第六章 夜闇の会話
あの夜のディナーを境に、明美と佐藤の間に細く、しかし確かな繋がりが生まれた。それは、スマートフォンの画面に灯る、ささやかな光のやりとりだった。
最初は、佐藤からの「由奈さんの具合はいかがですか?」というメッセージだった。それに明美が返信し、数回のやりとりで会話は終わる。そんな事務的な関係が、少しずつ変化していった。
ある夜、明美が残業を終えて帰りの電車に乗っていると、佐藤からメッセージが届いた。『今日、面白い本を見つけました』。それは、明美が以前、好きな作家だと話していた人物の新刊だった。そこから、互いの好きな本や映画、音楽の話に広がった。
『この曲、聴いてみてください』と送られてきたリンクを開くと、明美が若い頃によく聴いていたアーティストの、少しマイナーな曲が流れてきた。懐かしさで胸がいっぱいになり、思わず『どうしてこの曲を?』と返すと、『なんとなく、田中さんが好きそうだと思って』という返事が来た。
何気ない会話が、夜ごと続いた。仕事の愚痴、美味しかったランチの写真、窓から見えた美しい夕焼け。それは、母親でも、会社の同僚でもない、「田中明美」という一人の女性としての、誰にも邪魔されないプライベートな空間だった。
明美はこれまで、自分の一日の出来事を誰かに逐一報告するという習慣を持っていなかった。由奈にはあくまで母親として接し、会社では同僚として業務的な会話を交わす。それ以外の、ただ「今日はこんなことがあった」と誰かに聞いてもらうだけの時間は、離婚してから一度も持ったことがなかった。佐藤とのやり取りは、その空白を、少しずつ、しかし確実に埋めていった。
十月に入り、日が沈むのが早くなった。仕事帰り、駅からの帰り道で見上げる空はもうすっかり夜の色をしていて、その暗さが、かえって明美にとっては心地よい隠れ蓑になった。誰かに見られているわけでもないのに、スマートフォンの画面を見つめて微笑む自分の顔を、誰にも見られたくないと思う気持ちがあった。
週末、由奈が友人と出かけている間、明美は久しぶりに部屋の掃除をしながら、佐藤とのメッセージのやり取りを思い返していた。彼が送ってくれる文章には、いつも一言、明美を気遣う言葉が添えられていた。『お仕事、お疲れさまです』『由奈さんの大会、応援しています』。ささやかな気遣いの積み重ねが、明美の中で、確実に何かを育てていた。
ある週末、明美は思い切って、自分から写真を一枚送ってみた。ベランダに干した洗濯物越しに見える、澄み渡った秋空の写真だった。『今日はいい天気です』というメッセージに、佐藤は『素敵な写真ですね。今度、そちらの景色を見せてもらえたら嬉しいです』と返してきた。その一文に、明美は思わず頬が緩んだ。家に招くという意味なのか、それとも単なる社交辞令なのか、判断がつかないまま、明美はしばらくその文面を眺めていた。
十月半ばのある夜、佐藤からいつもより長いメッセージが届いた。『田中さんと話していると、仕事の疲れが本当に和らぎます。こんな風に感じるのは、離婚してから初めてかもしれません』。その言葉を読んだ瞬間、明美の胸の奥が、じんわりと温かくなった。返信を打とうとして、何度も文章を書き直す。素直な気持ちをそのまま伝えることが、これほど難しいとは思わなかった。結局、明美は『私も同じ気持ちです』とだけ返した。短い言葉だったが、それで十分に伝わったはずだった。
ある晩、佐藤からのメッセージには、こんな一文があった。『今日、担当している店舗の一つで、若いスタッフが辞めることになりました。理由を聞いても、なかなか本音を話してくれなくて。こういう時、自分の力不足を感じます』。仕事の弱音を見せることは、彼にとって珍しいことのようだった。明美は少し考えてから、返信した。『きっと、佐藤さんが真剣に向き合ってくれているからこそ、簡単に本音を言えなかったのかもしれません』。
『そう言ってもらえると、救われます』という返信が届いた時、明美は自分がこの人の助けになれたことに、ささやかな喜びを感じた。誰かのために何かできるということ、それがこれほど心を満たすものだったとは、久しく忘れていた。仕事でも家庭でも、明美はいつも与える側、支える側に立ってきた。だが、佐藤との関係では、支え合うという言葉の本当の意味を、少しずつ実感できるようになっていた。
十月の下旬、由奈のダンス部の大会が近づいてきた頃、佐藤から『大会、本当に応援しています。もしよければ、終わったあとの由奈さんの様子も聞かせてください』というメッセージが届いた。仕事関係の人間というだけでは説明のつかない、由奈自身への純粋な気遣いが感じられる文面だった。明美はその優しさに、改めて心を動かされていた。
電車の中で、彼のメッセージを読んでくすりと笑う。そんな母親の小さな変化を、由奈は見逃さなかった。
「お母さん、最近なんか楽しそうだね。いいことでもあった?」
ソファでテレビを見ながら、由奈が何気なく言った。
「え? そう?」
明美は動揺を隠しながら、そっけなく答える。だが、心の中では、娘の鋭さに驚いていた。そうだ、私は今、楽しいのかもしれない。この、誰にも言えない秘密のやりとりが、灰色だった日常に淡い色彩を与えてくれている。その事実に、明美自身が一番戸惑っていた。
「もしかして、佐藤さんと連絡取り合ってるの?」
由奈の直球な問いに、明美は思わずスマートフォンを取り落としそうになった。
「な、なんでそう思うの」
「だって、お母さんがスマホ見てにやにやしてる時、大体佐藤さんの名前が画面に出てるもん。隠すの下手すぎ」
観念した明美は、正直に頷いた。
「うん……時々、メッセージのやり取りしてる。由奈のこと、心配して連絡くれたのがきっかけで」
「へえ。それで、どんな話してるの」
「別に、大したことは。お互いの仕事のこととか、好きな音楽の話とか」
「ふうん」
由奈は興味深そうに相槌を打ちながらも、それ以上深くは追及しなかった。ただ、その表情の奥に、明美には読み取れない何かが一瞬よぎったような気がした。それが何だったのか確かめる間もなく、由奈はまたスマートフォンに視線を戻し、いつもの調子で話題を変えた。
「そういえば、大会の結果、見た? 私たちのチーム、地区予選突破したよ」
「本当? すごいじゃない!」
「次は県大会。もっと頑張らなきゃ」
その夜、明美は久しぶりに恵子に電話をかけた。地区予選突破の報告と、そして佐藤とのやり取りが続いていることを、少し照れながら伝える。
「ほら見たことか。扉は開けたり閉めたりできるものだって、私、言ったでしょう」
電話の向こうで、恵子は得意げな声を上げた。
「まだ何も始まってないんだからね、そんなに騒がないで」
「始まってなくても、明美がこんな風に誰かの話を楽しそうにするの、何年ぶりだと思ってるの。もう十分、何かが始まってるようなものだよ」
恵子の指摘に、明美は言葉を返せなかった。図星だった。この数週間、確かに自分の中で何かが変わり始めている。それを認めることに、もう抵抗はなくなっていた。
「由奈には、ちゃんと話したの?」
「うーん、なんとなく感づかれてる気はするけど、はっきりとは話してない。どう切り出したらいいのか、まだ分からなくて」
「由奈ちゃんなら、案外あっさり受け止めてくれると思うけどな。あの子、昔から明美のことよく見てる子だったじゃない」
恵子の言葉に、明美は由奈のあの日の言葉――「お母さんが自分のこと、後回しにしすぎてる気がする」――を思い出していた。恵子の言う通り、由奈はきっと、母親の変化を受け止める準備が、明美が思っている以上にできているのかもしれない。それでも、直接言葉にして伝えることには、まだ小さな勇気が必要だった。
恵子との電話を終え、明美はソファに深くもたれかかった。由奈の快挙を素直に喜ぶ気持ちと、佐藤との関係が少しずつ育っていることへの高揚感。二つの幸福が重なり合って、この夜の明美の胸を温かく満たしていた。だが、その一方で、明美はふと、ソファで見せたあの一瞬の由奈の表情を思い出していた。喜んでいるようで、どこか複雑そうな。あるいは、それは自分の考えすぎなのかもしれない。明美はそう結論づけて、その日は眠りについた。
実のところ、由奈の胸の内には、母には見せていない小さな戸惑いがあった。その週末、由奈は親友の真央と、駅前のファストフード店で向かい合っていた。
「お母さんがさ、多分、私のバイト先の偉い人と付き合い始めてる気がするんだよね」
「え、まじで? どんな人?」
「エリアマネージャーの佐藤さんっていう人。すごく優しいし、いい人だとは思うんだけど……」
「思うんだけど、何?」
真央に促され、由奈は少し言葉を選びながら続けた。
「なんか、複雑。お母さんが幸せそうにしてるのは嬉しいんだけど、同時に、ちょっと怖いというか。もしまた、お母さんが傷つくようなことになったらどうしようって、考えちゃう」
「由奈のお父さんのことと、関係あるの?」
「多分ね。私、お父さんのことほとんど覚えてないんだけど、お母さんが夜中に一人で泣いてたのは、なんとなく覚えてる。あの頃の記憶がフラッシュバックするというか」
真央は黙って由奈の話に耳を傾けていた。由奈自身も、自分の中にあるこの感情を、うまく整理できずにいた。母の幸せを願う気持ちと、母がまた傷つくことへの恐れ。その二つが、由奈の心の中で、絶えずせめぎ合っていた。
「でも、由奈は前に、お母さんが再婚してもいいって言ってたじゃん」
「うん、言った。それは本心だよ。ただ、実際にそれが現実に近づいてくると、思ってたよりも、いろいろ考えちゃうんだなって、自分でもびっくりしてる」
真央は「そういうものかもね」とだけ言って、それ以上深くは触れなかった。由奈はストローでジュースをかき混ぜながら、窓の外を眺めた。母の笑顔を思い浮かべると、素直に嬉しい。だが同時に、あの夜の記憶――母が声を殺して泣いていた、あの夜の空気――が、由奈の心の奥に、静かに影を落としていた。この複雑な気持ちを、由奈はまだ、母には打ち明けられずにいた。
十一月に入り、佐藤とのメッセージのやり取りは、ほとんど毎日続くようになっていた。仕事の合間、通勤電車の中、就寝前のわずかな時間。一日のうちの、ささやかだが確かな習慣として、それは明美の生活に根付いていった。
『来週、由奈さんのお店に視察で伺う予定です。せっかくなので、また少しお話しできたら嬉しいです』
そんなメッセージが届いたのは、月曜の夜のことだった。明美はその一文を、何度も読み返した。次に会える機会がある。そのことが、これほど嬉しく感じられるとは、自分でも予想していなかった。
その週、明美は仕事の合間にも、ふと佐藤とのやり取りを思い返す時間が増えていた。取引先とのメールを打っている最中に、ふと彼の言葉遣いを思い出して口元が緩んでしまい、慌てて表情を引き締める。そんなことが何度もあった。村上には、また「田中さん、最近ますますにやにやしてますね」とからかわれたが、明美はもう、それを強く否定することはしなかった。
「まあ、いいことがあるのはいいことだよね。田中さんがずっと仕事一筋だったの、見てて心配だったから」
村上の言葉に、明美は素直に頭を下げた。
「ありがとう。まだ何も決まったわけじゃないんだけどね」
「決まってなくても、田中さんが楽しそうにしてるの見ると、こっちも嬉しいですよ」
同僚からのそんな言葉に、明美は自分の変化が、思っていた以上に周囲にも伝わっていることを実感した。隠しているつもりでも、幸福というのは、案外簡単に滲み出てしまうものらしい。
十一月半ばのある夜、佐藤から届いたメッセージには、こんな一文があった。『田中さんと文字でやり取りするのも楽しいですが、そろそろ、また直接お会いしてお話ししたいなと思っています』。ただの世間話とは違う、何か特別な響きを持った文面だった。明美はその一文を、何度も読み返した。彼がどんな意図を込めているのか、はっきりとは分からない。だが、確かなことが一つだけあった。その言葉を読んで、これほど心が浮き立っている自分を、もう否定できないということだった。
『私も、そう思っていました』
短く、けれど確かな気持ちを込めて、明美はそう返信した。送信ボタンを押した瞬間、心臓が高く鳴った。この十年余り、こんな風に胸を高鳴らせながら誰かとの再会を待ち望んだことなど、一度もなかった。
視察の当日、明美は閉店まで働く由奈を迎えがてら、仕事帰りに「ポートテラス」へ立ち寄った。店長や他のスタッフとの打ち合わせを終えた佐藤は、事務所へ戻る前のわずかな時間を作ってくれた。潮風の混じる冷たい夜気の中、二人は店の外でコートの襟を立てながら、他愛のない世間話を交わした。
「田中さんの顔を見ると、なんだか一日の疲れが吹き飛びますね」
「私も、佐藤さんとお話しできると、元気が出ます」
ほんの十分足らずの立ち話だったが、その短い時間が、明美にとってはこの一週間で一番心が満たされる瞬間だった。別れ際、佐藤は「また近いうちに、ゆっくりお会いしましょう」と言い残し、事務所へと戻っていった。その後ろ姿を見送りながら、明美は自分の頬が、寒空の下でも温かいことに気づいた。
十年以上もの間、固く閉ざしてきたはずの心の扉が、佐藤という一人の男性の存在によって、少しずつ、しかし確実に開き始めていた。その変化を、明美自身はまだ、正確には言葉にできずにいた。ただ、これまでの静かな日常には存在しなかった、新しい何かが、確かにそこにあった。帰り道、シフトを終えた由奈と並んで駅までの夜道を歩きながら、明美は自分の足取りが、いつもより軽いことに気づいていた。
家に着き、疲れたと言って早々に部屋へ引き上げた由奈のドアの前をそっと通り過ぎながら、明美は今日一日の出来事を、もう一度心の中で反芻した。視察という業務上の口実があったとはいえ、こうして短い時間でも顔を合わせられたことが、これほどまでに一日の疲れを癒してくれるとは、自分でも予想していなかった。誰かの存在が、日常の色合いをこれほどまでに変えるものなのかと、明美は改めて実感していた。自室のベッドに横になりながら、明美はスマートフォンの画面をもう一度確認し、彼からの最後のメッセージにそっと目を通してから、眠りについた。窓の外では、冬の訪れを告げる冷たい風が、街を吹き抜けていた。その冷たさすらも、今の明美には、どこか心地よいものに感じられた。布団の中で目を閉じながら、明美は明日という日への、ささやかな期待を胸に抱いていた。




