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秋川千鶴の場合20

 夢の中で私はラッコだった。ラッコの生態に特に詳しくはないけれど完璧なラッコだと思う。身体中が厚い毛に覆われ後ろ足にはヒレがあった。海水は塩辛かった。水は思っていたよりは冷たくない。おそらくそれは厚い毛のお陰だ。極寒の海を生きるための装備なのだろう。

 そして……。明晰夢というのだろうか? ここが夢の中だと瞬時に理解できた。夢の海、夢のホタテ、夢のラッコ。前足に触れる、目で見える全てが夢だということが分かった。

 それと同時にその夢は酷くリアルだった。厚い毛越しに感じる海水の温度も。生臭い潮の匂いも。五感で感じることのできる世界は限りなく本物に近かった。――いや、違う。本物よりさらに本物らしかったのだ。私が普段人間社会で感じているような偽物臭さがない。その海にはただ命があり、自然の摂理に従って生きて、そして抗いがたく死んでいく。それがとてつもなくリアルに思えた。生と死が隣り合わせな場所。本来の生物としてみればそれは必然的なことなのだろう。

 私はしばらく天を仰いでいた。前足のひらには毛が生えていないので水に触らないようにした。

『生きるための知恵ってこうやって思いつくんだ』

 そんな小学生みたいな感想を持った。生きるために必死にその場しのぎをする。それだけでいいのかもしれない。

 それから私はラッコの夢を満喫した。ホタテを捕って石で割って食べた。岩場に登って毛繕いした。海外のドキュメンタリーで見たようなことは一通りしたと思う。

 こうしてずっとラッコで居たいな。海に浮かんで貝や魚を捕って生きていけたらどれほど幸せだろう? そんな人間のエゴのような考えが浮かんだ。まぁ、残念ながらここは夢の中で、目が覚めたら現実が待っている。水原さんも居るし及川さんだって居るのだ。嫌や場所に戻らなければいけない――。

「ならずっとここに居ればいいだろう」

 そんな声が聞こえた。そして大きなヒレが見えた。ヒレの真ん中には三日月型の傷がある。

 私は反射的にそれから逃げ出した。あれはラッコの天敵だ。シャチ。巨体の水生哺乳類。牙の生えた大型のイルカのような生き物。

「なんで逃げるんだ? ずっとここに居たいんだろう?」

 再び声がした。私は必死に泳いで逃げる。

「この海はいいぞ。人間の世界なんかよりずっと綺麗で残酷な場所だ。俺はここが好きだ。きっとお前も気に入ると思う」

 そんな声を聞きながら私は必死に泳ぎ続けた。神様、仏様。お願いです。私をアレのご飯にしないでください。そんな切なる願いを口にしながら逃げる。

「残念だ。お前はここからは逃げられない。だってそうだろう? あっちの世界だってお前は逃げられなかったんだから」

 その声がした瞬間に世界がブラックアウトした。そして鈍い痛みが胴体に走る。

 血の匂いがする。鉄分を含むあの匂いだ。

 死。それと隣り合った。いやもうすぐ死に落ちていくだろう。さよなら私の命。さよなら私の生――。


 目を開けるとリビングの天井が視界に入った。テレビでは芸人がトーク番組でくだらない話をしている。急に入った蛍光灯の光のせいで目が痛い。

 どうやらあの夢から帰ってこれたようだ。あの絶望的な悪夢から。


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