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 ノルトエンデ城の重厚な黒真珠の門が、音もなく開かれた。

 マリアベル率いる「王都調査団」の馬車が中庭へと滑り込む。だが、一歩足を踏み入れた瞬間、マリアベルは得体の知れない「不快感」に身を震わせた。


「な、なによ……この場所……。妙に落ち着かないわ……っ」


 彼女が感じているのは、極北の寒さではない。

 エルナによって徹底的に「概念清掃」され、神聖な浄化で呪いが極限まで抑えられたこの城の空間そのものが、マリアベルたちが身に纏う「淀み」を異物として弾き出そうとしているのだ。


 馬車から降り立ったマリアベルの姿は、王都では「最高に華やか」と称えられていたはずだった。

 しかし、この透き通るような空気の中では、彼女の厚化粧はひび割れた泥のように見え、香水の香りはえた臭いへと変質し、金糸の刺繍はどす黒く変色して見える。


「マリアベル様、見てください……あの騎士たちを」


 同行した近衛騎士が、怯えたような声を出す。

 整列して彼らを迎える辺境伯領の騎士たち。その鎧の輝き、肌のツヤ、そして何より一切の「揺らぎ」がない強靭な精神の気配。王都の騎士たちが、まるでドブネズミのように見えてしまうほどの、圧倒的な清潔感と威圧感を兼ね備えた姿だった。


「ふ、ふん! あんな連中見かけ倒しよ。それより、あの出来損ないの姉はどこ!? さっさと秘宝を差し出させて、王宮を掃除しに戻らせるわよ!」


 マリアベルが声を荒らげた、その時だった。


「――どなたを『出来損ない』と仰っているのかしら?」


 凛とした、鈴の音のように澄んだ声が響く。

 城の正面階段の上。

 そこには、マリアベルの記憶にある「地味で影の薄い掃除女」の面影など、もはや微塵もない、一人の女性が立っていた。


 最高級の氷蚕糸ひょうさんしで織られた、淡いブルーのドレス。

 その布地からは、星屑のような微光が絶えず溢れ出している。

 エルナの肌は内側から発光しているかのように瑞々しく、その瞳は王都にいた頃よりもずっと深く、知的な輝きを湛えていた。


「え!? ……お、お姉様……?」


 マリアベルは絶句した。

 目の前にいるのは、かつて自分が「下女」のように扱っていた姉では、もはやなかった。

 まるでこの世界の光そのものを味方につけたような、本物の「聖女」がそこにいた。


────


「お久しぶりね、マリアベル。まあ、そんなにボロボロになってしまって……一体どうしたの? 王都は今、流行り病でも蔓延しているのかしら?」


 エルナは階段をゆっくりと降り、マリアベルの前で足を止めた。

 エルナが近づくにつれ、マリアベルは息苦しさを感じる。エルナの周囲数メートルは、あまりにも「清潔」すぎて、日頃から慢心と嘘で心を汚しているマリアベルには、酸素が薄いようにすら感じられるのだ。


「ぼ、ボロボロ!? し、失礼ね! これこそが王都の最新流行、最高級の……っ、きゃあ!?」


 マリアベルが言い返そうとした瞬間、彼女のドレスの肩紐が、ぷつりと音を立てて千切れた。

 それだけではない。彼女が握っていた「王国の守護石」が、エルナの放つ清浄な魔力に触れた途端、ビキビキと音を立てて表面に無数のヒビが入り始めたのだ。


「な、なに!? 私の守護石が!?」

「あら。その石、よっぽど『汚れ』が溜まっていたのね。私のメンテナンスが切れてから、一度も中を磨かなかったでしょう? 器が汚れに耐えきれなくなって、自壊を始めているわよ」


 エルナは憐れむような目で妹を見つめた。

 魔道具は残酷だ。メンテナンス(磨く者)がいなければ、どんな至宝もただのゴミへと還る。


「おだまりなさい! どうせお姉様が、ノルトエンデの秘宝を使って私に嫌がらせをしているんでしょう!? ジュリアン様がお怒りよ! その秘宝を返しなさい、そして今すぐ王宮に戻って『這いつくばって』お掃除をしなさい! これは命令よ!」


 マリアベルは逆上し、エルナに向かって手を振り上げた。

 彼女の得意とする【極光の審判】の魔力が、手のひらに集束する。


「お姉様のその生意気な顔、私の光で焼き尽くして……!」


 カッ、と目も眩むような閃光が放たれた――はずだった。


 しかし。

 放たれたはずの光は、エルナに届く直前で、まるで水に投げ込まれたインクのように霧散し、消え去ってしまった。


「……え?」


「マリアベル、残念だけど、このここはもう『磨かれた後』なの。あなたのその……不純物だらけの弱い光は、ここではただの『光害(汚れ)』として処理されてしまうわ」


 エルナが指をパチンと鳴らす。

 すると、マリアベルの周囲に渦巻いていた残余魔力が、まるで見えない掃除機に吸い込まれるように消滅した。


「私の……私の最強の魔法が……掃除された……?」


 マリアベルが膝をつく。

 その背後に、長い影が落ちた。


────


「――私の城で、私の宝に手を上げようとした不届き者は、貴様か」


 地響きのような、冷徹な声。

 そこには、漆黒の軍服に身を包んだアルフレート・フォン・ノルトエンデが立っていた。

 その背後には、抜刀した騎士たちが、今にもマリアベルたちを切り捨てんばかりの殺気を放っている。


「ひ、ひぃ……っ!? 死神だ!」


 マリアベルを護衛していた王都の騎士たちは、腰を抜かしてその場にへたり込んだ。

 目の前の男――「氷の死神」と呼ばれた辺境伯は、以前聞いた噂よりも遥かに強大で、恐ろしい気迫だった。


 呪いから解放され、本来の力を取り戻したアルフレートの圧は、騎士を恐れさせるほどに膨れ上がっていた。


「か、閣下! ご、誤解ですわ! 私は王都の聖女で……この女は、ただの我が家の恥さらしで……っ!」


「……黙れ、下衆が!」


 アルフレートが軽く手をかざすと、マリアベルの周囲の地面が、瞬時に凍りついた。

 氷の刃が彼女の周囲を囲む。


「エルナが去った後の王宮が、どれほど無惨に腐り果てているかは聞いている。……我が領の商人が、お前たちの放つ腐敗臭に耐えかねて、次々と取引を打ち切っていることもな」


「そ、それは……っ」


「エルナは、お前たちが捨てた『ゴミ』ではない。この国を繋ぎ止める、唯一無二の光だ。それを理解できず、あまつさえ『掃除に戻れ』だと? 笑わせるな!」


 アルフレートの瞳に、暗い殺意が宿る。

 彼はエルナの肩を抱き寄せ、マリアベルたちを見下ろした。


「……連れて行け。この者たちは、私の城に招く価値すらない。――中庭の、魔獣の餌場の『清掃』でもやらせておけ。言葉通り、体で掃除の尊さを学ばせてやる」


「嫌! 嫌ぁぁぁ! 私は聖女よ! ジュリアン様、助けてぇぇ!!」


 マリアベルの絶叫が響く中、彼女たちは辺境伯領の騎士たちによって、文字通り「ゴミ」のように引きずられていった。


────


 静寂が戻った中庭。

 アルフレートは、まだ自分の腕の中にいるエルナを、より強く抱きしめた。


「閣下……もう大丈夫ですよ。少しびっくりしましたけど」


「……いや、大丈夫ではない」


 アルフレートの声が、微かに震えていた。

 彼はエルナの首筋に顔を埋め、深く、彼女の放つ「清潔な香り」を吸い込む。


「あのような不浄な奴らが、君に触れようとしただけで、私は正気を失いそうになる。……エルナ。君をこの城の奥深くに、誰の目にも触れぬ場所に、永遠に閉じ込めておきたくなる」


「閣下?」


「お前が掃除してくれたこの城を、私は汚したくない。……だが、お前を狙う不浄な連中がまだ王都にいる。ジュリアン……あの男を、完全に『清算』しなければならないようだ」


 アルフレートの独占欲は、もはや一つの領地に収まるレベルではなくなっていた。

 エルナを守るためなら、王国そのものを「掃除」し、建て替えることすら厭わない形相を覗かせていた。


────


 一方、王都では。

 マリアベルたちが戻らないことに焦りを感じたジュリアン王子が、自ら軍を動かそうとしていた。

 だが、彼の足元の床板は、すでに腐朽菌に冒され、底が抜けるのを待つばかりの状態だった。

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