第八章 娘の眼差し
ある平日の夜、アパートのインターフォンが鳴った。モニターに映っていたのは、意外にも佐藤の姿だった。
「すみません、近くまで来たものですから。先日お話ししていた本、お持ちしました」
ドアを開けると、少し気まずそうに笑う佐藤が立っていた。彼の手には、一冊の文庫本が握られている。
「わざわざ、ありがとうございます」
明美が本を受け取ろうとした時、リビングから由奈がひょっこりと顔を出した。
「あ、佐藤さん。こんばんは」
「やあ、由奈ちゃん。こんばんは。もう体は大丈夫?」
「はい、ばっちりです。この間はありがとうございました」
玄関先での短い会話。だが、その間に交わされた母と佐藤のやりとりを、由奈は静かに観察していた。二人の間に流れる、ぎこちなくも温かい空気。そして何より、自分以外の誰かと話している時の、母の見たことのないような柔らかな表情。
佐藤は五分ほど玄関先で話しただけで、「遅い時間に失礼しました」と言い残し、帰っていった。その後ろ姿を見送りながら、明美はいつもより饒舌な自分に気づいていた。玄関先のわずかなやり取りの間、明美はいつになく声のトーンが弾んでいたし、何気ない話題にも、必要以上に笑顔がこぼれていた。それは自分でも気づかないうちに表れていた変化であり、だからこそ、由奈の目にはより一層はっきりと映っていたのかもしれない。
「ずいぶん楽しそうだったね、お母さん」
リビングに戻ると、由奈がソファに座って雑誌を読みながら、ぽつりと言った。その声のトーンが、いつもより少し低いことに、明美はすぐには気づかなかった。
「え、そう? 本を届けてくれただけだよ」
「本を届けるだけで、わざわざ家まで来るかなあ」
由奈の言葉には、これまでにない棘のようなものが含まれていた。明美は雑誌に目を落としたままの娘の横顔を、戸惑いながら見つめた。
「由奈、どうかした?」
「別に、何も」
由奈はそっけなく答えると、雑誌のページをめくった。その態度に、明美は言葉を続けることができなかった。数週間前、由奈は「お母さんが幸せならいい」と、はっきり言ってくれていたはずだった。それなのに、今夜の由奈からは、これまでとは違う、冷ややかな空気が感じられた。
その夜、明美は由奈の部屋のドアが、いつもより早く、そして少し強めに閉められる音を聞いた。何か言うべきかとも思ったが、うまく言葉が見つからないまま、その夜は結局、何も言わずに終わった。
一人になったリビングで、明美は先ほどの由奈の言葉を、何度も反芻していた。「本を届けるだけで、わざわざ家まで来るかなあ」。その一言には、明らかにいつもと違う響きがあった。これまで由奈は、母の変化を茶化すことはあっても、明確な拒絶や不満をぶつけてきたことは一度もなかった。
もしかしたら、自分は先走りすぎていたのかもしれない。佐藤との関係が少しずつ進展していくことに浮かれて、由奈の気持ちを置き去りにしていたのではないか。そんな自問が、明美の頭の中で渦を巻いた。同時に、由奈があれほどはっきりと「お母さんが幸せならいい」と言ってくれた言葉を、額面通りに受け取りすぎていたことにも、明美は今更ながら気づかされた。子供の言葉には、時として、本人すらまだ気づいていない矛盾した感情が隠れていることがある。それを見抜けなかった自分の未熟さを、明美は静かに悔いた。
眠れないまま、明美はスマートフォンを手に取った。佐藤からの新しいメッセージが届いていたが、返信する気力が今夜はどうしても湧かなかった。娘との間に生まれた小さな溝を埋めることの方が、今の明美にとっては何よりも優先すべきことだった。
翌朝、由奈はいつも通りに見えた。朝食を食べ、学校の準備をし、「行ってきます」と言って家を出ていく。だが、明美はその「いつも通り」の中に、微かな硬さが混じっていることを感じ取っていた。母親としての直感が、そう告げていた。
その日の午後、由奈は学校帰りに真央と、いつものファストフード店に立ち寄っていた。
「昨日さ、佐藤さんが家に来たんだよね」
「え、もう家に来る仲になったの? 早くない?」
「早いよね、私もそう思った」
由奈はストローを弄びながら、昨夜の自分の態度を思い返していた。
「なんか、玄関先で二人が話してるの見てたら、急に胸がざわざわしてきて。お母さんの声のトーン、いつもと全然違うんだもん。あんな声、私、聞いたことなかった」
「それって、単純に嬉しいとか、複雑とか、どっちの感じ?」
「分かんない。多分、両方。でも、昨日は結局、お母さんに冷たい態度取っちゃった。悪いなとは思ってるんだけど」
真央は少し考えてから、由奈に尋ねた。
「由奈さ、この前は『お母さんが幸せならいい』って言ってたじゃん。それは嘘だったの?」
「嘘じゃないよ。今でも本心でそう思ってる。でも……」
由奈は言葉を探しながら、続けた。
「頭では分かってるの。お母さんが誰かを好きになって、幸せになるのは、いいことだって。でも、実際にそれが目の前で起きてくるのを見ると、なんか、置いていかれるような気がしちゃうんだよね。私、これまでずっと、お母さんの一番だったから」
その言葉を口にした瞬間、由奈は自分でも意外なほど、それが本音の核心に近いものだと気づいた。母の幸せを願う気持ちに、嘘はない。だが同時に、母の世界に自分以外の誰かが入り込んでくることへの、幼い頃からの独占欲にも似た感情が、確かに自分の中に存在していた。
「それって、全然おかしいことじゃないと思うよ」
真央は静かにそう言った。
「由奈のお母さん、ずっと由奈のために頑張ってきたんでしょ。だったら、由奈がお母さんの『一番』じゃなくなることに、不安になるのも当然だよ。誰だってそうなると思う」
真央の言葉に、由奈は少しだけ救われた気持ちになった。だが、その感情を、どうやって母に伝えればいいのか、由奈にはまだ分からなかった。
家に帰った由奈は、リビングでテレビを見ている明美の隣に、いつもより静かに腰を下ろした。しばらくの沈黙の後、由奈が先に口を開いた。
「お母さん、昨日はごめん。冷たい態度取って」
「ううん、大丈夫。由奈、何か思うところがあったんでしょう」
明美は、由奈の様子を注意深く見守りながら、静かに促した。由奈はしばらく俯いていたが、やがて、ぽつりぽつりと話し始めた。
「私、お母さんが佐藤さんと仲良くなっていくの見て、正直、複雑な気持ちになってた。お母さんが幸せなのは嬉しいはずなのに、なんか、お母さんが自分以外の誰かのものになっていくみたいで、怖くなった」
由奈の言葉に、明美は胸を締めつけられる思いがした。娘がそんな気持ちを抱えていたことに、これまで気づけなかった自分を、明美は静かに責めた。
「怖いって思わせてたなんて、気づかなくてごめんね」
「お母さんが悪いわけじゃないよ。ただ、私が勝手に、子供っぽいこと考えてただけ。頭では、お母さんの幸せを願う気持ちの方が大きいって、ちゃんと分かってるんだけど」
由奈はそう言うと、小さく息を吐いた。
「小さい頃、お母さんが夜中に一人で泣いてたの、私、なんとなく覚えてるんだ。お父さんがいなくなった後、お母さんがどれだけ大変だったか、本当のところは分かんないけど、それでも私を一人で育ててくれた。だから、お母さんにはもっと早く幸せになってほしかった気持ちと、お母さんが私だけのものでいてほしかった気持ちが、両方あって。それが、昨日、急にぐちゃぐちゃになって出てきちゃったんだと思う」
明美は言葉を失い、しばらく由奈の顔を見つめていた。娘がこれほどまでに、母の過去と現在を、自分の心の中で丁寧に抱え続けてきたことを、明美は今、初めて知った。
「由奈……ありがとう、正直に話してくれて」
明美は由奈の手をそっと握った。その手は、いつの間にか、明美よりも大きくなっていた。この十数年、この手を引いて、明美は必死に一人で由奈を育ててきた。その手が今、こんなにも大人びた考えを抱えるまでに成長していたことに、明美は改めて胸が熱くなった。
「実はね、お母さんも、佐藤さんとのことを由奈にどう伝えればいいか、ずっと迷ってたの。由奈に嫌な思いをさせたくないって気持ちが強すぎて、逆に何も言えなくなってた」
「そうだったんだ」
「うん。だから、由奈が今日、正直な気持ちを話してくれて、本当に助かった。由奈が黙って我慢してたら、お母さん、きっと気づけないまま、由奈を傷つけ続けてたと思う」
明美の言葉に、由奈は少し驚いたような顔をした。
「お母さんも、迷ったりするんだね。なんか、いつも自分でどんどん決めて、迷わず突き進んでるイメージだったから」
「そんなことないよ。お母さんだって、迷うし、怖いことだらけ。由奈が思ってるほど、強くも完璧でもないよ」
その正直な告白に、由奈は少し驚いたように目を見開き、それから小さく笑った。
「由奈が私のことを、そんなに大切に思っていてくれたなんて、本当に嬉しい。でも、由奈が不安に思う必要は、本当はないんだよ。佐藤さんと仲良くなったからって、由奈への気持ちが変わるわけじゃない。由奈は、これからもずっと、私にとって一番大切な人だから」
「分かってる。分かってるんだけど、頭と気持ちが、いつも一致するとは限らないんだよね」
由奈は苦笑しながらそう言った。その言葉には、年齢に不釣り合いなほどの成熟した諦観と、それでも拭いきれない子供らしい寂しさの両方が滲んでいた。
「ねえ、お母さん。お父さんのこと、少しだけ聞いてもいい?」
由奈の唐突な問いに、明美は一瞬息を呑んだ。これまで由奈は、父親について自分から尋ねてきたことは、ほとんどなかった。
「いいよ。何が知りたいの」
「お父さんって、どんな人だったの。優しかった? それとも……」
明美は少し考えてから、慎重に言葉を選んだ。
「悪い人ではなかったよ。ただ、家庭を大事にするということが、あまり得意じゃなかった人だった。由奈のことは、それなりに可愛がってくれてたと思う。ただ、お母さんとは、ちゃんと向き合うということができないまま、時間だけが過ぎていった感じかな」
「そっか」
由奈はしばらく黙り込んだ。それから、ぽつりと言った。
「私、お父さんがいなくなったこと自体は、正直あんまり悲しいとか思わないんだ。物心つく前のことだから。ただ、お母さんが一人で全部背負ってきたんだなっていうのは、大きくなるにつれて、なんとなく分かるようになった。だから、お母さんには、ちゃんと幸せになってほしいって、本気で思ってる。それは今日話したことと、矛盾してるわけじゃないから」
「うん、分かってる」
「ただ、幸せになってほしいっていう気持ちと、変化に慣れるまでの時間が必要っていうのは、別の話ってことで」
由奈の言葉には、年齢を超えた冷静さと、それでもなお隠しきれない子供らしい率直さの両方があった。明美はその両方を、そのまま受け止めようと思った。
「時間、かかってもいいよ。由奈が自分のペースで、この状況に慣れていってくれれば。私も、由奈の気持ちを置き去りにするようなことは、絶対にしたくないから」
「うん……ありがとう」
その一言に込められた由奈の気持ちを、明美は深く受け止めた。母娘の間に生まれた小さな溝は、この夜の対話によって、完全に消え去ったわけではなかった。だが、その溝を隠さずに見せ合えたことこそが、この母娘の関係の確かな強さなのだと、明美は改めて実感していた。
しばらくの沈黙の後、由奈がぽつりと付け加えた。
「でも、本当に、佐藤さんのこと、いい人だとは思ってるよ。この間、家に来た時も、すごく丁寧に接してくれたし。ただ、気持ちの整理に、もう少し時間がかかるだけ」
「うん、ゆっくりでいいよ」
「お母さんも、私に気を遣いすぎないでね。私のことを気にしすぎて、お母さんが自分の気持ちに蓋をするのは、それはそれで嫌だから」
由奈のその言葉には、母を思う本物の優しさと、自分自身の複雑な感情の両方が、ないまぜになって込められていた。明美はその不完全な、しかし確かな娘の気持ちを、そのままの形で受け止めようと思った。無理に綺麗な結論をつけることなく、由奈が自分のペースで折り合いをつけていくのを、そばで見守っていく。それが、今の明美にできる、精一杯のことだった。
窓の外では、街の灯りが優しく瞬いていた。母と娘の間に流れる空気は、昨夜のようなぎこちなさから、少しずつ、以前のような温かさを取り戻しつつあった。それでも、完全に元通りというわけではない。二人の関係は、この夜を境に、また少し違う形へと変わり始めていた。以前よりも、互いの本音を交わすことを恐れない、少しだけ大人びた関係へと。その夜、明美は由奈の部屋の明かりが消えるのを確認してから、リビングの灯りをそっと落とした。静まり返った部屋の中、明美はしばらくの間、今日交わした言葉の重みを、一人噛み締めていた。娘という存在の大きさを、これほどまでに深く実感した夜は、これまでになかったかもしれない。窓の外の月明かりが、部屋をほのかに照らしていた。この温かな光のように、母娘の関係も、これから少しずつ、確かな形を取り戻していくのだろうと、明美は感じていた。
数日後、明美は佐藤に、由奈との間にあったことを、言葉を選びながら伝えた。「由奈さんの気持ち、よく分かります」と佐藤は静かに答えた。
「私も、田中さんと由奈さんの間に、無理に入り込むつもりはありません。由奈さんが心を開いてくれるまで、焦らず待ちます。それに、由奈さんがそこまで田中さんのことを大切に思っているというのは、聞いていて、なんだかとても温かい気持ちになりました」
その言葉に、明美は改めて、佐藤という人の器の大きさを感じた。焦って由奈との距離を縮めようとするのではなく、由奈のペースを尊重する姿勢。それは、明美が佐藤に惹かれる理由の、また一つの側面だった。
一週間ほど経ったある夜、由奈は夕食の席で、思い出したように言った。
「そういえば、佐藤さんって、休みの日は何してるの?」
その何気ない問いに、明美は内心で小さな喜びを覚えた。由奈が自分から佐藤の話題に触れたのは、あの夜以来、初めてのことだった。
「お店の見回りしてない時は、大体家で本を読んでるみたい。あと、たまに横浜の古い喫茶店を巡るのが好きなんだって」
「へえ、意外と渋い趣味なんだね」
由奈はそう言って小さく笑った。その笑顔に、以前のような屈託のなさが少しずつ戻ってきているのを、明美は感じ取った。すべてが解決したわけではない。由奈の中には、まだ整理しきれていない感情が残っているのかもしれない。それでも、母と娘は、互いの気持ちに正直に向き合うことで、以前よりも少しだけ、深いところで繋がり直すことができていた。




