第10話
大亀は怒っていた。
何者かが縄張りを犯している。
そしてあろうことか、『大事な我が子』を殺害している。
怒らずにいられるか。『大事な我が子』を殺され怒らずにいられる親がいるものか。
『大事な我が子』でない一匹やそこらならまだ見逃してやってもよかった。
そろそろ把握しきれないほどの子供が、縄張りから溢れそうだったからだ。ふと殺される程度の弱者は、我が子でも不要だった。丁度良い間引きだった。
だが『大事な我が子』が殺された。これはもう違う。気が付けば、後継者候補と見込んでいた『大事な我が子』まで手を出されていた。
身近に置いていた『大事な我が子』が、空いた場所へ遊びに行って、侵入者、異物に殺されたのだ。
そして、死体を食われた。甲羅すら残らず。
ああ、我が子が何をしたというのか。
これはもう報復しかない。大事でない我が子の分も、まとめて報復する。
異物を気配で追っていた大亀はそう決めた。
そうだ。あの異物を置いていった毛のないサル共にも報復せねばなるまい。
もともと、毛のないサル共が、子を一匹置いていったのだ。
少量だが魔力のあるサルだった。少し熟成させて、あとで食べようと思っていた。
だがそいつは我々を殺すための凶器だった。
つまり、あの毛のないサル共は大亀に、我に、喧嘩を売ったのだ。戦争を仕掛けてきたのだ。
皆殺しにせねばなるまい。ああ、そうとも。報復だ。皆殺しだ。殲滅だ。絶滅だ。
だがまずは異物の処理だ。
大亀は残っていた大事な子供らに声をかけ、近くに留め、そいつが攻めてくるのを巣で待ち構えていた。
だが、あろうことか異物は。そいつは逃げた。
こちらが待ちに入った途端、縄張りから逃げようとしたのだ。
ここで逃しては、どこのどいつが異物だったか、仇だったか分からなくなる。毛のないサルの見分けなど、大亀にはつかない。
ああいや。
もっとも、ちゃんと全部殺してしまえばいいだけなのだが。
別に見つけ次第殺してしまえばいいのだが、それでは『我が子を殺した仇』にちゃんと報復できたか分からない。
奴らは数が多い。漏れが出て、漏れがそいつであったら意味がない。
ならばここで、追いかけてでも、殺すしかない。
大亀の判断は早かった。
足の遅い我が子らを置き去りに、異物を、侵入者を、仇を殺しに向かった。
親として、見本を見せねばなるまい。戦いの。戦争の。殺し方の。敵の潰し方を。
すぐに見つけた。いた。殺す。
まずは雨だ。環境を、有利なものにする。
このところは晴れていた。大亀が動くには、あまりにも乾燥していて関節から粉を噴くほどだ。
だから雨だ。戦いの準備を整える。
認めよう。お前は敵だ。
だから。
本気で潰す。
さぁ、やるぞ。やってやる。やろうか。
おまえのつみを、つぐなえ。そのいのちで。
* * *
大亀に追われ、トリアは足を速めた。
精霊様が逃げろと言ったので、逃げるのだ。
猪の何倍もある大きな体が、木を薙ぎ倒しながら迫ってくる。
今ならあの目玉くらいは殴り潰せそうな気がしたが、それは間違いだ。なぜなら、精霊様が逃げろと言ったから。
幸い大亀の足は速くない。いや、子亀に比べたら格段に速いのだが、それでもトリアが全力で走れば追いつけないくらいの速さであった。
『安全地帯まで逃げ切れればこっちのモンよ。頑張ってトリア!』
「はい、精霊様」
そしてトリアは疲労しない。精霊様に捧げたこの身は、この足は、疲れを知らず走り続けられる。
だがしかし。大亀がこちらを見たすぐあと、状況に変化が訪れた。
ぽつり。
水気が頬に触れた。
ぽつ、ぽつ、ぱたぱたぱた、さらさら、ざぁざぁ。
雨だ。このところ一切降ることのなかった雨。それが降り始めた。
それだけなら、ただの雨だった。だが、ここは山の獣道。
足場が良くない。濡れる木の根と草は、天然のトラップだ。危うく滑って転びそうになった。
土は泥に変わり、ねっとりと足をその場に引き留めようとし、土の下に隠れていた鋭い石を踏んでしまえば刺さりはしなくとも痛みを与えてくる。トリアは裸足なのだ。精霊様に授けられた手足とはいえど限度がある。
つまり、走りにくくなった。とても。
これまでは乾いた土の上だからあまり問題はなかった。当然速度が落ちる。
一方で、大亀はそんなものをお構いなしに突っ込んでくる。
追いつかれる。その未来予測は、すぐに現実になるだろう。このままでは。
だが、トリアに戦闘する気はない。精霊様が『逃げろ』と言ったから逃げる。逃げるだけだ。
『トリア、村はどっち? あとどれくらい?』
「もうすぐです」
『よし、それなら――』
精霊様の質問に答える。
だが次の瞬間、トリアの身体がブンと横に突き飛ばされた。
一瞬、視界が赤く染まる。
何が起きた。転がりながら確認すると、大亀が首を伸ばしていた。
振り回していた頭に、当たってしまったらしい。
『トリア! 大丈夫か!?』
「……はい。このまま、逃げます」
『……できればそうしたいが……あちらさん、そう許してくれる気はないみたいだ』
精霊様の声が落ち込んでいるのが分かった。
『何か打開策は……ローリング!』
「はい」
精霊様の声に従って転がると、大亀の足がずしんとそこに下ろされていた。危うく踏み潰されるところだった。
『なんとかならないのか』
「……?」
どうやら精霊様は、何をしたら良いか迷っているようだった。
であれば。
「精霊様。大亀の目、潰していいですか」
『! できるのか?』
「はい。たぶん。トリアはできます、精霊様」
トリアは提案した。そうだ。精霊様は、トリアの意見を聞かない御方ではない。
そして、精霊様にも分からないことがある、と、トリアは気付いた。
精霊様はいろんなことを知っている。けれど、そう、自分も光輪になっていたから分かる。あの状態は、全てを即座に知れる訳ではない。
ましてや、トリアの戦闘技能については把握していなかったのだ。ならば、逃げるしかないと判断しても仕方がない。
戦闘中のような、あるいは今のような逃走中といった、即座に状況が変わるような場面では、トリアの意見も重要な判断材料になるのだ。
その報告を、意見具申を怠っていたことにトリアは気付いたのだ。
『よし、じゃあ大亀の目玉を潰して逃げよう! 流石に目玉を潰せば足も遅くなるだろ! 可能なら仕留めてしまいたいが、無理そうなら即逃げ!』
「それでいきましょう、精霊様。トリア、がんばります、ね?」
大亀との戦闘が始まった。
殺せるなら殺していいらしい。ぺろり、とトリアは唇を舐める。口角が上がっていた。




