第九章 魔法の時間
十二月に入り、街のあちこちにイルミネーションが灯り始めた頃、佐藤から「今度の休みに、少し遠出しませんか」という誘いが届いた。由奈との一件から数週間が経ち、母娘の間には、以前のような穏やかな空気が戻りつつあった。それでも明美は、佐藤との外出を決める前に、由奈に一言、声をかけることにしていた。
「今度の土曜日、佐藤さんと出かけようと思うんだけど、いいかな」
「うん、いいよ。楽しんできて」
由奈はそう言って、あっさりと送り出してくれた。その返事に、明美はほっと胸を撫で下ろす。以前のような、ぎこちない間が生まれることはなかった。
土曜日の夕方、二人は元町・中華街駅で待ち合わせた。「とっておきの場所があるんです」と言う佐藤に案内され、元町の商店街を抜けて、丘へと続く坂道を歩き出す。道すがら、佐藤はいつになく口数が多かった。
「今日は、田中さんに見せたい景色があるんです。この時期の、この時間帯が、一番綺麗なんですよ」
「そんなに期待させて、大丈夫ですか」
「期待していただいて構いません。自信はありますから」
そんな軽口を交わしながら、二人は高台へと向かう坂道を上っていく。振り返ると、少しずつ夕暮れの色に染まっていく街並みが広がっていた。
坂道を上りきった先が、「港の見える丘公園」だった。
展望台へ向かう前、佐藤は少しだけ改まった様子で明美に向き直った。
「由奈さんとのこと、少しは落ち着きましたか」
「はい、おかげさまで。まだ完全にとは言えないですけど、前よりはずっと自然に話せるようになりました」
「良かった。無理せず、由奈さんのペースを大事にしてくださいね」
彼のその気遣いに、明美は改めて安心感を覚えた。由奈のことを心配してくれる気持ちが、決して口先だけのものではないことが、これまでの短い付き合いの中でも、はっきりと伝わってきていた。
「ここからの景色、特にこの時間が一番好きなんです」
彼が言った通り、公園の展望台から広がる景色は息をのむほど美しかった。時刻は、日没から三十分ほどが過ぎた頃。空はまだ深い藍色と茜色のグラデーションを残し、その下に広がる横浜港の街明かりが、宝石のようにきらめき始めていた。いわゆる「マジックアワー」と呼ばれる、一日のうちで最もドラマチックな時間帯だった。
正面にはライトアップされた横浜ベイブリッジが白く輝き、その光が穏やかな海面に反射している。埠頭のオレンジ色のナトリウム灯が、港町ならではの温かい雰囲気を醸し出していた。眼下に広がる街並みには、無数の窓明かりが灯り、その一つ一つに、それぞれの生活があるのだと思うと、明美は不思議な感慨を覚えた。
「わあ……」
明美は、思わず感嘆の声を漏らした。
「毎日、こんなに綺麗な景色がすぐそばにあったのに、今まで気づかずに過ごしてきたなんて、もったいないことをしていたんですね」
「気づく余裕がなかっただけですよ。それは、田中さんが怠けていたわけじゃなくて、それだけ一生懸命、日々を過ごしてきたということだと思います」
佐藤の言葉に、明美は救われる思いがした。これまでの十年余り、余裕のない生活を送ってきたことを、どこか後ろめたく感じていた自分がいた。それを肯定してくれる言葉が、こんなにも心に染みるとは思わなかった。
「実は、ここは妻と――前の妻と、よく来ていた場所なんです」
佐藤が静かにそう切り出した。明美は少し驚いたが、黙って耳を傾けた。
「離婚してからは、しばらくここに来られませんでした。来ると、いろいろ思い出してしまって。でも、最近になって、また来られるようになったんです。それは多分、田中さんと出会ってからだと思います」
その告白は、明美の胸に複雑な感情を呼び起こした。この美しい場所が、彼にとっては過去の傷とも結びついていたのだと知り、明美は自分がその過去の隣に、そっと寄り添おうとしていることを自覚した。
「そんな大切な場所に、私を連れてきてくださって、ありがとうございます」
「田中さんになら、ここを見せたいと思ったんです。過去の思い出の場所を、新しい景色として、また見られるようになりたくて」
「前の奥様とは、どんな風にここに来られてたんですか」
明美が尋ねると、佐藤は懐かしむような、それでいて少し切ないような表情を見せた。
「結婚したばかりの頃、よくドライブがてらここまで来ていました。当時は、こんな景色を見ても、正直あまり感動していなかったように思います。忙しさにかまけて、目の前にある綺麗なものを、綺麗だと感じる余裕すらなかったんでしょうね」
「今は、違いますか」
「今は、こうして田中さんと一緒に見ていると、素直に綺麗だと思えます。多分、あの頃の自分に一番欠けていたのは、目の前のものをちゃんと見る、という単純なことだったんだと思います」
その言葉には、彼が離婚後の歳月をかけて、少しずつ自分自身と向き合ってきた軌跡が滲んでいた。明美は、彼のその真摯な変化の過程に、深く心を動かされた。人は、失って初めて気づくことがある。だが、その気づきを、次の一歩にきちんと繋げられる人は、決して多くない。目の前にいる佐藤は、まさにそれを実践してきた人なのだと、明美は確信した。
二人は手すりに寄りかかり、言葉もなくその光景に見入っていた。潮風が、頬を優しく撫でていく。だが、明美の心の中には、先ほどの佐藤の告白と、そして数週間前の由奈との会話の記憶とが、静かに絡み合っていた。この景色の美しさに素直に浸りきれない、小さな迷いが、まだ胸の奥に残っている。
由奈は「時間がかかってもいい」と言ってくれた。だが、その「時間」がどれくらい必要なのか、明美自身にもまだ分からない。この瞬間、佐藤との関係をさらに一歩進めることが、由奈の気持ちに新たな負担をかけることにならないだろうか。そんな躊躇いが、明美の胸を静かに締めつけていた。
同時に、明美の中には、もう一つの声もあった。由奈は、母が自分の気持ちに蓋をすることを望んでいない、とはっきり言ってくれた。あの言葉を信じるなら、ここで足踏みを続けることは、むしろ由奈の気持ちを裏切ることになるのかもしれない。二つの相反する思いが、明美の胸の中で静かにせめぎ合っていた。景色の美しさに素直に浸りきれないまま、明美はしばらくの間、自分の心の中の声に耳を澄ませていた。
展望台の手すりに並んで立ちながら、明美はふと、由奈が今頃何をしているだろうかと考えた。今夜は友人の家に泊まると言っていたから、心配することはない。それでも、母親としての習慣で、無意識にスマートフォンを確認してしまう。画面には何も通知が入っておらず、明美は小さく苦笑した。
「由奈さんのこと、気になりますか」
明美の仕草を見て、佐藤が優しく尋ねた。
「すみません、つい癖で」
「いいんですよ。それが田中さんらしさですから」
そのやり取りに、二人は顔を見合わせて笑った。周囲の空気が、少しずつ夜の色を深めていく。展望台に集まる人々の話し声も、心なしか静かになっていた。
やがて、空の茜色がすっかり消えた頃、ベイブリッジの主塔の灯りが、すっと青色に変わった。夜空の藍に溶け込むような、幻想的な青。
「綺麗ですね」
明美がそう呟いた時、佐藤がそっと明美の手に自分の手を重ねようとした。その瞬間、明美の体は一瞬、微かに強張った。由奈の顔が、頭の片隅をよぎる。この手を取ってしまえば、もう後戻りはできない。そんな予感が、明美の胸を過った。
佐藤はその微かな躊躇いを敏感に感じ取ったのか、重ねかけた手を止め、静かに尋ねた。
「無理にとは言いません。田中さんの気持ちが、まだ整理できていないなら」
その気遣いに満ちた言葉を聞いた瞬間、明美の中で何かが定まった。由奈は、時間をかけて向き合うと言ってくれた。それは、明美が幸せになることを諦めてほしいという意味ではない。娘の優しさに甘えて、自分の幸せを永遠に先延ばしにすることの方が、むしろ由奈の気持ちを裏切ることになるのではないか。明美はそう思い至った。
「いいえ」
明美は静かに、しかしはっきりと答えた。
「大丈夫です。由奈も、時間はかかってもいいけど、私が自分の気持ちに蓋をすることは望んでいないと、はっきり言ってくれました。だから、私は、自分の気持ちに正直でいようと思います」
その言葉とともに、明美は自分の手を、佐藤の手にそっと重ねた。驚いて彼の方を見ると、彼は黙って景色を見つめたままだったが、その横顔は真剣で、優しかった。彼の大きな手の温もりが、明美の心にじんわりと広がっていく。
もはや、言葉は必要なかった。この息をのむような美しい景色と、触れ合った手の温もり、そして静かに流れる時間が、二人の気持ちが同じ場所にあることを雄弁に物語っていた。感謝から始まった関係は、友情を経て、今、確かに愛と呼べるものへと姿を変えようとしていた。それは、四十代という年齢を重ね、多くの喜びと痛みを経験してきた二人だからこそ分かり合える、静かで、しかし深い感情の交歓だった。
「今日、思い切って手を伸ばして良かったです」と佐藤が言った。
「私も、素直になれて良かったです」
「田中さんが一瞬、躊躇われたのが分かって、正直、少し不安になりました。でも、その後にちゃんと自分の言葉で気持ちを伝えてくれたのが、何より嬉しかったです」
「格好悪いところ、見られちゃいましたね」
「格好悪いなんて、思ってません。むしろ、簡単に頷かずに、ちゃんと悩んでくれたことが、田中さんの誠実さだと思いました」
その言葉に、明美は胸が温かくなるのを感じた。迷いや躊躇いさえも、そのまま受け止めてくれる相手がいる。それがどれほど得難いことか、明美はこの数ヶ月で、身をもって知ることができた。
「田中さんの、その強さと正直さに、いつも助けられている気がします」
佐藤がぽつりと言った。
「強くなんてないです。ただ、由奈が正直でいてくれたから、私も正直になろうと思えただけです」
「由奈さんには、いつか改めてきちんとお礼を言いたいですね。田中さんをここまで正直な気持ちにさせてくれたことに」
その言葉に、明美は小さく笑った。娘の存在が、こんな形で二人の関係を後押ししてくれているのだと思うと、不思議な温かさが胸に広がった。
風が少し強くなり、二人は自然と体を寄せ合った。手を繋いだまま、しばらくの間、二人は青く染まったベイブリッジと、きらめく港の夜景を、ただ静かに見つめ続けていた。
「寒くないですか」
「大丈夫です。むしろ、この寒さが、今はちょうどいい気がします」
明美がそう答えると、佐藤は小さく笑った。
「田中さんは、時々そういう不思議なことを言いますね」
「そうですか? 自分では、普通のことを言っているつもりなんですけど」
「その普通さが、私にはとても心地いいんです」
展望台には、他にも何組かのカップルや家族連れがいたが、誰もが景色に見入っていて、周囲の視線を気にする必要はなかった。二人はベンチに並んで腰を下ろし、手を繋いだまま、しばらくの間、言葉を交わさずに景色を眺め続けた。遠くの港では、大きな貨物船がゆっくりと灯りを灯しながら、夜の海を進んでいくのが見えた。
「ああいう船を見ると、いつも思うんです。どんなにゆっくりでも、ちゃんと前に進んでいるんだなって」
佐藤が海を見つめたまま、そう呟いた。
「私たちも、あんな感じかもしれませんね。ゆっくりだけど、確かに前に進んでる」
明美がそう返すと、佐藤は嬉しそうに頷いた。この時間が、これから始まる二人の新しい関係の、確かな出発点になることを、二人はどちらからともなく感じ取っていた。
すっかり冷え込んできた空気に、二人は名残惜しみながらもベンチを立ち、元町へと下る坂道を歩き始めた。繋いだ手は、離さないままだった。木々の間から漏れる街灯の光が、二人の足元を柔らかく照らしている。
「今日は、連れてきてくださって本当にありがとうございました」
「こちらこそ、来ていただけて良かったです。この景色を、また誰かと綺麗だと思いながら見られる日が来るなんて、少し前までは想像もしていませんでした」
その言葉に込められた重みを、明美は静かに受け止めた。過去の傷を抱えながらも、新しい一歩を踏み出そうとする彼の勇気に、明美は自分自身もまた、勇気づけられている気がした。坂の途中で、佐藤がふと足を止めて振り返った。
「田中さん、これからも、こうして一緒に景色を見ていけたらと思っています。由奈さんのことも含めて、時間をかけて、ゆっくりと」
「はい。私もそう思います」
二人は微笑み合い、再び並んで坂を下り始めた。振り返ると、「港の見える丘公園」の灯りが、木々の向こうに少しずつ遠ざかっていく。その光を見つめながら、明美は今日という一日を、これから何度も思い出すことになるだろうと、確かな予感を抱いていた。繋いだままの手の温もりを確かめながら、二人はしばらくの間、言葉を交わすことなく歩き続けた。この静けさもまた、二人の間に育ちつつある信頼の証なのだと、明美は感じていた。




