第12話 カラヴァン
フォルジュを発って、東へ。
荷車を引く作業ロボットの背に揺られて、六日が過ぎた。
景色は、ゆっくりと色を変えていく。
煤けた灰色の工業地帯が尽きると、草の少ない荒れ野。
荒れ野が尽きると、風に削られた赤茶色の岩。
そして、ある朝、地平線の向こうに、薄い黄色の帯が現れた。
砂だった。
「……海みたいだね」
荷台から身を乗り出して、私は呟いた。
波のようにうねる砂丘が、見渡すかぎり、どこまでも続いている。
風が撫でるたびに、稜線が、さらさらと形を変えた。
水はない。
それなのに、ハーヴェンの海と、同じ匂いがした。
遠くへ、遠くへ、人を連れ去っていく匂い。
「昔は、本当に海だったんだって」と、澪が言う。
「引いたあとに、塩だけが残ったの。だから、このあたりは、岩塩の産地」
「塩の砂漠、か」
渉が、目を細めた。
新しい充電器の太陽光パネルが、荷台の上で、まぶしく光っている。
砂漠の日差しは、驚くほどよく効いた。
左腕の黒い鋼も、すっかり、体温に馴染んでいた。
カラヴァンは、砂丘の窪地に、ぽつんと開いたオアシスの街だった。
白い土壁の家々。
ヤシに似た背の高い木々。
乾いた風の中に、湿った緑の匂いが混じる。
街の中央には、澄んだ水を湛えた池があって、その周りを、砂漠用の多脚機が、行儀よく並んで休んでいた。
細長い六本の脚を折りたたんだ姿は、巨大な虫が昼寝をしているみたいだ。
市場には、岩塩の塊が、山のように積まれていた。
白。
桃色。
淡い青。
光に透けて、まるで宝石のようだった。
「きれいだね」
「おみやげに、角砂糖みたいに削ったやつが、売ってるよ」
茶屋の軒先で、私たちは、旅の最初の一杯を飲むことにした。
運ばれてきた紅茶。
卓の上に、小さな壺。
中に、白い立方体が、ころころと入っている。
私は、何も考えずに、二つ、摘み上げた。
ぽちゃん、ぽちゃん。
「あ」
澪が、声を上げかけたが、遅かった。
私は、もう、一口、飲んでいた。
「…………しょっぱいよ、これ」
「それ、塩! 砂糖じゃなくて、岩塩!」
「だって、同じ形をしてるんだもの」
「同じじゃないよ! なんで見ないの!」
渉が、肩を震わせて、卓に突っ伏した。
澪が、腹を抱えて、笑い転げた。
私は、しょっぱい紅茶を、まじまじと見つめた。
——それから、ふいに、おかしくなった。
笑った。
声を出して、笑ってしまった。
完璧でも、上手でもない、ただのおかしさ。
胸の奥から、泡のように、笑いが、ぽこぽこと溢れてきた。
「……凪さん、今の」
澪が、笑いを引っ込めて、私を見る。
「今の笑い方、いい」
「え?」
「前より、ずっと」
自分でも、なぜ、そんなふうに笑えたのか、分からなかった。
隊商の隊長は、サイカという、大柄な女性だった。
日に焼けた褐色の肌。
頭に巻いた、白い布。
声は大きく、笑い方は豪快で、けれど、その目は、砂の上の風向きを読むように、細かく周りを見ていた。
「護衛と整備、か。いいね。人手が足りなくてさ」
サイカさんは、渉の工具箱を、ひょいと覗き込んで言った。
「多脚機の整備ができるなら、運賃は、ただにしよう。そっちの嬢ちゃんは?」
「私は、ええと、お手伝い、かな?」
「なら、ソウの面倒を見ておくれ」
サイカさんの背後から、ひょい、と小さな顔が覗いた。
十歳くらいの男の子。
丸い目で、私の腕の黒い鋼を、じっと見つめている。
「……かっこいい」
「でしょう?」
「触って、いい?」
「どうぞ」
ソウくんは、私の腕を、おずおずと撫でた。
それから、にっと笑った。
その日から、彼は、私の影のように、くっついて離れなくなった。
砂丘の旅は、四日間。
多脚機の背に積まれた荷の隙間に、私たちは、身を寄せ合った。
昼は、灼熱。
砂の照り返しが、目を刺す。
夜は、一転して、凍えるほど冷えた。
焚き火を囲んで、隊商の人々が、低い声で歌をうたう。
意味の分からない、砂の民の歌だった。
ゆっくりと、波のように、うねる旋律。
サイカさんが、焚き火の向こうで、多脚機の脚を、ぽんぽんと叩いた。
「サリナの奥の都じゃ、こいつらを、鎖でつないで、荷を運ばせる。
戦のときは、兵の代わりに、前へ出す」
言葉は、淡々としていた。
「うちの隊では、そうしない。それだけのことさ」
私は、多脚機の長い脚を、見た。
鎖の跡は、どこにも、なかった。
星が、近かった。
手を伸ばせば、掬えそうなほど。
渉が、焚き火の向こうで、空を見上げている。
その隣で、澪が、膝を抱えて、少し、渉のほうへ傾いていた。
肩が、触れそうで、触れない。
渉は、石像のように、固まっている。
私は、ソウくんを膝に抱いたまま、その光景を、見ないふりで、見ていた。
胸の中が、じんわりと、温かかった。
砂嵐は、四日目の昼に、来た。
最初は、空の色の変化だった。
青が、少しずつ、にごった黄色に染まっていく。
風が、止む。
静けさが、不吉なほど、深くなる。
「全員、輪になれ!」
サイカさんの声が、砂の上に響いた。
多脚機が、いっせいに脚を折って、円形に伏せる。
人間は、その内側に、毛布をかぶって集まった。
「ソウは!?」
誰かが、叫んだ。
私の隣にいたはずの小さな姿が、なかった。
振り返る。
輪の外、砂丘の斜面を、ひとり、転がるように駆けていく影。
水筒を、落としたのだ。
それを拾いに行って——。
「ソウくん!」
考える前に、体が、飛び出していた。
風が、来た。
壁のような、砂の塊だった。
視界が、一瞬で、茶色に塗りつぶされる。
耳が、轟音でいっぱいになる。
息ができない。
顔に、無数の粒が、礫のように、叩きつけてくる。
「凪さん!!」
渉の声が、遠くで、聞こえた。
私は、ソウくんの小さな体を、手探りで、掴んだ。
抱き寄せる。
毛布を、二人の頭からかぶせる。
背中を、嵐に向ける。
砂が、背中を叩く。
何度も、何度も、容赦なく。
関節の隙間に、細かい粒が、容赦なく、入り込んでくる。
新しい左腕が、ぎり、と軋んだ。
「大丈夫だよ」
腕の中で震えるソウくんに、私は、囁いた。
「大丈夫。すぐ、終わるから」
どれくらい、そうしていたのだろう。
体の奥で、何かが、ぷつん、と音を立てた。
熱い。
目の端が、急に、熱い。
そこから、何かが、あふれ出した。
嵐が、去った。
世界は、不自然なほど、静かだった。
砂丘の形が、さっきとは、まるで違う。
空は、洗われたように、高く、青い。
「凪さん! 凪さん!」
砂の中から、渉が、私を引きずり出した。
顔じゅう砂まみれで、目が、真っ赤だった。
「大丈夫、大丈夫だから。ソウくんは?」
「無事! 無事だよ! サイカさんが、見てる!」
「よかった……本当に、よかった」
私は、笑った。
いつもの、完璧な笑顔で。
「……凪さん」
渉が、私の顔を、じっと見ていた。
頬が、濡れていた。
涙が、止まらないのだ。
拭っても拭っても、あとからあとから、溢れてくる。
砂が、感情を司る部分に入り込んで、おかしくなったのだろう。
そう分かっているのに、止められなかった。
「ただの故障だよ。砂が、入っちゃったみたい」
笑いながら言った。
涙が、顎を伝って、胸に落ちる。
「すぐ、直るから。心配、しないで」
「凪さん」
渉が、私の両肩を、掴んだ。
「頼っていいんだよ」
息が、止まった。
聞き覚えのある言葉だった。
いや、聞き覚えどころではない。
それは、私が、水車小屋で、渉に言った言葉だ。
「俺は、笑わないから」
渉の声は、震えていた。
「きみが、教えてくれた。だから、きみも。……頼って、いいんだ」
涙が、止まらない。
頬を、熱いものが、次々に、伝っていく。
何かが、喉の奥まで、せり上がってきた。
怖い。
痛い。
苦しい。
寂しい。
……分からない。
何と言えばいいのか、分からない。
それでも、その言葉の、もっと手前の、小さな、小さな何かが、確かに、胸の中で、叫んでいた。
口が、開いた。
——開いた、はずだった。
「……ありがとう」
出てきたのは、いつもの笑顔と、いつもの声だった。
「大丈夫。本当に、大丈夫だから」
渉の手が、ゆっくりと、肩から離れた。
その顔に、何かが、静かに沈んでいくのが、見えた。
私は、また、笑った。
涙を、流しながら。
地図の印は、砂嵐が運んできた、ひとつの形の中にあった。
嵐が、砂丘を削り、地中に埋もれていた金属の塔の頭を、むき出しにしたのだ。
旧給水塔。
錆びた支柱が、空へ向かって、ぽつんと立っている。
「日が沈むまでに、戻っておいで」
サイカさんが、そう言って、私たちを送り出した。
塔の根元の、半ば砂に埋もれた扉を、渉と澪が、掘り起こした。
内側の薄暗い部屋に、金属の台座があって、その上に、カートリッジが、ひとつ。
湊 記憶(7)
私は、それを、じっと見つめた。
「……やめとく?」
渉が、静かに訊いた。
「ううん、やめないよ」
首を横に振る。
涙は、まだ、止まっていなかった。
「見るよ」
スイッチが、入る。
視界が、湊のものになる。
暗い、台所だった。
夜更け。
時計の針が、深く傾いている。
湊は、手に杖を握っていた。
足もとが、おぼつかない。
ずいぶん、年を取っている。
水の音が、聞こえた。
台所の奥に、少女の私が、立っていた。
背中を向けて、流しの縁を、両手で掴んでいる。
肩が、小さく、震えていた。
声は、なかった。
一滴も、漏れない。
ただ、流しの上に、ぽたり、ぽたりと、雫が落ちる音だけが、暗がりに、響いていた。
湊は、扉の影に、立ち尽くしていた。
——また、ここか。
心の中で、そう呟いた。
——いつも、台所だ。
私が、泣く場所。
湊のいない場所を、湊の見ない時間を、選んで。
そんなふうに、凪が、泣いていることを、湊は、ずっと前から、知っていた。
手が、上がった。
杖を、ついていないほうの手。
扉を、軽く叩こうとして、止まった。
——入っていけば。
——凪は、振り返る。
——笑って、「どうしました、湊さん」と、言う。
涙のあとを、きれいに消して。
何事もなかったかのように、完璧な笑顔で。
湊は、それを、見るのが、怖かった。
手が、ゆっくりと、下がった。
足音を殺して、一歩、後ずさる。
もう一歩。
暗い廊下へ、静かに、戻っていく。
背後で、水の音が、また、一滴、落ちた。
——すまない。
声にならない声が、胸の底で、軋んだ。
——言ってやれなくて、すまない。
再生が終わっても、塔の中は、しばらく、静まり返っていた。
私は、床に、座り込んでいた。
涙が、まだ、頬を伝っていた。
止まらない。
けれど、それは、故障のせいだけでは、ないような気がした。
「……知ってたんだ」
呟いた声は、掠れていた。
「湊さん。私が、台所で、泣いてたの。……知ってたんだ。ずっと」
誰も、答えなかった。
私は、思い出そうとした。
台所の流し。
冷たい水。
暗い夜。
何も、浮かばない。
けれど、胸の奥の、一番深いところで、何かが、静かに、頷いた。
——知っていた。
湊は、私が泣いていることを、知っていた。
私は、湊に見られていることを、知らなかった。
互いに、相手のために、黙っていた。
「凪さん」
渉が、隣に、膝をついた。
何か、言おうとして、やめた。
ただ、黙って、隣にいてくれた。
塔の隙間から、砂漠の夕陽が、差し込んでいた。
赤い光が、私の頬の涙を、静かに、照らしていた。




