第18話 欠けた手紙
研究所の本体は、百年分の錆と塩の中で、死んだように眠っていた。
部屋ひとつぶんの巨大な機械。
割れた天井から差す朝日が、その表面に、白い筋を描いている。
渉は、その前に立って、腕を組んだ。
それから、袖をまくった。
「やるか」
「うん」と、澪が頷く。
「道具、全部、出すね」
修理には、二日かかった。
部品は、この旅で集めたものでまかなえた。
フォルジュのトウコさんが、腕を作り直したあとの端材を、袋いっぱいに持たせてくれていた。
黒い鋼板が、本体の割れた外装の代わりになる。
アウローラを発つ朝には、コハクが、小さな基板を、私の手に載せてくれた。
「旧規格の、読み出し基板です。きっと、必要になります」
その一枚が、壊れた読み取り部の、欠けた心臓になった。
澪のギルドの工具が、細い隙間に潜り込み、渉の指が、百年前の配線を、一本ずつ、繋いでいく。
二人は、ほとんど、眠らなかった。
私は、手伝えることが少なかったので、研究所の隅の古い湯沸かしを、直してもらって、夜通し、お茶を淹れた。
「はい。熱いよ」
「ありがとう」
渉が、受け取る。
カップの脇に、角砂糖が、二つ。
「……俺、入れてって言ってない」
「疲れたときは、甘いほうがいいの」
言ってから、自分で、はっとした。
凪さんの、言葉だった。
町の茶店で、百年前に、そう言って、お客さんに、二つ入れていた人の。
渉は、少し笑って、そのまま、一口、飲んだ。
「……うん。おいしい」
二日目の夜明け前、本体の奥から、低い唸りが、響いた。
「動いた」
渉が、息を吐く。
澪が、歓声を上げた。
中央の読み取り部で、青白い光が、ぼう、と灯った。
私は、胸の内ポケットに触れた。
クレヨンの絵。
コハクの別れ際の言葉。
ブロッサムの、蕾の枝。
それから、本体の最奥の、封じられていた扉に、指をかけた。
修理が終わって、初めて開いた扉だった。
中に、カートリッジが、ただひとつ。
湊 記憶(0)
いちばん最初の、ゼロ番の記憶。
一本のカートリッジに、前半と後半が、収められている。
「前半から、再生する」
「うん」
「……そばに、いてね」
「いるよ」
渉と澪が、両側に、座った。
私は、深く、息を吸って、スイッチに、指を置いた。
視界が、湊のものになる。
玄関だった。
黒い服が、胸元に、重い。
靴を脱ごうとして、手が、止まる。
家の中は、暗く、静かだった。
誰も、いない。
帰りを待っている人が、いない。
その事実だけが、廊下の奥から、冷たく、押し寄せてくる。
——ただいま、と、言いかけて。
言えなかった。
何日が、経ったのか。
湊は、数えていなかった。
友人たちが、玄関で、何か言っていた気がする。
サヤ。
ケイ。
慰めの言葉。
肩に置かれた、温かい手。
湊は、全部に、頷いた。
何も、聞こえていなかった。
居間のソファ。
凪が、いつも、座っていた場所。
そこだけが、少し、くぼんでいる。
視線が、台所へ、向く。
——お茶を、淹れよう。
理由は、なかった。
ただ、凪が、毎日、そうしていた。
それに、倣いたかった。
戸棚を開ける。
紅茶の缶。
丸い、青い、金属の缶。
湊は、これまで、一度も、自分で開けたことがなかった。
蓋を回す。
ひどく、固い。
かちり、と、蓋が、外れた。
ふわり、と、茶葉の香りが、立ちのぼる。
凪の匂い。
目の奥が、熱くなる。
缶の内側の蓋に、何かが、貼りついているのが、見えた。
白い、小さな、折りたたまれた紙。
手が、震えた。
紙を、広げる。
見慣れた、丸い、右上がりの、やさしい字。
——手紙。
湊は、その場に、座り込んだ。
読んでいる。
一行ずつ、ゆっくりと。
けれど、文字が、滲んで、読めない。
涙のせいだ。
それでも、読んだ。
何度も。
何度も、読み返した。
視界の端で、最後の一行が、近づいてくる。
湊の唇が、動いた。
声に出して、読んだ。
そのとき、記憶が、白く、途切れた。
音が、ない。
文字が、ない。
そこだけが、ぽっかりと、抜け落ちていた。
——記憶が、読ませなかった。
私には、そう、思えた。
あまりに、大きすぎて。
あまりに、痛すぎて。
湊自身が、その一文を、記憶に、残せなかったのかもしれない。
白が、ゆっくりと、晴れていく。
湊は、床に、膝をついたまま、手紙を、胸に抱いていた。
肩が、震えている。
声は、出ない。
やがて、湊の唇が、小さく、動いた。
「……会いに行く」
掠れた、囁きだった。
「どこまでだって、行く。……君に、もう一度」
手紙を、そっと、缶の中に、戻す。
蓋を、閉める。
戸棚を、閉じる。
その手は、もう、震えていなかった。
何かを、決めた手だった。
再生が終わった瞬間、私は、立ち上がっていた。
「凪さん」
「……紅茶の缶が、あるの」
声が、勝手に、出た。
「台所の、戸棚の、青い缶。そこに、手紙が、ある」
「家は、ある?」と、澪が訊く。
「ある。丘の、上の。……私たちの、家」
言ってから、気づいた。
私たちの。
そう呼んだことに。
渉は、何も言わなかった。
ただ、私の手を、そっと、握った。
旧住宅街は、研究所から、坂を少し上った、乾いた丘の斜面にあった。
崩れた石垣。
緑に覆われた家々。
屋根の落ちた小さな家が、草の中に、静かに沈んでいる。
その中で、一軒だけ、まだ形を保っている家が、あった。
白い壁。
低い屋根。
縁側。
庭の隅に、枯れた鉢植えの跡。
あの縁側。
ヴェルデの記憶で、見た。
湊が、老いに気づいた、あの縁側だった。
「……ここだよ」
私の足が、止まった。
戸は、半ば朽ちていた。
押すと、きしり、と、悲鳴のような音を立てて、開いた。
中は、暗く、湿った木の匂いがした。
玄関。
廊下。
居間。
ソファは、とうに、朽ちている。
それでも、あの窪みの位置は、知っている気がした。
台所。
窓から、午後の光が、斜めに差している。
古い木の机。
流し。
そして、壁に作りつけの、戸棚。
私は、その前に立った。
手が、少しだけ、震えた。
戸を、開ける。
奥に、丸い、青い缶が、あった。
ペンキが、剥げて、錆が、浮いている。
それでも、確かに、あの缶だった。
湊の記憶の中で、見た、あの缶。
手に取る。
軽い。
蓋を、回す。
固い。
渉が、後ろから、そっと、手を貸してくれた。
かちり。
乾いた茶葉の、かすかな香りが、立った。
百年経っても、消えない香り。
缶の、内側の蓋に、白いものが、貼りついていた。
小さな、折りたたまれた、紙。
私は、息を、止めた。
そっと、剥がす。
紙は、薄くて、脆かった。
端が、ぼろぼろと、崩れそうになる。
両手で、受けるようにして、広げた。
丸くて、少し右上がりの、やさしい字。
今日の夕飯、なに食べたい?
ホワイトボードの、あの字。
私の、字だった。
湊へ。
直接は、言えないから、書きます。
事故のあと、毎晩、怖かった。目を閉じたら、また、全部が消えてしまう気がして。それでも、あなたの前では、笑っていました。あなたが、私より、ずっと、怯えていたから。
あなたが、研究室にこもって、人と会わなくなっていくのを、私は、知っています。私のせいだと、分かっています。止めたかった。でも、止めたら、あなたが壊れてしまう気がして、言えませんでした。あなたにも、私に内緒にしていることが、あるでしょう。……私にも、あります。
私は、大丈夫じゃありません。
本当は、■■■■■■■■■■■■■■■■。
桜が咲く頃に、帰ったら、ちゃんと、話します。
凪
読み終えても、私は、動けなかった。
「……あの人の、字だ」
呟いた。
「あの人の。……私の」
指で、文字を、そっと、なぞる。
インクは、淡く、掠れている。
その中で、最後から二行目だけが、黒く、滲んで、潰れていた。
水と、時間と、錆の跡。
そこに何が書かれていたのか、もう、読めない。
「本当は、……」
声に出した。
その続きが、出てこない。
思い出そうとした。
台所に立って、紙を折って、缶の蓋に、貼りつける。
手が、震えていたはずだ。
何を、書いたのか。
何を、伝えたかったのか。
何も、浮かばない。
私の、記憶は、湊が、私を作るときに、使われてしまった。
残っているのは、癖と、体の記憶と、こうして、百年後に拾い上げる、断片だけ。
「……ここが、読めないの」
欠けた一行を、指さす。
指が、少し、震えていた。
「あの人が、一番、言いたかったこと。たぶん。……それなのに」
「凪さん」
渉が、静かに、呼んだ。
「大丈夫?」
反射だった。
口が、勝手に、開いた。
「大丈夫」
言ってしまってから、気づいた。
渉の目が、じっと、私を見ている。
澪も、息を詰めて、私を見ていた。
渉が、ゆっくり、首を傾げた。
「本当に?」
胸の奥が、きゅっと、鳴った。
約束。
昨日の、舟の上の約束。
私は、唇を、噛んだ。
笑顔を、作ろうとして、作れなかった。
代わりに、喉の奥から、細い、息が、漏れた。
「……分からないの」
声が、震えた。
「大丈夫、なのか、そうじゃないのか。分からない。……手紙を読んで、あの人が、すごく、遠くて、すごく、近くて」
「うん」
「それが、分からない」
「うん」
渉は、頷いた。
それ以上、何も、求めなかった。
ただ、私の隣に、座り込んで、膝を、並べた。
「聞き返して、くれて」
私は、手紙を、胸に抱いた。
「ありがとう」
澪が、反対側に、座った。
三人で、百年前の台所の床に、肩を、寄せ合った。
夕日が、割れた窓から、少しずつ、赤く、差してきた。
手紙は、桜が咲く頃に、話します、と、結ばれていた。
あの人は、話すつもりだった。
話す前に。
——何が、起きたのか。
残っているのは、もう、ひとつだけ。
最後の記憶の、後半。




