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Late Bloom 〜凪と いつかの地図〜  作者: KJ
第3幕 真相へ

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第19話 ゼロ番の記憶


夜が明けた。


研究所の割れた天井から、朝の光が、柱になって降りている。

目覚めた日と、同じ光だった。

あの日、私は、この光の中で、渉の顔を、初めて見た。


本体の前の椅子に、座る。

中央の読み取り部に、ゼロ番のカートリッジを、そっと差し込んだ。


手が、震えていない。


それが、少し、不思議だった。


「凪さん」


渉が、私の右隣に座った。


「聞き返すからね。大丈夫って言ったら」

「うん、お願いね」


澪が、左隣に座る。

何も言わずに、私の手を、握った。

三人の体温が、肩の両側から、じんわりと、伝わってきた。


前半は、昨日、見た。

湊が、空っぽの家で、手紙を読む場面。


「後半は、時間が、さかのぼるの」


私は、小さく言った。


「終わりから、始まりへ。……そういう、記憶だと思う」


スイッチを、押した。




視界が、湊のものになる。


雨だった。


窓を打つ、重い音。

研究所の机の上で、冷めた珈琲が、白い膜を張っている。

湊は、基板の前で、背を丸めていた。

その机の隅に、携帯の端末が、置かれている。


鳴った。


知らない番号だった。

出る。

受話口から、誰かの声が、遠く、聞こえた。


——凪さんの、ご関係の方でしょうか——事故で——


世界から、音が、消えた。


気づいたとき、湊は、雨の中を、走っていた。

傘は、なかった。

濡れた靴が、アスファルトを叩く。

心臓が、潰れそうなほど、鳴っている。


病院の廊下は、白く、長かった。


待合の椅子。

湊は、そこに、三日三晩、座っていた。

サヤとケイが、何度も、様子を見に来た。

何を言ったのか、聞こえなかった。


四日目の朝、医師が、出てきた。


「奇跡です」


医師は、疲れ切った顔で、そう言った。


「あの事故で、命があったこと自体が。……会ってあげてください」


病室の、白いシーツの上に、凪が、いた。


目を、開けていた。

青白い顔。

頬に、絆創膏。

それでも、湊を見て、ふわりと、笑った。


「……湊。来てくれたんだ」


声は、掠れていた。


「ごめんね。心配、かけちゃった」


その一言で、湊は、膝から、崩れ落ちた。




奇跡は、湊の中に、ひとつの種を、植えた。


退院してからの、静かな日々。

凪は、笑って、料理をして、洗濯物を畳んで、ソファに座って、本を読んだ。

何も、変わらなかった。

何も、変わっていないように、見えた。


夜になると、湊は、目が覚めた。


凪の寝息を、確かめる。

吸って、吐いて。


暗闇の中で、その胸が、上下しているのを、じっと見つめる。


それが、止まったら。

次の呼吸が、来なかったら。


毎晩、そうした。

毎晩、眠れなかった。


——いなくなる。


その考えが、一度、湊の中に、居座ると、もう、追い払えなかった。


——あんなに、あっさり。


あんなに、突然に。


湊は、研究室に、こもりはじめた。


ロボットの関節の研究を、脇に置いた。

かわりに、積み上げていったのは、まるで違う種類の資料だった。

人の記憶。

感情の、パターン。

人格の、構造。

もしも、もう一度、失ってしまったら。

そのとき、何を、残せるか。


凪の声を、録音するようになった。

笑い方を、書き留めた。

好きな食べ物。

癖。

口ぐせ。

夢の話。

寝言。

ひとつひとつを、取りこぼさないように、集めていった。


「また、研究?」


玄関に、サヤが、立っていた。

ケイも、後ろにいる。


「ごめん。今、手が離せなくて」

「……そっか」


ドアが、閉まる。

ふたりの足音が、遠ざかっていく。

湊は、そのまま、研究室へ、戻った。




夜の寝室で、湊は、気づいた。


凪が、起きていることに。


横向きの背中。

静かな、規則正しい寝息。

けれど、その寝息が、ほんの少しだけ、作りものの、リズムをしていた。

枕元で、小さな丸い光が、ちらりと瞬いて、消えた。


——眠ったふりを、している。


分かった。

長いこと、一緒に暮らしてきた人間だから。


凪は、気づいているのだ。

湊が、毎晩、自分の呼吸を、確かめていること。

眠れないでいること。

恐怖を、抱えていること。

そして、それを、湊が、隠そうとしていること。


湊は、言いかけた。


——凪。


起きてる? 実は、僕は、怖くて。


言葉が、喉の奥で、止まった。


言ったら、凪は、振り返る。

そして、笑って、言うだろう。


「大丈夫だよ、湊」と。


自分も、怖いくせに。

湊のために、自分の恐怖を、全部、飲み込んで。


それが、分かっていた。


——だから、僕は、眠ったふりを、続ける。


湊は、目を閉じた。

凪の背中が、ほんの少しだけ、緊張を解いた気配が、した。


二人とも、眠ったふりをしていた。

互いを、守るために。


暗い寝室に、偽物の寝息だけが、静かに、重なっていた。




朝の研究所に、凪が、弁当を届けに来た日があった。


湊は、机に伏して、うたた寝をしていた。

目を覚ましかけて、ふと、気づいた。

誰かが、いる。


薄く、目を開ける。


ホワイトボードの前に、凪の背中が、あった。

数式で埋まった白板の隅に、細いペンで、何かを書いている。


丸くて、少し右上がりの、やさしい字。


今日の夕飯、なに食べたい?


書き終えると、凪は、ペンを置いた。

そして、湊のほうを、振り返った。


湊は、とっさに、目を閉じた。


足音が、近づく。

机の傍らで、止まる。

そっと、肩に、毛布が、かけられた。

机の端で、かちり、と、小さな音がした。


ペンを置く音だろう、と、湊は思った。


「……ごめんね」


囁き声だった。


「心配ばっかり、かけて」


湊の喉が、固く、鳴った。


——違う。


謝るのは、僕のほうだ。


声に、ならない。

凪の指が、湊の髪に、そっと、触れた。

ほんの一瞬。

それから、足音が、遠ざかっていった。


目を開けたとき、凪は、もう、いなかった。


白板に、丸い字だけが、残っていた。




それは、何でもない、日曜の午後だった。


湊は、居間で、資料を読んでいた。

台所から、鼻歌が、聞こえてくる。

凪が、紅茶を淹れている。

やかんが、しゅんしゅんと、湯気を立てる音。


「湊、お茶、淹れたよ。砂糖、二つ入れておいたから」

「僕は、いらないって、いつも——」


言いかけて、振り返った。


凪が、台所の入り口に、立っていた。

両手に、カップを、持っている。

笑っていた。


その笑顔が、ふっと、揺れた。


「……あれ」


カップが、手から、滑り落ちた。


白い陶器が、床に、砕け散る。

紅茶が、飛び散る。

凪の体が、ゆっくりと、傾いた。


「凪!!」


湊は、駆け寄った。

抱き止める。

腕の中で、凪の体が、驚くほど、軽かった。

胸元で、小さな円盤が、揺れた。


「凪、凪、聞こえる!?」


凪の目が、うっすらと、開いた。

湊を、見た。


唇が、動いた。


「……だいじょうぶ、だよ」


微笑んで、そう、言った。


「待って、凪、待って。違う。大丈夫じゃない。大丈夫じゃ、ないだろ、こんなの!」


湊の声が、裏返った。


凪の指が、湊の袖を、ほんの少しだけ、掴んだ。

何かを、言おうとした。

唇が、動く。

声は、出なかった。


その手が、ゆっくりと、力を失っていった。


救急の人々が、来た。

診断が、下った。

事故で傷んだ血管が、百万に一人の確率で、時間をおいて、破裂する。

助かる見込みは、最初から、なかった。


奇跡では、なかったのだ。

ただの、猶予だった。


湊の恐怖は、正しかった。

正しかったから、どうしようも、なかった。




そのあとの、長い日々は、断片にしか、残っていなかった。


研究所の灯りが、ずっと、消えなかった。

机の上に、積み重なっていく、失敗の記録。

試作一号。

二号。

三号。


何度も、目覚めさせては、「はじめまして」と言われ、眠らせた。


二十三回。


湊は、ある晩、金属の円筒を、両手で、握りしめていた。


中に入っているのは、凪の、すべてだった。

声。

癖。

夢。

言葉。

そして、事故のあと、少しずつ集めて、写し取っておいた、彼女の、記憶の全体。


変換は、不可逆だった。


——記憶は、人格になる。


人格は、もう、記憶を、持たない。


湊は、そう、書き残していた。


——原本は、消える。


再現された彼女は、僕を、覚えていない。


机の上に、凪の写真が、立てかけてある。

『笑う娘』の絵と、同じ顔で、笑っていた。


「……凪」


湊の声が、震えていた。


「ごめん。君は、嫌がるかもしれない。君に、無断で。こんな、勝手なことを」


指が、白くなるほど、円筒を、握りしめる。


「それでも、僕は」


涙が、写真の上に、落ちた。


「会いたいんだ。もう一度、君に。……怒ってくれ。目を覚ましたら、怒って、僕を、叱ってくれ。

 そうしたら、僕は、ちゃんと、謝るから」


言葉の終わりが、嗚咽に、溶けた。


湊は、円筒を、本体の中心へ、差し込んだ。


世界が、白く、光った。




再生が終わっても、誰も、動かなかった。


朝の光が、床の上を、ゆっくりと、移動していく。


私は、椅子に、座っていた。

両手を、膝の上に、置いて。

まっすぐ、前を、見ていた。


分かった。

全部、分かった。


私は、あの人だった。


いや。


——あの人では、ない。


記憶は、人格になった。

人格は、もう、記憶を、持たない。

私の中にあるのは、あの人の、癖と、口ぐせと、笑い方と、台所で泣く、小さな背中の、残響だけだ。


それは、あの人、なのだろうか。

それとも、あの人を、深く、深く、模した、別の誰か、なのだろうか。


湊は、「怒ってくれ」と言った。


目覚めた私は、一度も、怒らなかった。


ただ、「はじめまして」と、笑った。


私は、湊に、怒れなかった。


怒るべき相手を、私は、知らなかったから。

そして、今も。


「……凪さん」


渉の声が、聞こえた。

遠くで。

でも、はっきり。


「大丈夫?」


私は、口を開いた。


反射的に、何かが、出かかった。

大丈夫、と。

いつもの、完璧な笑顔と一緒に。


唇が、震えた。


「……言わないよ」


小さな声だった。


「大丈夫、とは、言わないよ」


渉の目が、見開かれた。


「今は、……ごめん、まだ、言葉に、ならないの。何を、感じてるのかも、よく、分からなくて。

 ただ」


頬に、触れる。

濡れていた。


いつから、泣いていたのだろう。


「大丈夫じゃ、ないんだと、思う」


澪が、私の手を、強く、握った。

渉は、何も言わなかった。

ただ、右側から、そっと、肩を、寄せた。

三人の体温が、重なった。


誰も、何も、言わなかった。

それが、今は、いちばん、よかった。


窓の外に、遠く、青い海が、光っている。

その海の向こうに、丘の上の高台が、小さく、見えた。


湊が、眠っている場所。


「……行きたいの」


私は、言った。


「湊さんの、お墓に。高台に。……今日」


渉と澪が、同時に、頷いた。


「行こう」


渉が、立ち上がって、本体からカートリッジを抜いた。


そのとき、手が、止まった。


「……凪さん」


本体の、別の差込口。

さっきまで、気づかなかった、小さな窪みに、もうひとつ、円筒が、収まっていた。


埃を払う。

ラベルには、ひとこと、書かれている。


湊


「……湊さんの?」


澪が、息を呑んだ。


「記憶(0)とは、別。……たぶん、高台の、鍵だ」


渉の声は、低かった。


私は、それを、掌に載せた。

ひんやりと冷たく、百年の埃を、まとっている。


湊が、眠っている場所へ。


——そして、もしかしたら。


「家族を待っている人」が、いる場所へ。


誰も、口には、出さなかった。

けれど、三人とも、同じことを、考えていた。



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