秋川千鶴の場合6
仕事の終わり。残業なし。飲み会もなし……。だからこの後の予定が私にはなかった。暇な夜の時間。再びやってくる暗闇の時間――。
今日は帰ったら何をしよう。早い時間だし洗濯機を回してついでに掃除機もかけようかな? そんな主婦みたいな考えが頭の上をくるくる回った。
「お疲れ様でしたー」
私はフロア全体に声を掛けた。山彦のように「お疲れ様です」と返ってくる。
お疲れ様、私だけの箱庭。また明日。
外に出ると都心特有の空気が肌に刺さった。新宿の街に夜が降り始めている。駅に向かう途中、水商売風の女性たち数人とすれ違った。彼女たちは皆きつい匂いの香水をプンプン漂わせながら足早に歌舞伎町方面に消えていく。彼女たちの戦場はあっちなのだろう。まぁ、私には関わりの無い世界だ。
新宿駅は例によって酷い混みようだった。さすが世界最大の昇降客数の駅というのは伊達でないと思う。
人々が一つの生き物のようにこちらに向かって流れてくる。そして改札を抜けると再び個に戻る。訓練された鰯の群れみたいだ。鰯が訓練できるかは知らないけれど――。
山手線のホームのベンチに座った。そしてさっきスタバで買ったドリップコーヒーを飲みながら行き交う人たちと電車を眺めた。耳に痛いくらいのアナウンスがホーム全体に響いている。
それにしても今日は不思議なリズムの日だった。広報部で揉めた一件のあとは酷く平和だった。あとは帰って寝るだけ。寝る前に好きな占い師の配信に行こうかな……。そんな行き当たりばったりな思考をしているうちに電車を三台も見送ってしまった。緑のラインの電車。私にとってのライフライン、山手線だ。
思えば学生の頃から山手線ばかり乗っている気がする。高校も新宿だったし、大学だって山手線で通った。だから私にとってこの路線は生命線なのだ。生きるために乗る電車。前に進むための電車。まぁ、山手線自体はどんなに前に進んでも元の場所に戻ってきてしまうのだけれど……。
四台目の車両がホームに入ってきた。これに乗れば帰れる。でも私は乗らなかった。
次にしよう。まだコーヒーは残っているし、もう一台くらいは出発する車両を見ていたい。そんな合理性の欠片も無い感情が私をベンチに座らせたままにした。




