水原雪乃の場合11 終
日が完全に沈むとお互いにシルエットぐらいしか確認できなくなった。声と影。それが小さな水面に揺れている。
「あーあ、明日も会社か……。嫌だなぁ」
そんな愚痴がふとした拍子に零れる。
「だよなぁ。分かるよ。その気持ち」
「うん」
ラッコに共感して貰えた。不思議と人間に共感されるよりほっこりする。
「もし行きたくないならたまにはサボってもいいんじゃないか?」
「まぁねぇ。でもそうもいかないんだよ。休んだら後で何言われるか……」
「そっか」
ああ、嫌だ。ラッコさんになんて話しているのだろう。これじゃあ、お酒を飲みながら上司の悪口を言うあの人達と一緒じゃないか。
「なぁ雪乃。僕の考えだと楽しくないことは続かないと思うんだ」
私が押し黙っているとラッコさんが優しい口調で語り始めた。
「うん」
「そりゃあ人間はお金がないと大変だとは思うよ。その他にも君たちの世界には世間体とかってやつもあるみたいだしね……。でもね。それよりなにより、楽しくて元気なのが一番なんじゃないかな。もし雪乃にとって仕事が嫌だったら辞めればいいと思うよ」
ラッコさんは私の顔を覗き込んでいるのだろう。彼のつぶらな二つの瞳が暗闇に光る。
「うーん……。そうなんだよね。正直、今の仕事はあんまり楽しくはないかな」
楽しくない。面白くない。――でも決して辛くはなかった。
昔のままなのだ。育ての両親と姉、あとは学校のクラスメイトや先生。彼らと同じ空間に居る感覚と大差ないと思う。その空間で私は完全に異物だったと思う。彼らが正常、私は異常。そんな感覚にいつも囚われていた。
客観的に見て最悪な環境だったはずだ。だからたまに今まで生きてこれた自分を褒めたくなる。
『社会不適合なのに頑張ったね。偉いね。明日もきっと何とかなるよ』と。そんな風に。
変な話、私は変わり者の中ではまともな方なのだと思う。割と早く木登りが出来るナマケモノ。そんな感じ。
人間社会に放り込まれた優秀なナマケモノにでもなった気持ちだ。(ラッコさんにこれを言ったら「ナマケモノだって必死なんだ」って怒られそうだけれど)
でも……。本当にそんな気持ちなのだ。きっと私は産み落とされた瞬間からみんなの異物だったのだと思う。生みの母も、育ての親も、それから関わった全ての人間たちも。
「ねえラッコさん……」
「なんだい?」
「私……。もう疲れちゃったよ」
ふと目から涙が零れた。久しぶりの涙だ。中学一年生のときに流して以来。
「雪乃。明日の仕事は休みな。なぁに、休んだってこの世が終わるわけじゃあないんだからさ」
「うん」
ああ、ダメだ。気持ちのダムが崩れてしまった。これじゃあどうしようもない――。
きっと私は知らないうちに限界に達していたのだと思う。中学時代に同級生からいじめられていたときみたいに、ただただ耐え忍んでいたのだ。
あのときもそうだった。ラッコさんがこうして逃げるために背中を押してくれた。
『逃げて怒られるのは人間だけだよ。本当に人間は変わった生き物だよね。僕だってシャチに会ったら絶対に逃げるのに』
彼は行き場のない中学生の私にそんな言葉を掛けてくれた。
逃げたっていい。何も恥じることなど無い。逃げるのを責めるのは逃げられたら困る奴だけなのだから。と。彼は再び教えてくれた。
ああ、ラッコさんだ。私の大切なお友達。毛むくじゃらでちょっと哲学的な水生哺乳類。
水原雪乃の場合 終




