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Late Bloom 〜凪と いつかの地図〜  作者: KJ
第3幕 真相へ

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第17話 水没の街


ハーヴェンの丘に立ったのは、桜坂を出て、七日目の昼だった。


見覚えのある海だった。

鉛色ではなく、春の青を映して、きらきらと揺れている。

その手前に、水に沈みかけた街の屋根が、いくつも、いくつも、波に洗われていた。

目覚めたあの日、窓から見た景色。


あのときは、ただ、きれいだと思った。

胸が狭くなる理由を、知らなかった。


丘の上には、割れた天井の研究所が、静かに待っている。

あと、百歩も歩けば、辿り着く。


私は、足を止めた。


「どうしたの」


渉が、訊く。


「……先に、あの街を、見たい」


沈んだ屋根の群れを、指さした。


「最後の記憶を見る前に。私が、昔、笑っていたかもしれない場所を、歩いてみたい。

 ……変かな」

「変じゃない」


答えたのは、澪だった。

ほとんど、間を置かずに。


「賛成。行こう」


渉も、頷いた。


「船が、いるな」




渡し守のゲンタさんは、八十を過ぎた、日に焼けた老人だった。


小さな平底の舟に、鵜を一羽、相棒にしている。

港の外れの桟橋で、釣り糸を垂らしていた彼は、私たちの話を聞くと、ふん、と鼻を鳴らした。


「旧市街、のう。物好きな連中じゃ。あんなところ、何もないぞ」

「あるはずなんです。……ある気がして」


私が言うと、ゲンタさんは、じっと、私の顔を見た。

それから、にやりと、笑った。


「乗れ。ただし、櫂は、わしが持つ」

「えー」と、澪が不満そうに言った。

「私も、漕いでみたい」


結局、最初に、澪が、櫂を握った。


舟は、くるくると、その場で三回転した。


「……何で」

「左右の力が、違うんじゃ」と、ゲンタさんが、呆れ顔で教える。

「右を強く、左を弱く」

「私は、右利きなんだから、右が強いはずでしょ」

「逆に、力みすぎとる」


渉が、必死で笑いをこらえている。

鵜が、ぐわっ、と鳴いた。

舟は、さらに半回転した。


「……やめる」


澪が、いじけて、櫂を渉に押しつけた。

渉が受け取ると、舟は、ふっと、まっすぐになった。


「うまい」


ゲンタさんが、目を細めた。


「小僧は、手が、よく分かっとる」


渉の耳が、また、赤くなった。


舟は、ゆっくりと、水没した街へ、滑り込んでいった。




水の底に、街が、あった。


通りの形が、そのまま、透き通る水の下に、残っている。

石畳。

街灯の柱。

倒れた看板。

その間を、銀色の小魚が、きらきらと、泳いでいた。


建物の一階は、すっかり、水に沈んでいる。

けれど、二階から上は、水面の上に、顔を出していた。

窓に、洗濯物が、翻っている。

屋根の上に、小さな畑。

ハーブの鉢。

子どもが、屋根の縁から、歓声を上げて、水へ飛び込んだ。


「住んでる人が、いるの」

「おるとも」と、ゲンタさんが、笑った。

「ここは、水の上の、街じゃ。屋根から屋根へ、橋を架けてな。百年前は、都の湾岸でいちばん賑やかな通りじゃったそうな」


舟は、洗濯物の下をくぐり、橋の影をくぐり、小さな子どもたちの手を振る声をくぐった。


私は、舳先に座って、水面を、じっと見つめていた。


沈んだ街。

けれど、死んだ街では、ない。


「……生きてるんだね、この街」


呟くと、後ろで、渉が、小さく頷いた気配がした。




「あの店じゃ」


ゲンタさんが、舟を止めたのは、ひとつの、二階建ての建物の前だった。


看板は、もう、読めない。

けれど、軒下に、半分だけ残った文字が、あった。


喫茶 こもれび


私の足が、勝手に、立ち上がった。

舟が、揺れる。


「あの店の二階は、潮が満ちても、乾いとる。誰も、入らんがな。

 ……昔から、そういう店じゃ」


窓から、慎重に、二階へ上がった。


埃と、塩の匂い。

傾いた日差しが、割れた窓から、斜めに差し込んでいる。

丸いテーブル。

四脚の椅子。

壁際の、小さなカウンター。

時間が、止まっていた。


カウンターの上に、小さな、箱が、置かれていた。


防水の、透明な蓋。

その下に、小さな、丸い金属の円盤。

表面に、擦り切れた文字。


声の寄せ書き お客様のメッセージを、お残しください


「これ、なんだろう……」


指が、震えた。


「お店に来た人が、声を、残しておく機械、みたい」と、澪が、そっと言った。

「ギルドの古い台帳で、見たことある」


蓋を、開ける。

円盤が、ひんやりと、冷たい。


私は、振り返った。

渉と、澪が、並んで、立っていた。


「あの」


言葉が、出るまでに、少し、かかった。


「お願いが、あるの」


二人が、じっと、私を見る。


「……そばに、いてくれる? 聞いてる間。……ずっと」


言ってから、自分で、驚いていた。


頼みごとを、した。

誰かに。

具体的に。


渉は、一瞬、目を見開いた。

それから、くしゃり、と、顔を崩して、頷いた。


「当たり前だろ」


澪が、黙って、私の左側に座った。

渉が、右側に座った。

三人が、椅子を寄せ合って、小さな円盤を囲んだ。


私は、そっと、スイッチを入れた。




ざわめき。


最初に、聞こえたのは、大勢の人の、笑い声だった。


「せーの!」

「凪、おめでとう!」


拍手。

誰かが、笑いながら、何かを落とした音。


ケーキの、フォークだろうか。


「ありがとう、みんな。……本当に、びっくりした。誰にも言ってなかったのに」


その声は。


私は、息を、止めた。


私の、声だった。


少しだけ、高い。

少しだけ、よく弾む。

ガレオンで、ミカゲさんに断ったときの声とも、ルーメンで、ヨシノさんに話したときの声とも、違う。

けれど、確かに、私の声。


「サヤが、ばらしたんでしょ」

「ばらしてないよ。ケイが、顔に出てたの」

「出てない!」


男の人と、女の人の声が、被さって、笑い声が、また弾けた。


「ほんとに、嬉しい。みんなが、来てくれて」


私の声が、そう言った。

そこだけは、少し、柔らかくなった。


「湊は?」と、女の人の声が、訊いた。

「あ、遅れるって。研究が、長引いてるみたいで」

「あーあ。相変わらず」

「でも、来てくれるよ。絶対」


私の声は、迷いなく、そう言った。


胸の奥が、きゅっと、鳴った。


記録は、そこで、途切れた。


次の声が、始まった。




今度は、静かな声だった。

二人、いや、二人だけ。


「……凪、助かって、本当によかったよな」


男の人の声。

ケイ、と呼ばれていた人だ。


「うん。ほんとに、よかった」と、女の人の声が、応えた。


サヤ、という人。


「事故のとき、生きた心地、しなかったもん」


事故。


私は、拳を、握った。

両側から、渉と澪の、温かさが、伝わってくる。


「でもさ、サヤ」

「うん」

「凪、笑いすぎじゃない?」


沈黙が、少し、落ちた。


「……わかる」

「前から、よく笑う子だったけど。事故の、あとから。なんか、笑い方が、違う。

 無理してる、っていうか」

「聞いても、『大丈夫』って、笑うだけなんだよね。……そういえば、首に下げてる、あの小さなお守り。

 いつも、肌身離さずだよね」

「湊も、変わったよな。ずっと、研究室にこもって、全然、顔、出さなくなった。

 この前の飲み会も、来なかった」

「うん。……付き合い、悪くなったよね」

「二人とも、何か、隠してる気がする」

「……聞いてみる?」

「聞けるか?」ケイの声が、揺れた。

「怖いんだよ、俺。踏み込んで、凪が、笑えなくなったら」

「……私も」


サヤの声が、小さく、掠れた。


「あの子、いつも、みんなのこと、一番に気にかけてくれるのに。

 自分のことは、何も、言わないでしょ。……ずるいよね。私たちは、あの子に、頼ってばかりなのに」


長い沈黙が、あった。


「……次に会ったとき、ちゃんと、聞こう」

「うん。聞こう」


その約束の声は、切実だった。

そして、記録は、そこで、ぷつりと、切れた。




私は、動けなかった。


隣で、澪が、静かに、私の手を握っていた。

渉が、反対側から、何も言わず、ただ、肩を、近づけていた。


「……みんな」


唇が、震えた。


「みんな、同じだったんだ」


涙が、頬を、伝った。

今度の涙は、壊れた機構のせいではなかった。


「私が、笑ってたから。みんな、踏み込めなかった。湊さんも。サヤさんも、ケイさんも。

 ……私を、守るために、黙ってて」


誰も、答えなかった。

ただ、私の手を、握る力が、少しだけ、強くなった。


最後の記録が、再生された。


「あ、サヤ」


男の人の声。

ケイ。

さっきより、少し、明るい。


「凪の、お花見、どうする? 桜が咲く頃に、帰ってくるって、言ってたよな」

「もちろん、みんなで行こう! 湊も、引きずってでも」

「お弁当、凪の好きな、玉子焼きにしようぜ」

「それ、ケイが作るの?」

「無理」

「だよね」


笑い声。


柔らかく、温かく、どこまでも、屈託のない。


記録は、それで、終わった。


窓の外の水面が、夕陽を受けて、金色に輝いていた。

波の音。

遠くで、子どもが、笑う声。


私は、手の甲で、涙を拭った。


それから、気づいた。


右手の指が、耳の横の髪を、つまんでいた。


くるり、と。


「……凪さん」

「うん、なあに?」

「それ」


渉が、そっと、指さした。


「癖。……前から、あったよね」

「うん。考え事をするときなの」

「サヤさんが、言ってた」と、澪が、静かに続けた。

「最初の、誕生日の、録音の最後。『凪、また髪くるくるしてる。

 あれ、考え事のときの癖だよね』って」


私は、気づいていなかった。

それでも、確かに、そこに、その言葉は、あった。


髪の癖。

砂糖の二つ。

笑い方。

人の名前を、一度で覚える力。


誰かに、「頼っていいんだよ」と、言えること。


そして、自分には、言えないこと。


すべて、一致していた。


私は、あの人だった。


そう、はっきりと、思った。

まだ、細部は、分からない。


何が起きたのか。

どうして、こうなったのか。

けれど、その一点だけは、もう、疑いようがなかった。




夕暮れの舟の上で、私は、二人に向かって、ゆっくりと、口を開いた。


「聞いてほしいことが、あるの」


舟は、黄金色の水面を、静かに滑っていく。

ゲンタさんは、黙って、櫂を動かしていた。


「最後の記憶を、見るね。明日」

「うん」

「どうなるか、分からない。……もしかしたら、すごく、辛いかもしれない」

「うん」


渉と澪が、同時に、頷いた。


「それでね。お願いがあるの」


呼吸を、一度、整えた。


「次に、私が、『大丈夫』って言ったら。それは、嘘かもしれない」


二人が、目を見開いた。


「私、本当に、言えないの。苦しいときほど、笑って、大丈夫って、言っちゃう。

 直したいのに、直らない。……だから」


声が、少し、震えた。


けれど、続けた。


「聞き返して。『本当に?』って。ちゃんと、踏み込んで。私が、笑ってても。

 ……お願い」


沈黙が、落ちた。

水の音だけが、聞こえた。


最初に、口を開いたのは、澪だった。


「やっと、言ってくれた」


目の端に、涙が、光っていた。


「ずっと、言ってほしかったの。それ」


渉は、少し、俯いていた。

それから、顔を上げて、まっすぐに、私を見た。


「分かった。約束する」


声は、もう、震えていなかった。


「次に、凪さんが、大丈夫って言ったら、俺は、聞き返す。何回でも。

 凪さんが、泣くまで」

「……泣くまで、は、ちょっと」

「泣くまで」


言い切った渉の顔が、おかしくて、愛しくて。


私は、笑った。


涙の混じった、不格好な、でも、本物の笑顔だった。


舟の上から、見上げた丘の上に、研究所の影が、夕日に、黒く、浮かんでいた。


あそこで、私は、目を覚ました。


明日、あそこで、すべてを、知る。



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