第4話
「ま、少なくとも今は売る当てもないしインベントリも余裕だし後回しでいいか」
精霊様はそう言った。
そこに丁度亀がやってきた。大亀、と呼んでもいいかもしれないが、腰までの高さしかない。これが人を食べるには、相当噛み砕く必要があるだろう。
のっそりとした動きで少女に寄ってくる。尖った口は、噛まれたら骨まで齧り取られてしまいそうだ。
「お、チュートリアルだ。子亀を倒せ、ね。ふんふん。そう言えば大亀に食べられるところだったんだっけ? おらっ! おらっ! 私の経験値となれぇ!」
しかし精霊様は臆することなく亀に向かって行き、ポコポコ殴り始めた。
……亀は、億劫そうに甲羅に顔を引っ込めた。精霊様はまだポコポコ殴り続ける。
「ダメだコレ。ダメージ入ってないだろ。……あ、でも格闘の熟練度に経験値入ってるっぽいな、続けよう」
そうして、そこから3時間ほど、精霊様は亀を殴り続けた。
トリアは光輪として浮かびながら、その光景を眺めていた。精霊様の拳が甲羅に当たる音がポコポコと規則正しく響く。
亀は最初こそ顔を引っ込めていたが、やがて諦めたように甲羅から首を出し、じっと耐えている。
「やっぱり格闘の経験値は敵殴った方が上がるんだな。……あ、しまった。もう真夜中だし、明日仕事だからそろそろログアウトだなぁ……どうしよコレ。まだ倒せそうにないんだけど」
精霊様がそう呟くと、トリアは少し不安になった。精霊様がいなくなったら、また一人きりになってしまう。村人たちが戻ってきたらどうしよう。
「そうだ。ログアウト中のオートモードの方針を決められるんだったな。んじゃトリア、トレーニングしつつ、コイツをこのまま余裕で倒せるようになるまで甲羅殴りね。襲ってきたら逃げること」
そう言って精霊様の意識が薄れていく。精霊様と交代で、トリアは身体に意識が戻る。
……トレーニング。つまり、さっきの動作をしながら、今度は更にこの目の前の亀の甲羅を殴ればいいのだろう。
この身も心も、既に精霊様のもの。指示の通りにするだけだ。
しゃがみパンチ、立ちパンチ、ジャンプパンチ。しゃがみパンチ、立ちパンチ、ジャンプパンチ。
先ほどと同じく、疲労はほとんど感じられない。子亀も甲羅にこもったまま動かない。精霊様の言っていた通りこのまま続けていればいいのだろう。襲ってきたら逃げる。それだけだ。
夜が更けていく。月が雲の間から顔を出し、祠の跡地を照らしている。破壊された木片が散らばり、その中でトリアだけが黙々と動作を繰り返していた。
朝が来た。精霊様はまだ戻ってこない。トリアは相変わらず筋トレを続けている。眠気も空腹もない。
しゃがみパンチ、立ちパンチ、ジャンプパンチ。しゃがみパンチ、立ちパンチ、ジャンプパンチ。
今は精霊様に動かされていないので、自分の意志で、これを続けている。
何度も何度も繰り返す動作。トリアは流石に少し疲れてきた気がした――気がしただけだった。
そう。肉体的には疲れていない。なので精霊様のために身体を動かすだけだ。トリアは精霊様に全てを捧げたのだから、精霊様の言う通りに。
正午を過ぎた頃、ついに変化が現れた。
それまで「ポコポコ」と明らかに甲羅に負けていたパンチだったが、「ゴンゴン」と力強い音になったのだ。
変わった。身体の何かが。明らかに。トリアは精霊様のやりたい事が少し分った気がして嬉しくなった。
そして。
――バキンッ!!
と、硬いものが割れる音がした。……骨をやってしまったか、と、思ったが、違った。
見れば子亀の甲羅にヒビが入っていたのである。
「あ!」
トリアは驚いた。今まで全くダメージが入らなかった子亀に、ついにダメージが通じたのだ。
これに驚いたのはトリアだけではなかった。甲羅にひびを入れられた子亀もだ。
驚いて逃げようとする子亀。甲羅から手足と頭を出し、のそりと動き出した。――逃げようとする? この場合はどうしたらいいのだろう。精霊様は、襲い掛かってきたら逃げろと言っていた。だが、逃げようとした場合の事は言われていない。
……つまり? そう。続けて殴るだけだ。トリアは遅い足で逃げる子亀の甲羅を更に殴る。甲羅だけを殴る。甲羅を殴れと言われているので。
いつまで? 言われている。子亀を余裕で倒せるようになるまでだ。
バキ、ベキ、と子亀の甲羅のヒビが大きくなる。
これは、このままいけるのではないか? 子亀はまだ逃げようとしている。動かれると殴りにくい。だが続ける。殴る。殴る。
しゃがみパンチ、立ちパンチ、ジャンプパンチ。しゃがみパンチ、立ちパンチ、ジャンプパンチ。
3ヶ所を殴り続け、3ヶ所のヒビが入り、広がって。
ミシ、ゴキン!!!
ついに、甲羅が壊れた。子亀は判断を誤った。こうなる前に反撃するか、もっと早く逃げるかするべきだったのだ。
下手にこのあたりで敵が居なかったばかりに、危機管理意識が鈍っていた。子亀に喧嘩を売る――つまり大亀に戦争を仕掛けるような相手が今までいなかったのが、この子亀の不幸であった。比較的柔らかい手足や頭を殴られなかったのも、子亀の判断を誤らせた。
甲羅を割られた子亀。自分が甲羅を割られたらどうなるか、知らなかった。亀の甲羅の中には柔らかな内臓がある。
甲羅が割られたということはこの内臓が剥き出しに、そう、文字通りに剥き出しにされるということであり、そこに一撃でも食らうことは、死に限りなく近い。
「あっ」
そして、トリアの拳は、ついに甲羅を突き抜け内臓を破壊した。
子亀は訳が分からないまま、混乱したまま、声も上げられないまま、意識を失う。あとは死ぬだけだった。
手足から力が抜け、腹が地面につき、動かなくなる。頭も甲羅から出たまま、ぐてりと垂れ落ちていた。
「……勝、ちゃっ、た?」
動かなくなった子亀を前に、ぽかんと開いた口が塞がらないトリア。勝利したのだ、子亀に。
本来であれば、自分を食べていたであろう存在に。
手を見る。触る。以前とあまり代わらない手に見える。が、そういえばトリアの手足は潰され、この手足は新たに精霊様に授けられたもの。ただの手であるはずがない。可愛らしい手なのに、亀の甲羅を破壊できる手になったのだ。
「あっ! 亀、倒しちゃった。……どうしよ」
亀を殴って、と言いつけられているのだ。しかし亀は死んでしまった。……新しい亀を探しに行くべきか?
少し考えて、勝手に動き回るのは不味いかもしれない、と考えたトリア。
しゃがみ、立ち、ジャンプ。しゃがみ、立ち、ジャンプ。
トリアは、精霊様が戻ってくるまで黙々と鍛錬を続けることにした。
「精霊様、早く戻ってきてね。トリア、一人で頑張ってるよ」
しゃがみ、立ち、ジャンプ。しゃがみ、立ち、ジャンプ。
トリアは、まるで精霊を呼ぶ儀式をするかのようにそれを繰り返し、精霊様の帰りを待った。




