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北の地での王都側の屈辱から、数日が経過した。
王都サンクチュアリの王宮は、もはや「宮殿」と呼べる状態ではなかった。
「……臭い。なぜ、これほどまでに臭いのだ!」
第一王子ジュリアンは、謁見の間の玉座に座り、吐き気をこらえながら叫んだ。
彼の目に入るものすべてが腐っている。
壁の金細工は黒ずんで剥がれ落ち、そこから覗く石材には、まるで内臓のような赤黒いカビが脈打つように増殖していた。
かつて大陸でも、有数の美しい城と称えられた白亜の城は、今や巨大な「腐敗の城」と化している。
「で、殿下……。マリアベル様が連れ帰った『調査団』の生き残りが、報告に参っております」
這いつくばるようにして現れた側近の姿に、ジュリアンは絶句した。
騎士の制服は泥と錆でボロボロになり、その肌には原因不明の湿疹が広がっている。まるで、何年も下水道で暮らしていたような無惨な姿だ。
「……マリアベルはどうした。エルナは連れてきたのか?」
「そ、それが……。マリアベル様は、辺境伯領の家畜小屋の清掃を命じられ、今もあちらに拘束されております……。エルナ様は……」
騎士はガタガタと震えながら言葉を継いだ。
「エルナ様は……もはや、私たちが知る『掃除女』ではありませんでした。あのお方は、北の地を『天上の世界』に変えてしまわれたのです。……あそこには、汚れも、痛みも、老いすらも存在しないのではないかと思えるほどに……」
「ば、馬鹿な……っ!? あり得ない! そんなことがあってたまるか!! あってはならない!!」
ジュリアンは手近なグラスを壁へ投げつけた。
ガシャン、と砕け散ったグラスから溢れたのは、最高級のワインのはずだった。しかし、床に広がった液体は一瞬にしてドロドロの泥水へと変わり、不気味な悪臭を放ち始める。
そう、この国は今、エルナという「浄化の柱」を失った反動と共に、呪いの侵食に飲み込まれようとしていた。
彼女が十年間、無意識のうちに抑え込み、拭い去ってきた「王国の劣化」が、堰を切ったように王都に押し寄せているのだ。
「ジュリアン、助けて……お腹が……」
玉座の脇でうずくまっているのは、王妃――ジュリアンの母だ。エルナをストレス捌け口にしてきた王妃でもある。
彼女が口にする食べ物は、喉を通る瞬間に腐敗する。
高貴な血を引く者ほど、これまでエルナが提供してきた「清潔」という名の恩恵を最大限に受けてきた。その恩恵が失われた今、彼らの体は急激な劣化に耐えられなくなっていた。
「……認めん。私は認めんぞ! あんなゴミのような掃除女がいなければ、この国が滅びるなどと!!」
ジュリアンの瞳に、絶望の果ての狂気が宿る。
彼は立ち上がり、王家にのみ伝わる禁断の保管庫――『深淵の祭壇』へと向かった。
そこには、初代国王が「万策尽きた時のみ使え」と言い残した、禁忌の古代遺物がある。
「【極光の心臓】……これを使えば、国中の汚れなど一瞬で焼き払える。エルナなどという替えのきく道具に頼らずとも、私がこの国を再建してみせる!」
それは、周囲の魔力を強制的に吸い上げ、爆発的な光へと変換するドワーフの魔導兵器だった。
しかし、今の「淀みきった」王国でそれを使えばどうなるか。
無知な王子は、火薬庫の中で火を灯そうとしていることに、まだ気づいていなかった。
────
その頃、北のノルトエンデ城では、王都の地獄が嘘のような、甘やかで清浄な時間が流れていた。
「――はい、閣下。お口を開けてください」
「……エルナ。これは流石に、甘やかしすぎではないか?」
テラスの円卓。
エルナは、自分が「概念清掃(鮮度維持)」を施した採れたての果実を、アルフレートの口元へと運んでいた。
アルフレートは困惑したような顔をしながらも、逆らうことなくその果実を口にする。
「あら、閣下はいつもお忙しいんですから。これくらいのご褒美は必要でしょ?」
エルナが微笑むと、アルフレートの瞳が熱を帯びて細められた。
彼の肌は、今や病的な白さを脱し、健康的な色香を放っている。以前の「氷の死神」という二つ名は、今ではその「圧倒的な出で立ち」を形容する言葉へと変わっていた。
「……君のそばにいると、時が止まったかのような錯覚に陥る。……いや、止まっているのかもしれないな。君が磨くこの美しい場所だけは」
アルフレートはエルナの手首を優しく掴み、自分の頬に寄せた。
かつて呪いに焼き尽くされていた彼の精神は、エルナがもたらす「絶対的な清廉」によって、今やこれ以上ないほどに研ぎ澄まされている。
しかし、その研ぎ澄まされた感覚ゆえに、彼は敏感に察知していた。
南の空から漂ってくる、耐え難い「腐敗」の予兆を……。




