秋川千鶴の場合19
トイレから出てから家の玄関の扉を開けるまでの間、私は日常を他人事のようにやり過ごした。決済用の判子も事務的に押した。取引先への連絡も機械のように丁寧に掛けた。とにかく何事もないように行ったのだ。あくまで表面的にはそうだったと思う。
実際の心はもう崩れていた。もし心が可視化できるなら女子トイレの個室の床に破片が散らばっていると思う。幸い、心は見えないのでそんなことはないけれど。
一体どこで間違えてしまったのだろう? 昨日まで万事順調だったのに気がつけばすっかりこの世の片隅に追いやられてしまった。私の主義主張も人間関係も。その全てが色褪せてしまった。女性の権利の確立。それが私を奮い立たせてくれたはずなのに。今はその価値観がすっかり色あせたガラクタのように思えた。昨日までの神様が今日から疫病神に成り下がった。そんな気分だ――。
仕事から帰るとすぐにシャワーを浴びた。身体中の不浄なものを洗い流す。不浄なもの。それは非常にどす黒く禍々しい。そんな何かだ。厄だとか穢れだとか、そういった類いのもの。現実的な物質としては水と化学合成されたシャンプー。そして東京都内の汚れた空気だけだとは思うけれど。
バスルームから出るとドライヤーで髪を乾かした。黒くてキューティクルも整っている。自慢ではないけれど私は自身の髪が好きだ。こうして乾かしていると改めてそれを痛感する。若い女の子たちだってここまで綺麗な髪はしていないと思う。
髪の乾く匂いは私の心を少しだけ軽くしてくれた。一日の終わり。そして長い夜の始まりを告げる匂いだ。
果たして今日は眠れるだろうか?
連日の黒夜夢から抜け出せるだろか?
あの逃げ回るような夢と現の間のような時間から解放されるだろうか?
――今日は疑問ばかりだ。ふとそんなことを思った。それは既に疑問を通り越して呪いに変わっている気がした。恨み辛みを募らせて相手を責める言葉に成り果てている。
広報部の勝ち誇った顔も。女子トイレでの陰口も。それ以外のすべても。
新宿の雨空が嫌いだ。エレベーターのワイヤーの音も嫌いだし、会議室の机の配置も嫌い。
嫌い嫌い嫌い。大嫌い。
どうしてみんな私を責めるんだ。私が一体何をしたっていうんだ。これほど心を砕いているというのに……。
それから私はリビングのテーブルの横で意識を失った。そして夢を見た。
冷たくて大きな海。そして巨大なシャチに追われる夢だ。




