一
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蓮水鏡
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――私の心は揺れる
まるでお前の上の睡蓮が風に震える度
お前にも波紋が広がるように
私が大切に見守って来たものは
どのように身を守るというのだ
その身に1本の棘すらも持たぬのに…
私の涙でお前に波紋が出来る前に
お前は私に助けを与え得る瞬間を見せなくてはならぬ――
場所は移って、西境国宮殿、離宮『花鳥斎』。
中には、真っ青になったり真っ赤になったり、顔色が二転三転する男が1人。花と木々が植木屋によって美しく整えられた庭と鳥の囀りが聞こえる森に面する戸を開け放って日当たりの良くなった部屋。そこをとりまく外周りの廊下へ、男は腰掛けている。
そう。
虎退治後、游に夢を連れて帰れと言われた坦である。
彼は白虎に大根を使ってここ西境王宮まで誘導し、ふさわしい場所が造られるまで、一旦、使われていない厩に馬用の道具でつないでおいた。
そして、現在――
正直、坦は困っていた。
まさか何の覚悟もナシに、このようなチャンスが訪れるとは思ってもみなかった。もっと落ち着いてからのことだと思っていた。
(ちょ…マジでカンベンしてくれェ。俺、こんな状態で手ぇ出す程、女に飢えてへんでェ…
…ンでもなァ、こんなチャンス、もうナイかもしれんからなー……
親父ィ、俺、どないしたええねん……)
涙まじりに虚空を見つめ、ため息をつく、今は着替えて青のデール(モンゴル衣装)に同じ青の鉢巻き使用の巾(額に巻く飾り。帽子、冠の代わり)を着けた、一見、憂える女性のこの男。
幼名、『旦』(『朝日』の意味)、公式名『坦』、本名『ツェツェグボロル』(『ツェツェグ』は『花』、『ボロル』は『水晶』の意味)、南境国第18王子である。肌の美しさに加え、瞳が大きく美しかったため、父親は『花水晶』を意味する『ツェツェグボロル』の名前を与えた。しかし本人はこの名前を女のようだと思い嫌っており、あまり『ツェツェグ』の部分を身近な者には呼ばせなかった。
南境国は四境(西境国、北境国、東境国、南境国、の4つの国のこと)中最大の面積と人口をほこる巨大王国である。国土は自然が豊富で、獣や魚、果物などが育成の労を費やさずとも溢れる程存在していた。気候も比較的暖かい時期が多く、それゆえに狩猟・採取中心の生活をしている。家畜小屋や田畑もあるが、それは戦争のための備蓄や、一時期の寒波に備えてのものだった。
坦の父親は南境国8代目国王。この王には現在15名の妻がおり、坦の母親は5番目に妻になった。彼の故郷、南境国でも他の国と同じく国王は一夫多妻制であるが、他の国と違い、国王の妻は正妃を覗いて階級は皆同じであり、定員数もない。ただ、妻たちの間では、何番目に妻の座についたか、加えて、王がどの妻の子どもを嫡子(跡取り)と決めたかについて差別意識があった。通常、正妃の子どもが嫡子となるのだが、この国では王の意見が1番であるため、たとえ正妃の子であっても、王が相応しくないと決めた場合はその権利をはく奪された。
坦の父親、8代目南境王は国家に文武両道の制度をしいた男で、文・武、どちらか一方のみ優れることを醜態とみなした。それゆえ、学校制度が他国より充実しているのだが、その反面、文・武、どちらかが劣っている場合、人間的に下に見られるという厳しい差別も生まれていた。
そのような父親の下で王子として生まれたのだから、坦の兄弟は小さい頃から恥ずかしくないよう、学問、武道、馬術、芸術、などに関してそれぞれ家庭教師を付け、オールA、主席で学校を卒業していた。
ところが…坦は。他の国からすれば文武共に優秀ともいえる能力を持ち、容姿端麗、才色兼備で何とも素晴らしい王子だと思われているのだが、自国南境国では周囲の優秀さから平均的、もしくはそれ以下の能力しか持ち得ていないと評価されていた。ただし、音楽の才能はズバ抜けて高く、小さい頃から大人に感涙させる程の腕前だった。しかし、国内、文武において最優秀の成績を修めて来た兄たちからはいわずもがな、はるかに年下の弟たちからも酷い差別を受け、父親からも愛情よりも憐れんだ扱いを受けていた。そのような王子だったため、国内からも国家の恥として扱われ、肩身の狭い思いをしていた。
坦の母親が死んだのはまだ坦が物心をつく前で、彼女は毒殺されている。それは、南境王が妻たちの中で1番美しかった彼女を正妃にしようとしたため、正妃が裏で画策した、と言われている。坦は母親が死んだ後は乳母に育てられ、その乳母も出来の悪い坦に愛情を示すことは出来ず、最低限の養育しかしなかった。それゆえ、坦にとって父親のみが唯一、憐れんでいるとはいえ愛情をもらえた家族である。
坦の父、8代目南境王はこの広大な国家をより発展させ、より満ち足りた世界にしたいと考えたため、他国の技術を奪うためや国境を広げるためによく戦争を起こした。戦争には国内・外を問わず駆け引きが必要であったため、よく人質交換やそれに類似した派遣を行った。その交渉術に際し白羽の矢が立ったのが、孤独の王子、坦だった。他の王子たちでは、妻たちが承知しなかった。南境王は戦で留守の間、大臣たちの監視も指図も妻にその権限の一部を譲渡していたため、妻たちに反対されて不機嫌になられては、留守の間の国家安泰、家庭安泰の不安が残った。そこで、誰も反対しない坦を人質として専ら和平相手の他国や言うことを聞かない権力者のいる自国の地域へ送り込んだ。
その際、父王は坦に、人質としての振る舞い以外にスパイとしての情報収集もできるように、他の自分の子どもには教えない技術を坦に教え込んだ。月を食んで生まれた子どもだったから、ということもあり、肉、欲、色…子どもらしからぬ知識と味を覚えさせた。1番、坦に念入りに教え込んだのは女性の心と体をつかむ術だった。口説き文句から始まり、果ては房中術(寝所で相手を虜にする技術)まで、まだ小さい彼に教え込み、坦はこの特技と容姿を使ってこれまで死線を生き抜き、父王に仕えてきた。そして、自身でもこのことに関して超える者はいまい、と自負していた。
ところが…
游が夢を龍胎湖で拾った、その週の出来事である。
8代目南境王は游の叔母に当たる人物を探し出し、自身の15番目の妻とした。その代わりの人質として、坦を、坦と変わらない年齢の游に差し出したのである。
西境国に着くまでに、8代目南境王は、坦へ、人質として過ごす間、スパイとしての情報収集を行う任務の他、重要な任務をもう1つ付け加えた。
それは。
王女、つまり夢との結婚である。
8代目南境王は、この坦という神童を自分の作った制度で凡人化してしまうことを憂えていた。音楽の才能が優れているのに、家でも外でも他の兄弟と比べられ、差別され、国民からは国家の恥とののしられ、自国では、この、計り知れない才能溢れる息子は惨めな一生を送ってしまうことが目に見えていた。そこで、せめて、才能を認めてくれる国民も家族も作れる他の国で王となり、才能をつぶさず、且つ何不自由ない生活をさせてやりたいと願っていた。そこで坦には、西境国の王女をモノにし結婚した上で次の西境王となり、西境国を南境国に従属化するよう、国家機密に当たる任務を与えた。坦は父親が自身のためを思って与えた任務だと喜び、二つ返事で承知した。
そして運命の日。
8代目南境王が游の叔母を迎えに来た日。8代目南境王は、坦を游と夢の2人に紹介した。
坦は印象を強く残しておこうと思い、夢に会うや否や、将来自身の妻になってほしいと言った上で抱き寄せ、唇にキスをした。
その時である。
夢はカプリと坦の下唇を噛んだ。
軽くであったが、坦にしてみれば、強烈だった。
これまで女性から拒まれたことがなく、しかも、唇を噛まれるということも初めてだった。
8代目南境王は慌てて何とか取り繕い、その場をうやむやにすることができたが、このことは逆に、坦に強烈に印象付けられてしまった。
唇を噛まれてから初めて、相手の顔を見た。情報は全て、前日に父親から聞かされていたので、驚くような見た目ではない。しかし、折角整った器をしているのに無表情で、游の服の裾を握って放さない。先程のキスが怖かったのか、游の後ろへ隠れてしまった。
坦は、そこで、そうか、と思った。自身も父親しかいなかった。この娘も、父親代わりの游しかいないのだ。この初めての行為に怯えて、守ってもらおうとしているのだと。この娘には守ってもらえる相手がいるのだと。そして、これから自分はまた、父親と離れ、寂しく辛い人質生活が始まるのだと。そこまで悟って、坦は初めて、女性の前で口説き文句以外を口にした。「良かったね」と。
8代目南境王は、息子の言っている意味が分からなかった。坦のこれまでの人生全てを凝縮した気持ちがこの一言に込められていたが、その孤独な人生観は、あと一歩、父親の読み解けない場所にあった。
しかし、夢はそのことを察したようだった。ハッとした顔で游の後ろから出てくると、坦の片手を両手で握った。その頃には、坦は任務も忘れ、ただ、心のままに優しく笑っているだけだった。
夢はそれを見て、坦を見つめたまま首を横に2,3度ゆっくり振り、彼の両手を自身の両手で覆うように持った。そして、自分から坦を抱き締めた。
坦も、ゆっくり夢を抱き締めた。
2人だけしか分からない、寂しい気持ちを分かり合った瞬間だった。
その時点から坦は少し、夢のことを気にし始めた。優しい娘だとも、自分の寂しさや孤独を分かってくれる、珍しい娘だとも思った。この娘なら、自分の心の孔を塞いでくれるのでは、と思った。石鹸と太陽の香りが、抱き締めて近くなった夢の体から薫って来た。
しかし、坦はそれでもまだ人質やスパイとしての任務があるという信念やこれまでの経験が抜けきらず、揺らぐ本心を固い気持ちで覆い隠していた。それまで出会った女性たちと大して変わらない。結局、利用される側と利用する側の、ただの付き合いだ。そう、自身に思い込ませようとしていた。
ところが。
夢は先程あんなにこの行為を怯えたのに、坦の、噛んでしまった下唇にイキナリ優しくキスをした。それから涙を少し浮かべながらもニコッと微笑み、坦の左胸に、右の指で文字を書いた。『ゴメンナサイ。今日から私のお兄ちゃんね。好きになったよ』と。そのあと、游にも抱き着いて鼻の先にキスをした。
坦はその瞬間に隠していた心を根こそぎ奪われてしまった。この短時間で、あんなに怖がった行為なのに、自分へ同じように返し、あんなに拒絶した相手なのに、抱きしめ受け入れ、しかも、あんな笑顔で「好きになった」と言われ…自分の寂しさも孤独も大体理解してもらえて…時間がかかるだろう距離を一気に詰められ、その勢いで全てを持っていかれてしまった気分だった。それまでにない、強烈な一撃をくらってしまった。
それからは、毎日、会う度に好きになって、会う度にもどかしくて、会う度に任務と恋心との間で苦しんだ。
それを繰り返しての、今である。
部屋を片付けるからという理由で、夢を一旦華陽宮(王族のみ居住する宮)へ帰し、適当に時間が経ったら来てほしいと伝えた。「適当に」と言ったのは、自分では決められないほど切羽詰まっていたからである。
(あーもうっ…
…親父ぃ……
……俺、夢ーちゃんだけは国のためやとか、親父のためやとか、そんなん抜きで一緒におりたいんや……
…俺、このまま夢ーちゃんをモノにしたら、親父のためになってまう…かといって、ここで何もせんのは俺の気持ちとは反してまうんや!
親父ぃ……)
片手で眉間を押さえて悩む坦だったが、次の瞬間、もう決意しなければならなくなった。
――コンコンコン
宮の玄関の戸を叩く音が聞こえた。
「あっ……の、……えっと……ハーイッ……!」
(……マ、ジ、か――…!
ここまできてしもうたんかぁぁぁぁぁ!
腹くくれ俺ぇぇぇぇぇぇ!
ええと。
俺、ちゃんとエロ本隠したよな。こないだの女が置いてった下着も処分したし、アレとアレはあそこに置いてあるし。いざって時にはアレをあーとればあーなるし…)
――コンコンコン
「……あっ! ゴメンゴメン!」
坦は慌てて花鳥斎の入り口まで走って行った。
――カタン…
「いらっしゃ……は?」
「姫様だけじゃアブナイです! 僕、邪魔しませんから、玄関でいさせてくださいッ!」
「はァ?」
それまで着ていた、秦王朝で使用していた1枚布からできている着物から、中後期の唐王朝が使用していた、肩の出ている緩い粉橙色(薄い橙色)の着物に槐黄色(薄い黄色)のストール仕様の薄い布を巻いた姿に着替えて、夢が坦を見上げるように立っていた。いつもはそこで新しい服を褒めたり、似合うだとかカワイイだとかの言葉をかけるのだが…
そのカワイイイ、愛しい女性の前で頑張っているのは…坦が普段ナマイキな弟のようでカワイイと思いからかうように遊んでやっている紫瑛だった。




