第16話 ブロッサム
桜坂へは、アウローラから東へ五日。
道の脇の雪は、すっかり溶けて、黒い土が、湿った匂いを立てていた。
ところどころに、薄い黄色の花が顔を出している。
風が、やわらかい。
冬の終わりと春の始まりの、ちょうど中間にある空気だった。
「春だ」
渉が、鼻をひくつかせて言った。
「リーヴァを出たのが、冬のはじめだったから……三か月くらい?」
「お父さんとの約束、春までには顔を見せろ、だったよね」
「あ」
足を止めた渉が、それから、苦笑いを浮かべた。
「……間に合わなそう」
「手紙、書こうか」
「うん。……書く」
この旅で私たちは、少しずつ、いろいろなものを、遠くへ置いてきている。
そして、少しずつ、新しいものを、拾ってきている。
桜坂は、なだらかな丘の斜面に、寄り添うように広がる、小さな町だった。
名前のとおり、坂道の両側に、桜の木が、ずらりと並んでいる。
まだ蕾の季節だ。
黒い幹。
細い枝。
その先に、赤みを帯びた小さな蕾が、びっしりと膨らんでいる。
咲く直前の、息を詰めたような静けさが、坂じゅうを満たしていた。
「あと十日もすれば、満開だよ」
通りがかりの老人が、にこにこと教えてくれた。
「ちょうど、花祭りの季節だね」
ロボットは、この町でも、珍しいらしい。
ただ、ガレオンやアルバーナのような、好奇の視線は、少なかった。
人々は、軽く会釈をして、そのまま、通り過ぎていく。
それが、不思議と、居心地よかった。
坂のてっぺん近くに、木造の建物が、ひっそりと建っていた。
深い飴色の板壁。
古びた看板に、こう書かれている。
桜茶房
「ここ、入ってみよう」
誘ったのは、私だった。
理由は、分からない。
ただ、足が、そちらへ向いていた。
戸を開けた瞬間、紅茶の香りが、胸の奥まで、染みた。
店内は、温かい木の匂いに満ちていた。
小さな丸いテーブルが、四つか五つ。
窓際に、花瓶に生けた、小さな枝。
その枝にも、蕾がついている。
客は、数人の老人だけだった。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、六十歳くらいの女性が、顔を上げた。
丸い眼鏡。
髪は、後ろでひとつに、ゆるく結ばれている。
名札には、トキコ、とある。
三人で席につくと、トキコさんが、手慣れた様子で、紅茶を運んできた。
白い陶器のカップ。
湯気が、立ちのぼる。
その脇に、小さな皿。
皿の上には、角砂糖が、ちょうど、二つ、載っていた。
手が、止まった。
「あの」
私は、皿を見たまま、訊いた。
「どうして、二つ、なんですか」
「ああ」トキコさんは、柔らかく笑った。
「桜坂では、昔から、お茶には、砂糖を二つって、決まってるの。
理由は、誰も、はっきり覚えてないんだけど、この町の、習わしでね」
「習わし……」
「この茶房の、前の前の、そのまた前の、お店から。百年前に、この坂の上に、『ひさご茶店』っていう、小さなお店があったの。
そこの娘さんが、お客さんのお茶に、いつも、二つ入れてあげたんですって。
『甘いほうが、元気になるから』って」
鼓動が、ひとつ、大きく鳴った。
「その娘さんの、お名前は」
「凪さん」
トキコさんは、懐かしそうに、窓の外を見た。
「町じゅうが、凪さんの笑顔と、二つ砂糖のお茶、目当てに、通ったそうよ。
うちのひいおばあちゃんは、凪さんの、いちばんの親友だったの。
ミツっていって」
渉と澪が、同時に、私を見た。
私は、カップを、じっと見つめていた。
紅茶の水面に、小さく、自分の顔が、映っている。
「……あら」
トキコさんの声が、変わった。
彼女は、私の顔を、まっすぐに、見ていた。
丸い眼鏡の奥の目が、少しずつ、見開かれていく。
「失礼。……あまりに、そっくりで」
「え」
「ごめんなさいね。……ちょっと、来てもらえる? 資料室に、絵が、あるの」
資料室は、茶房の奥の、小さな部屋だった。
壁一面に、古い写真と、地図と、道具が、整然と飾られている。
町の、百年分の記録。
その中央の壁に、ひとつだけ、額縁に入った油絵が、掛けられていた。
私は、その前に、立った。
肩から上の、女の人の絵だった。
窓から射す、春の光の中で、顔を少し傾けて、笑っている。
肩に届く髪。
丸い目。
絵の具は、ひび割れて、少し色褪せていた。
けれど、その笑顔は、百年の時を、少しも、感じさせなかった。
目が、笑っていた。
頬も、唇も、眉も、肩の力の抜け方も。
全部で、笑っていた。
作られた笑顔ではない。
ただ、うれしくて、おかしくて、こぼれてしまった、笑顔。
「……私の、顔」
呟く声が、掠れた。
「そうね」と、トキコさんは、静かに頷いた。
「題は、『笑う娘』。町の画家が、凪さんをモデルに、描いたんですって」
私は、動けなかった。
こんなふうに、笑える顔を、持っていたのだ。
ハーヴェンで目覚めてから、私は、毎日、笑っていた。
完璧に。
上手に。
誰にも嫌がられないように。
けれど、湊の記憶の中で、「目だけが笑っていない」と言われたのは、この顔の、本当の笑い方を、知っていたからなのだ。
背後で、渉が、小さく、息を呑んだ。
「……今日の、凪さんの顔と、同じだ」
「え」
「アウローラの夜、みんなに、旅の話をしてたときの。あのとき、凪さんは、こういう顔を、してた」
私は、振り返った。
渉は、絵と私を、見比べて、少し、泣きそうな顔をしていた。
「ごめん。何が言いたいのか、自分でも、分かんないんだけど。……今のほうが、ずっと、似てる。
作った顔より」
トキコさんが、そっと、私の隣に立った。
「凪さんが、町を出たのは、二十歳のとき。遠い街の、研究者の方と、結婚の約束をして。
町じゅうが、見送ったそうです」
「……湊、という名前ですか」
トキコさんは、驚いたように、私を見た。
「ご存じなの」
「いえ。……知らないんです。ただ」
胸に手を当てた。
内ポケットの、小さな紙の感触。
ナナの絵。
カートリッジ。
そして、あの人の声。
「この旅で、少しだけ、聞いてきました」
「見せたいものが、あるの」
トキコさんは、資料室の棚の奥から、古い木箱を、取り出した。
蓋に、擦れた字で、こう書かれている。
ミツの宝物
中から出てきたのは、一枚の、黄ばんだ葉書だった。
細かな、丸みのある字。
「ひいおばあちゃんが、生涯、大事にしていたの。凪さんから、届いた、最後の便り」
私は、受け取った。
古い文字だった。
もちろん、読めた。
ミツへ。
都会は、人が多すぎて、目が回ります。でも、湊さんの研究所の近くに、おいしいパン屋さんを見つけました。
湊さんは、相変わらず、研究のことばかりです。紅茶に、砂糖を入れてって言っても、聞いてくれません。苦いほうが好きなんだって。信じられない。
ミツには、何でも言えるのにね。湊さんには、心配をかけたくなくて、言えないことばかり。ずるいかな、私。実は、最近、湊さんに内緒で、ちょっとした工作をしています。出来上がったら、ミツにも見せるね。
桜が咲く頃に、帰ります。
凪
声に出して、読んだ。
最後の一行を読み終えたとき、喉が、ひとつ、鳴った。
「……桜が、咲く頃に」
「ええ」
トキコさんの声が、少し、震えた。
「でも、凪さんは、その春、帰ってこなかった。葉書も、それきり。
町の人は、ずっと、気にしていたそうです。何があったのか、誰も、知らないまま」
誰も、何も、言わなかった。
茶房の窓から、柔らかな午後の光が、差し込んでいる。
蕾をつけた枝が、壁に、細い影を落とした。
私は、葉書を、ゆっくりと、箱に戻した。
「トキコさん」
「はい」
「私は、その、凪さんでは、ないかもしれません」
正直に、言った。
「同じ顔で、同じ名前で。でも、私には、その人の記憶が、ありません。
……ですから、ミツさんの親友の、代わりには、なれません」
トキコさんは、何も言わなかった。
ただ、私の言葉を、静かに、受け止めていた。
「でも」
私は、息を吸った。
「凪さんのお話を、聞かせてください。どんな人だったのか。何が好きで、どんなふうに、笑う人だったのか。
……私は、知りたいです。その人のことを、ちゃんと」
「……ええ」
トキコさんの目から、涙が、一粒、こぼれた。
「たくさん、あるのよ。ひいおばあちゃんから、聞いた、話が。いくらでも」
その日、私は、日が暮れるまで、茶房で、話を聞いた。
凪さんは、よく、坂の途中で、転んだこと。
パンを焼くのが、下手だったこと。
町の子どもたちを集めて、桜の下で、お話をしてあげていたこと。
泣いている子を、見つけると、必ず、隣に座って、黙って、一緒に空を見ていたこと。
私の、知らない、凪の話だった。
けれど、どれも、胸の奥の、どこか深いところで、静かに、ぴたりと、嵌まっていく感じがした。
夜、私は、ひとりで、坂道に出た。
桜並木の、蕾の枝が、街灯の淡い光に、浮かんでいる。
ほんのり、赤い。
風が、少し、冷たい。
春の夜の、匂いがした。
足音が、近づいてきた。
「……いい?」
渉だった。
「うん、いいよ」
隣に立つと、渉は、少し、迷ってから、言った。
「俺、イサナ教授に、手紙を書いた」
「学院の?」
「うん。行くかどうかは、まだ、決めてない。でも、旅が、終わったら、返事をします、って」
私は、思わず、渉の顔を、見た。
「……行きたいんだね」
「分からない。でも、行きたいって、思っていい気がしたんだ。前は、思っちゃいけないって、思ってたから」
「うん、思っていいんだよ」
「それは、凪さんのおかげ」
小さな声だった。
私は、夜の桜を、見上げた。
蕾の先が、ほんのり、光っている。
「渉くん」
「うん、なあに?」
「あのね」
言葉が、喉の奥まで、せり上がった。
——怖かった。
さっき、絵を見たとき、足もとが、崩れるような感覚が、したのだ。
私は、誰かの、代わりに作られたものなのかもしれない。
凪さんの、複製。
それだけの、存在。
言おう、と思った。
渉になら、言える。
言わなきゃいけない。
ルーメンで、そう、誓ったはずなのに。
唇が、開いた。
「……桜、きれいだね」
言葉は、ぜんぜん、違うものになって、出た。
渉は、少しだけ、黙った。
それから、静かに、頷いた。
「うん。咲いたら、もっと、きれいだろうな」
「うん、きっと、もっときれいだよ」
「言えるときで、いいよ」
渉は、桜を見上げたまま、ぽつりと、言った。
「俺は、待てるから」
胸が、熱くなった。
それから、少し、痛んだ。
待てる、と言ってくれた。
それなのに、私は、また、飲み込んだ。
けれど、さっきまでとは、違う気がした。
飲み込んだことを、ちゃんと、自分で、分かっていた。
翌朝、町を発つとき、トキコさんが、坂の下まで、見送ってくれた。
「また、いらっしゃい。桜の咲く頃に」
私は、立ち止まった。
蕾の並木を、振り返る。
朝日が、枝の先を、金色に縁取っていた。
「はい」
声は、迷わなかった。
「また、来ます。桜が、咲く頃に」
トキコさんが、目を細めた。
「今度は、約束、守りますから」
言い切ってから、気づいた。
それは、凪さんの約束を、継ぐ言葉ではなかった。
私が、私の名前で、結ぶ、新しい約束だった。
「凪、として」
小さく、そう、付け足した。
坂道を、下る。
桜の蕾が、ひとつ、ふたつ、朝の風に、揺れた。
次の目的地は、ハーヴェン。
最後の記憶が、待っている。




