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潮風のプレリュード  作者: 久遠 睦


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7/10

第七章 山下公園の散策

「また直接お会いしたい」という約束を交わしてから数日後、佐藤から「今度の週末、もしよかったら散歩でもしませんか」と誘われた。それは、これまでの感謝や義理とは違う、初めての明確な「誘い」だった。

そのメッセージを読んだ瞬間、明美はキッチンに立ったまま、しばらくスマートフォンの画面を見つめていた。文字の羅列がやけに輝いて見える。返事を打つ指が、わずかに震えていた。

『はい、ぜひ』

短い返信を送ってから、明美は由奈に週末の予定を伝えた。由奈は特に驚いた様子もなく、「行ってきなよ」とだけ言って、あっさりと送り出す構えを見せた。その素直さに、明美は安堵しつつも、どこかまだ、由奈の本心を測りかねている自分がいた。

当日の朝、明美はクローゼットの前で長い時間を過ごした。デートというには気恥ずかしい、しかし単なる知人との散歩と割り切るには落ち着かない、そんな微妙な位置づけの外出に、どんな服装がふさわしいのか、明美には判断がつかなかった。結局、動きやすいパンツに、少し明るい色のニットを合わせることにした。鏡の前で何度も自分の姿を確認する母の様子を、由奈は洗面所の入り口から面白そうに眺めていた。

「お母さん、そんなに悩むの珍しいね」

「悩んでないよ。ただ、天気がいいから、動きやすい格好にしようと思って」

「はいはい、そういうことにしといてあげる」

由奈は含み笑いをしながらリビングへと戻っていった。その気配りとも、からかいともつかない態度に、明美は苦笑しながらも、どこか救われる思いがした。

土曜日の午後、二人は山下公園で待ち合わせた。潮風が心地よく吹き抜ける、横浜を象徴する場所。休日の公園は家族連れやカップルで賑わっていたが、その喧騒が逆に二人を気楽にさせた。

待ち合わせ場所に現れた佐藤は、いつものスーツ姿とは違う、カジュアルなセーター姿だった。その私服姿を見て、明美は思わず新鮮な気持ちになる。仕事上の関係から始まった二人の間に、少しずつ、プライベートな時間が積み重なっていく実感があった。

「お待たせしました。今日はお天気が良くて良かったです」

「本当に。こんな風に予定を空けて出かけるの、久しぶりです」

「私もです。休日は大抵、店舗の見回りか、家で一人でのんびりしているかのどちらかなので」

「佐藤さんも、お休みの日は一人で過ごされることが多いんですね」

「ええ。趣味らしい趣味もなくて、少し寂しい生活を送っています」

そう言って笑う佐藤の表情に、明美は親近感を覚えた。仕事に真摯に向き合うあまり、私生活が疎かになる。その感覚は、明美自身にも痛いほど身に覚えのあるものだった。

「ここのバラ、綺麗ですよね」

佐藤が指差したのは、「未来のバラ園」と名付けられた一角だった。色とりどりのバラが、港の青を背景に咲き誇っている。二人はしばらく、言葉少なげに花々を眺めながら歩いた。

「バラを見ると、いつも思うんです。丁寧に手入れされたものだけが、こんなに綺麗に咲くんだなって」

明美がぽつりと言うと、佐藤は頷いた。

「田中さんらしい見方ですね。何事にも丁寧に向き合う方だから」

明美は少し照れながら、遊歩道の脇に咲く一輪のバラに目を留めた。花びらの縁が、少しだけ色褪せかけている。それでも、その花は精一杯、自分の形を保ちながら咲いていた。その姿が、なぜか今の自分自身と重なるような気がした。

「そんな、大したことでは」

「いえ、由奈さんのことを見ていれば分かります。あんなにしっかりした娘さんに育てるのは、並大抵の丁寧さじゃできません」

バラ園を抜け、二人は港に沿って続く遊歩道をゆっくりと歩いた。停泊する古い客船の白い船体が、午後の光を受けて輝いている。犬を連れた家族連れ、絵を描く画学生、ベンチで昼寝をする老人。休日の公園らしい、のどかな光景が広がっていた。

「昔、由奈がまだ小さい頃、ここに何度か連れてきたことがあるんです。あの子、鳩を追いかけまわして、私が何度呼んでも戻ってこなくて」

「目に浮かびますね。由奈さん、今もエネルギッシュな方ですから」

「あの頃は、本当に大変で。でも今思えば、あの必死さが、私を支えてくれていた部分もあったんだと思います」

明美は、自分でも意外なほど自然に、由奈との過去の思い出を語っていた。誰かに自分の歴史を話すということが、これほど心地よいことだとは、久しく忘れていた。佐藤は相槌を打ちながら、時折質問を挟み、明美の話に丁寧に耳を傾けてくれた。

「田中さんの話を聞いていると、由奈さんがどれだけ大切に育てられてきたか、よく分かります」

「大切にしてきたつもりですけど、時々、本当にこれでよかったのかって、不安になることもあります」

「不安にならない親なんて、いないと思いますよ。少なくとも、私の周りにはいません」

その言葉に、明美は小さく笑った。完璧な母親でいなければ、という長年のプレッシャーが、彼のさりげない一言で、ほんの少しだけ軽くなった気がした。

やがて、海に面してずらりと並んだベンチの一つに腰を下ろした。目の前には横浜ベイブリッジが雄大な姿を見せ、港には白い観光船がゆっくりと行き交っている。遠くで鳴る汽笛の音が、どこか物悲しく、それでいてロマンチックに響いた。

「なんだか、不思議な感じですね」と明美が呟いた。

「何がです?」

「こうして、佐藤さんとここにいることが。一ヶ月前には、想像もしていませんでしたから」

「私もです」と佐藤は微笑んだ。「人生、何が起こるか分かりませんね」

その言葉をきっかけに、二人は少し深い話をした。離婚後の人生について、一人でいることの気楽さと寂しさについて。明美は、自分の平穏な生活を壊すのが怖い、という本音を初めて口にした。

「分かります。私も、もう誰かと深く関わるのはこりごりだと思っていました。傷つくのも、傷つけるのも、もうたくさんだと」

佐藤は、静かに海を見つめながら言った。その横顔に、明美はふと、これまで見たことのない翳りを感じ取った。

「実を言うと、最近、少し怖くなることがあるんです」

「怖くなるって、何がですか」

「田中さんとこうしてお会いするたびに、自分の中で何かが変わっていくのが分かるんです。それが嬉しい反面、また同じように失敗するんじゃないかって、臆病になっている自分もいます。前の結婚で、大切なものをちゃんと大切にできなかった。その苦い記憶が、まだ完全には消えていないんです」

その告白は、これまでの佐藤の穏やかで揺るぎない印象とは、少し違う一面を見せるものだった。明美は初めて、彼の中にも自分と同じような迷いや恐れがあることを知り、不思議な安堵と、同時に小さな不安の両方を覚えた。彼が完璧な人間ではないという事実が、かえって彼を身近な、生身の存在として感じさせた。

「私も同じです。怖いのは、佐藤さんだけじゃないですよ」

「そう言ってもらえると、少し楽になります」

二人はしばらく黙って、目の前の海を眺めていた。波音と、遠くの汽笛と、行き交う観光客の話し声。その全てが混ざり合った潮騒の中で、明美はふと、この関係がこの先どうなっていくのか、確かな見通しを持てない自分に気づいた。

「未来の出来事が、過去の意味を変えることだってあるんじゃないかって、最近よく思うんです」

佐藤がそう言った。その言葉に、明美は静かに耳を傾けた。辛かった離婚の経験も、孤独に耐えてきた長い年月も、この先の未来に幸せな出来事が待っているのなら、その全てが今日この日のための準備期間だったのだと思えるかもしれない。過去は変えられないけれど、過去の「意味」は、未来によって変えることができる。そんな考え方を、明美はこれまで一度も持ったことがなかった。

「未来が、過去を変える……」

明美は、その言葉を口の中で繰り返した。佐藤と出会ったことで、閉ざしていた心の扉が、ほんの少しだけ開いたような気がした。だが同時に、その言葉の裏にある不確かさ――未来が本当に幸せなものになるという保証はどこにもないという事実――にも、明美は思い至らずにはいられなかった。もし、この先また何かがうまくいかなかったら。もし、また同じように傷つくことになったら。その時、過去の意味は、良い方向にではなく、悪い方向に塗り替えられてしまうのではないか。

ベンチに座る二人の間に、沈黙が流れる。それは気まずいものではなく、互いの心の揺らぎを静かに感じ合う、穏やかな時間だった。だが、明美の心の中には、先ほどの佐藤の告白と、自分自身の不安とが、そのまま重なり合って残っていた。

「田中さん、大丈夫ですか。急に静かになりましたね」

佐藤が心配そうに声をかけてきた。

「すみません、少し考え事を。佐藤さんの言葉、すごく素敵だと思ったんですけど、同時に、少し怖くもなって」

「怖い、というのは」

「もし、この先何かうまくいかないことがあったら、その時はどうすればいいんだろうって。臆病なことを言っているのは分かっているんですけど」

明美の正直な吐露に、佐藤はしばらく黙り込んだ。それから、静かに、しかしはっきりとした声で言った。

「うまくいかないことがあったとしても、その時はその時で、また一緒に考えればいいんじゃないでしょうか。一人で抱え込む必要はないと思います、少なくとも私は」

その言葉に、明美は胸を突かれた。一人で抱え込まなくていい。その単純な言葉が、これまでずっと「頼らない」ことを自らに課してきた明美にとって、どれほど新鮮に響いたことか。離婚してからの十年余り、明美は誰かに寄りかかることを、自分自身に固く禁じてきた。その禁を、こんなにも静かに、しかし確実に解いてくれる相手に出会えたことを、明美は今、しみじみと噛み締めていた。

「ありがとうございます。その言葉だけで、少し気持ちが楽になりました」

二人はもう一度、目の前の海に視線を戻した。夕暮れが近づき、空の色が少しずつ橙色に変わり始めている。この日の会話は、これまでで一番、二人の間の距離を縮めるものだったと、明美は感じていた。同時に、恋愛というものには、綺麗な景色や優しい言葉だけでは片付かない、確かな不安と覚悟の両方が伴うのだということも、明美は改めて実感していた。

「少し、体が冷えてきましたね。どこかで温かいものでも飲みませんか」

佐藤の提案に、明美は頷いた。公園の外れにある小さなカフェに入り、二人は温かいコーヒーを注文した。窓際の席から見える港の景色は、先ほどとは違う、夕暮れ特有の柔らかな色合いに染まっている。

「さっきの話、続きを聞いてもいいですか」と明美が切り出した。「前の結婚で、大切なものをちゃんと大切にできなかったって、おっしゃってましたよね」

佐藤は少し驚いたように目を見開いたが、やがて静かに頷いた。

「妻が、体調を崩した時期があったんです。今思えば、心の不調だったんだと思います。でも当時の私は、それに気づく余裕もないくらい、仕事に没頭していました。妻が何度もサインを出していたはずなのに、私はそれをことごとく見逃していた」

「今の佐藤さんからは、想像できません」

「あの経験があったからこそ、今の私があるんだと思っています。人の変化に気づくこと、それに丁寧に向き合うこと。仕事でも、それを一番大事にするようになりました。皮肉なことに、大切な人を失ってから、ようやくそれができるようになったんです」

その告白には、深い後悔と、そこから立ち直ろうとする意志の両方が滲んでいた。明美は、彼の弱さと誠実さの両方に触れた気がして、胸が熱くなるのを感じた。

「私からも、一つ聞いてもいいですか」

佐藤が改めて明美に向き直った。

「田中さんは、この先の関係について、どう考えていますか。急かすつもりはないのですが、正直な気持ちを聞いておきたくて」

明美は少し考えてから、正直に答えた。

「怖いのは事実です。でも、佐藤さんと過ごす時間を、これ以上失いたくないとも思っています。矛盾してますけど、それが今の正直な気持ちです」

「矛盾してませんよ。むしろ、それが自然な気持ちだと思います」

窓の外では、日が完全に暮れ、街灯が一つずつ灯り始めていた。二人はしばらくの間、それぞれの手の中のカップの温かさを確かめるように、静かに座っていた。この日交わした言葉の一つ一つが、明美の中に、確かな重みを持って残っていた。

カフェを出ると、二人は駅までの道をゆっくりと歩いた。行き交う人々の吐く息が、白く浮かんでは消えていく。冬の気配が、少しずつ近づいているのが感じられた。

「今日は、ありがとうございました。楽しかったです」

「こちらこそ。田中さんの本音が聞けて、良かったです」

「あんな弱気なこと言って、恥ずかしいです」

「弱音を吐ける相手がいるのは、悪いことじゃないと思いますよ。私もそうでしたから」

駅の改札の前で、二人は向き合った。別れを惜しむような、それでいて次に会う日を確かめ合うような、不思議な間があった。

「また、連絡しますね」

「はい、お待ちしています」

改札を抜けて振り返ると、佐藤はまだそこに立って、小さく手を振っていた。その姿が人混みに紛れて見えなくなるまで、明美はホームへの階段を上りながら、何度も振り返っていた。帰りの電車の窓に映る自分の顔は、行きの時よりもずっと柔らかく、そして少しだけ、大人びた表情をしているように見えた。今日交わした言葉たちが、これからの二人の関係にどんな形を与えていくのか、まだ誰にも分からなかった。それでも、確かなことが一つだけあった。この関係は、もう後戻りできないところまで、着実に進み始めていた。窓の外を流れる夜の街並みを眺めながら、明美は今日一日の記憶を、大切にしまい込むように、もう一度心の中で反芻していた。

家に着くと、由奈がリビングでテレビを見ていた。

「おかえり。今日はどうだった?」

「うん、楽しかったよ。山下公園を散歩してきたの」

「へえ、いいじゃん。顔、いつもよりつやつやしてる気がする」

由奈のからかうような言葉に、明美は苦笑しながら、それでも否定はしなかった。今日交わした言葉の重みは、まだ由奈に打ち明けられる段階ではなかったが、こうして娘の何気ない一言に迎えられる日常があることもまた、明美にとってはかけがえのない幸せだった。自室に戻り、着替えを済ませた明美は、ベッドに腰掛けて、今日一日の記憶を、もう一度ゆっくりと反芻していた。窓の外に浮かぶ月を眺めながら、明美はしばらくの間、幸せな気持ちに浸っていた。明日からまた始まる日常が、今はなぜか、少しだけ愛おしく感じられた。ベッドに横たわり、明美は目を閉じた。今日一日で交わした言葉の一つ一つが、明日への確かな力になってくれることを、明美は信じていた。眠りに落ちる直前まで、頬に触れた潮風の感触が、心地よい余韻として残り続けていた。


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