
目覚めてからずっと、胸の真ん中で、小さな灯が揺れている。
理由もなく、でも確かに、「ここで終わってはいけない」と、誰かが背中を押している。
その誰かが、まだ見えない私自身のかけらなのか、それとも——。
「一人で、行くつもり?」
「行くよ。他に、道がないんだもの」
「読めるのと、辿り着けるのは、別だよ」
痛いところを突かれた。
地図の文字は、読める。
けれど、そこに書かれた地名は、すべて百年前のものだ。
今の世界のどこにあたるのか、私には見当もつかない。
「……どうしたらいいのか、分からないの」
「だよね」
渉は、ふっと息を吐いた。
それから、言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「俺が、行く」
「え? 渉くんが?」
「二十六日で止まる人を、置いていくのは違う。その体を充電できるのも、直せるのも、たぶん、今は俺だけだ。
それに、百年前の字は読めなくても、今の道と街なら、俺のほうが知ってる。
鍵を預かったのは、うちの家だ。最後まで見届けるのが、筋だと思う。
それに——」
握った拳が、開いて、また握られる。
「ここまで来て、一人で村に帰るのも、なんか違うって思った。何かを探しに行く人と、一緒に行ってみたい」
「本気なの?」
「本気」
「旅は、長くなるかもしれないよ」
「長くてもいい」
即答だった。
笑ってしまう。
胸のどこかが、ほどけていくような感覚があった。
「じゃあ、お願いします。渉くん」
「……こっちこそ」
握手をするのはなんだか気恥ずかしくて、二人とも手を出しかけて、引っ込めた。
代わりに、並んで窓の外を見る。
出発の支度は、日が暮れるまでかかった。
渉は研究所の中を歩き回って、使えそうな部品を、手際よく袋に詰めていく。
基板。
配線。
小さなレンズ。
「本体は大きすぎて、持ち出せない。でも、必要な部品だけ外して、村で組み直せば——持ち運べる再生装置が、作れるかも」と、独り言のように言いながら。
私は、薄暗い研究室の奥へ足を向けた。
倒れた机。
割れたガラスの向こうに、塩の結晶が花のように咲いた機械たち。
壁には、消えかけたホワイトボードが残っている。
読めない数式が、びっしりと並んでいた。
その隅に、一行だけ、読める文字がある。
今日の夕飯、なに食べたい?
数式の隙間に、小さく書き込まれた文字。
丸くて、少し右上がりの、やさしい字。
どれくらい、見つめていたのだろう。
「……あの」
渉に呼ばれて、はっとした。
呼び名のない私を、彼は、まだ何と呼べばいいのか決めかねている。
「これも、持っていく。本体の中に、入ってたんだ」
差し出された掌の上に、細長い円筒があった。
カートリッジ。
側面に、擦り切れた文字が刻まれている。
湊 記憶(1)
「みなと……さん」
声に出すと、胸がとくんと鳴った。
理由は、やはり分からない。
「たぶん、最初の記憶。見方は、村で考える」
「うん、お願いね」
カートリッジを両手で包む。
ひんやりと冷たい。
冷たいのに、掌の真ん中だけ、じんわりと熱を持っているように感じた。
ホワイトボードの丸い字を、もう一度だけ振り返る。
誰が書いたのだろう。
誰に向けて。
答えは、波の音の向こうに溶けていった。
部屋を出る間際、端末の画面が小さく瞬いて、数字が更新される。
予備電力:残り二十五日と二十時間
もう、減りはじめている。
——行こう。
まずは、水車のある小さな村へ。
私に残された時間は、あと、二十五日と少し。




