水原雪乃の場合10
彼の貯水池につく頃にはすっかり日が落ちていた。夜がすぐそこまで迫っている。
「ラッコさーん」
私はいつものように水面に声を掛けた。水に溶ける声。そしてそれに答えるようにチャプンと反響する水音。
「おぉう。雪乃おかえり」
「うん。ただいま!」
ああ、ラッコさんだ。私の大切なお友達。最初に出来た親友……。
「でねー。今日は一日マネキン運んだり、下着着せたりしてたんだ」
「いやいや、そりゃあ大変だったね。お疲れ様。雪乃は本当に頑張り屋さんだなぁ」
「えへへ、ありがとー。あ! そうだ。今日はホタテだよ!」
「お! いつも悪いね」
ラッコさんはそう言うとホタテの入ったビニール袋を受け取った。髭が上下に動く。これはラッコさんが嬉しいときの合図みたいなものだ。
「雪乃ぉ。気持ちは嬉しいけどあんまりお金無駄遣いすんなよぉ。僕だってちゃんと稼ぎあんだから」
「ううん。いいんだよ。ほら、私ってお金の使い道あんまりないしさ。ラッコさんに美味しもの食べて貰うのが一番だよ」
二番は押しへの課金。と心の中で付け加える。
茜色の水たまりの畔に貝を割る音がこだまする。カンカンカンカンと小気味良い音だ。この音がラッコという生き物のアイデンティティーそのものだと思う。
「ラッコさんて貝割るの上手いよね」
私は感心して当たり前のことを口にした。ラッコさんは「まぁね」とだけ返す。
「僕には貝を割るのと文章を書く意外には才能は無いからねぇ。あとは……。そうだね。泳ぎは人並み以上には出来るかな?」
私は人並み以上という言葉に思わず吹き出した。そもそも人ではない。私とラッコさんの共通点は日本語を話すこととと哺乳類であることぐらいではないだろうか。
「笑うことないだろ? 僕だって必死に生きてるんだ。そりゃあ、雪乃みたいに会社勤めはできないけど税金だってちゃんと払ってるよ」
ラッコさんが納税? それを聞いて思わず笑ってしまった。彼が短い後ろ足で税務署に書類を持って行っているところは……。なんというか、とてもシュールだ。
「すごいねラッコさん。税務署の人もビックリするでしょ?」
「いやいや、イータックスだから直接は行かないよ……。それに税理士に丸投げしてる感じだからさ」
ラッコ、イータックス、税理士。すごい字面だ。それこそ星座のネームングセンスばりになんの脈絡もない。
「便利な時代になったね……」
私は笑いをこらえながらどうにか相づちを打つ。
「本当だよ。こっちに来たばかりの頃は大変だった……」
ラッコさんはそう言うと二つ目のホタテに手を伸ばした。
「いや、本当に国籍とか住民票がないのって大変なんだよ。特に僕は人間でもないからね。だから何年か前に多摩川に来てた……。ほら、アザラシのタマちゃんだっけ? アレみたいに住民票が欲しかったんだよね……」
それからラッコさんはアザラシのタマちゃんがいかに好待遇だったかを力説してくれた。ニシタマオ。そんなふざけた住民票のすごさについて。
「そっかぁ。アザラシの世界もラッコの世界も大変なんだね」
「そうだよ! 本当に大変! 前に話したけどシャチに追われたときもさぁ……」
ああ、今日も夜が更けていく。ラッコと冴えない女性会社員の夜が。




