↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Late Bloom 〜凪と いつかの地図〜  作者: KJ
第3幕 真相へ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
18/20

第18話 欠けた手紙


研究所の本体は、百年分の錆と塩の中で、死んだように眠っていた。


部屋ひとつぶんの巨大な機械。

割れた天井から差す朝日が、その表面に、白い筋を描いている。

渉は、その前に立って、腕を組んだ。

それから、袖をまくった。


「やるか」

「うん」と、澪が頷く。

「道具、全部、出すね」


修理には、二日かかった。


部品は、この旅で集めたものでまかなえた。

フォルジュのトウコさんが、腕を作り直したあとの端材を、袋いっぱいに持たせてくれていた。

黒い鋼板が、本体の割れた外装の代わりになる。

アウローラを発つ朝には、コハクが、小さな基板を、私の手に載せてくれた。


「旧規格の、読み出し基板です。きっと、必要になります」


その一枚が、壊れた読み取り部の、欠けた心臓になった。

澪のギルドの工具が、細い隙間に潜り込み、渉の指が、百年前の配線を、一本ずつ、繋いでいく。


二人は、ほとんど、眠らなかった。


私は、手伝えることが少なかったので、研究所の隅の古い湯沸かしを、直してもらって、夜通し、お茶を淹れた。


「はい。熱いよ」

「ありがとう」


渉が、受け取る。

カップの脇に、角砂糖が、二つ。


「……俺、入れてって言ってない」

「疲れたときは、甘いほうがいいの」


言ってから、自分で、はっとした。

凪さんの、言葉だった。

町の茶店で、百年前に、そう言って、お客さんに、二つ入れていた人の。


渉は、少し笑って、そのまま、一口、飲んだ。


「……うん。おいしい」


二日目の夜明け前、本体の奥から、低い唸りが、響いた。


「動いた」


渉が、息を吐く。

澪が、歓声を上げた。


中央の読み取り部で、青白い光が、ぼう、と灯った。


私は、胸の内ポケットに触れた。


クレヨンの絵。

コハクの別れ際の言葉。

ブロッサムの、蕾の枝。


それから、本体の最奥の、封じられていた扉に、指をかけた。

修理が終わって、初めて開いた扉だった。

中に、カートリッジが、ただひとつ。


湊 記憶(0)


いちばん最初の、ゼロ番の記憶。

一本のカートリッジに、前半と後半が、収められている。


「前半から、再生する」

「うん」

「……そばに、いてね」

「いるよ」


渉と澪が、両側に、座った。

私は、深く、息を吸って、スイッチに、指を置いた。




視界が、湊のものになる。


玄関だった。


黒い服が、胸元に、重い。

靴を脱ごうとして、手が、止まる。

家の中は、暗く、静かだった。

誰も、いない。

帰りを待っている人が、いない。


その事実だけが、廊下の奥から、冷たく、押し寄せてくる。


——ただいま、と、言いかけて。


言えなかった。


何日が、経ったのか。

湊は、数えていなかった。


友人たちが、玄関で、何か言っていた気がする。


サヤ。

ケイ。

慰めの言葉。

肩に置かれた、温かい手。

湊は、全部に、頷いた。

何も、聞こえていなかった。


居間のソファ。

凪が、いつも、座っていた場所。

そこだけが、少し、くぼんでいる。


視線が、台所へ、向く。


——お茶を、淹れよう。


理由は、なかった。

ただ、凪が、毎日、そうしていた。

それに、倣いたかった。


戸棚を開ける。

紅茶の缶。

丸い、青い、金属の缶。

湊は、これまで、一度も、自分で開けたことがなかった。

蓋を回す。

ひどく、固い。


かちり、と、蓋が、外れた。


ふわり、と、茶葉の香りが、立ちのぼる。

凪の匂い。


目の奥が、熱くなる。


缶の内側の蓋に、何かが、貼りついているのが、見えた。


白い、小さな、折りたたまれた紙。


手が、震えた。


紙を、広げる。

見慣れた、丸い、右上がりの、やさしい字。


——手紙。


湊は、その場に、座り込んだ。


読んでいる。

一行ずつ、ゆっくりと。

けれど、文字が、滲んで、読めない。


涙のせいだ。


それでも、読んだ。

何度も。

何度も、読み返した。


視界の端で、最後の一行が、近づいてくる。


湊の唇が、動いた。

声に出して、読んだ。


そのとき、記憶が、白く、途切れた。


音が、ない。

文字が、ない。

そこだけが、ぽっかりと、抜け落ちていた。


——記憶が、読ませなかった。


私には、そう、思えた。


あまりに、大きすぎて。

あまりに、痛すぎて。


湊自身が、その一文を、記憶に、残せなかったのかもしれない。


白が、ゆっくりと、晴れていく。


湊は、床に、膝をついたまま、手紙を、胸に抱いていた。


肩が、震えている。


声は、出ない。


やがて、湊の唇が、小さく、動いた。


「……会いに行く」


掠れた、囁きだった。


「どこまでだって、行く。……君に、もう一度」


手紙を、そっと、缶の中に、戻す。

蓋を、閉める。

戸棚を、閉じる。


その手は、もう、震えていなかった。


何かを、決めた手だった。




再生が終わった瞬間、私は、立ち上がっていた。


「凪さん」

「……紅茶の缶が、あるの」


声が、勝手に、出た。


「台所の、戸棚の、青い缶。そこに、手紙が、ある」

「家は、ある?」と、澪が訊く。

「ある。丘の、上の。……私たちの、家」


言ってから、気づいた。

私たちの。

そう呼んだことに。


渉は、何も言わなかった。

ただ、私の手を、そっと、握った。




旧住宅街は、研究所から、坂を少し上った、乾いた丘の斜面にあった。


崩れた石垣。

緑に覆われた家々。

屋根の落ちた小さな家が、草の中に、静かに沈んでいる。

その中で、一軒だけ、まだ形を保っている家が、あった。


白い壁。

低い屋根。

縁側。

庭の隅に、枯れた鉢植えの跡。


あの縁側。

ヴェルデの記憶で、見た。

湊が、老いに気づいた、あの縁側だった。


「……ここだよ」


私の足が、止まった。


戸は、半ば朽ちていた。

押すと、きしり、と、悲鳴のような音を立てて、開いた。


中は、暗く、湿った木の匂いがした。

玄関。

廊下。

居間。

ソファは、とうに、朽ちている。


それでも、あの窪みの位置は、知っている気がした。


台所。


窓から、午後の光が、斜めに差している。

古い木の机。

流し。

そして、壁に作りつけの、戸棚。


私は、その前に立った。


手が、少しだけ、震えた。


戸を、開ける。


奥に、丸い、青い缶が、あった。


ペンキが、剥げて、錆が、浮いている。

それでも、確かに、あの缶だった。

湊の記憶の中で、見た、あの缶。


手に取る。

軽い。

蓋を、回す。

固い。

渉が、後ろから、そっと、手を貸してくれた。


かちり。


乾いた茶葉の、かすかな香りが、立った。

百年経っても、消えない香り。


缶の、内側の蓋に、白いものが、貼りついていた。


小さな、折りたたまれた、紙。


私は、息を、止めた。


そっと、剥がす。

紙は、薄くて、脆かった。

端が、ぼろぼろと、崩れそうになる。

両手で、受けるようにして、広げた。


丸くて、少し右上がりの、やさしい字。


今日の夕飯、なに食べたい?


ホワイトボードの、あの字。


私の、字だった。




湊へ。

直接は、言えないから、書きます。

事故のあと、毎晩、怖かった。目を閉じたら、また、全部が消えてしまう気がして。それでも、あなたの前では、笑っていました。あなたが、私より、ずっと、怯えていたから。

あなたが、研究室にこもって、人と会わなくなっていくのを、私は、知っています。私のせいだと、分かっています。止めたかった。でも、止めたら、あなたが壊れてしまう気がして、言えませんでした。あなたにも、私に内緒にしていることが、あるでしょう。……私にも、あります。

私は、大丈夫じゃありません。

本当は、■■■■■■■■■■■■■■■■。

桜が咲く頃に、帰ったら、ちゃんと、話します。

凪


読み終えても、私は、動けなかった。


「……あの人の、字だ」


呟いた。


「あの人の。……私の」


指で、文字を、そっと、なぞる。

インクは、淡く、掠れている。

その中で、最後から二行目だけが、黒く、滲んで、潰れていた。

水と、時間と、錆の跡。

そこに何が書かれていたのか、もう、読めない。


「本当は、……」


声に出した。

その続きが、出てこない。


思い出そうとした。

台所に立って、紙を折って、缶の蓋に、貼りつける。


手が、震えていたはずだ。


何を、書いたのか。

何を、伝えたかったのか。


何も、浮かばない。


私の、記憶は、湊が、私を作るときに、使われてしまった。

残っているのは、癖と、体の記憶と、こうして、百年後に拾い上げる、断片だけ。


「……ここが、読めないの」


欠けた一行を、指さす。


指が、少し、震えていた。


「あの人が、一番、言いたかったこと。たぶん。……それなのに」

「凪さん」


渉が、静かに、呼んだ。


「大丈夫?」


反射だった。

口が、勝手に、開いた。


「大丈夫」


言ってしまってから、気づいた。

渉の目が、じっと、私を見ている。

澪も、息を詰めて、私を見ていた。


渉が、ゆっくり、首を傾げた。


「本当に?」


胸の奥が、きゅっと、鳴った。


約束。

昨日の、舟の上の約束。


私は、唇を、噛んだ。

笑顔を、作ろうとして、作れなかった。


代わりに、喉の奥から、細い、息が、漏れた。


「……分からないの」


声が、震えた。


「大丈夫、なのか、そうじゃないのか。分からない。……手紙を読んで、あの人が、すごく、遠くて、すごく、近くて」

「うん」

「それが、分からない」

「うん」


渉は、頷いた。

それ以上、何も、求めなかった。

ただ、私の隣に、座り込んで、膝を、並べた。


「聞き返して、くれて」


私は、手紙を、胸に抱いた。


「ありがとう」


澪が、反対側に、座った。

三人で、百年前の台所の床に、肩を、寄せ合った。

夕日が、割れた窓から、少しずつ、赤く、差してきた。


手紙は、桜が咲く頃に、話します、と、結ばれていた。

あの人は、話すつもりだった。

話す前に。


——何が、起きたのか。


残っているのは、もう、ひとつだけ。


最後の記憶の、後半。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。