第五章 感謝のディナー
一週間後、由奈はすっかり元気を取り戻し、いつもの日常が戻ってきた。鉄剤のサプリメントを飲み始め、朝食も以前よりしっかり食べるようになった娘の様子に、明美は胸を撫で下ろしていた。
だが、明美自身の心の中には、あの日から小さな棘のようなものが残り続けていた。佐藤の名刺は、財布の中に大切にしまわれたままだった。何度もスマートフォンを取り出し、メッセージを打っては消し、打っては消しを繰り返した。「先日はありがとうございました」という、ただそれだけの一文が、なぜかどうしても送信ボタンを押せなかった。
「お母さん、佐藤さんにお礼の連絡した?」
由奈が思い出したように尋ねてきたのは、由奈が元気になってから三日後のことだった。
「まだなの。何て書けばいいか、考えてて」
「そんなの、ありがとうございましたって書くだけでいいじゃん。お母さんらしくないね、そんなに悩むなんて」
由奈の指摘は的を射ていた。仕事では、取引先への謝辞のメールなど、何百通と書いてきたはずだった。それなのに、佐藤に対してだけは、どんな言葉を選べばいいのか分からなくなる。その理由を、明美は自分自身にもうまく説明できなかった。
会社の昼休み、明美は給湯室で村上と二人になった際、思い切ってこの件を相談してみた。
「ねえ村上さん、お礼のメッセージって、どのくらいの丁寧さで送ればいいと思う?」
「田中さんにしては珍しく歯切れが悪いですね。相手、誰なんですか」
「由奈のバイト先の、エリアマネージャーさん。この間、由奈が倒れた時にすごくお世話になって」
「ああ、その節は本当にありがとうございました、で十分な気がしますけど……田中さん、もしかして意識してます?」
村上のからかうような視線に、明美は思わず顔が赤くなるのを感じた。
「そんなんじゃないよ。ただ、お世話になった相手だから、失礼のないようにしたいだけ」
「はいはい、そういうことにしておきますね」
村上はにやにやしながらそう言うと、それ以上深追いすることなく休憩室を出ていった。一人残された明美は、自分の反応の大きさに、かえって戸惑いを覚えた。ただの礼儀のはずなのに、どうしてこんなにも心がざわつくのだろう。
その夜、明美は何度目かの下書きの末、ようやく短いメッセージを送信した。「先日は娘が大変お世話になりました。おかげさまで、すっかり元気になりました。改めてお礼を申し上げたく存じます」。送信してから数分もしないうちに、返信が届いた。
「ご丁寧にありがとうございます。由奈さんが元気になられて何よりです。お礼など本当に気になさらないでください」
その簡潔で丁寧な文面に、明美はほっと胸を撫で下ろした。だが、それで会話が終わってしまったことに、なぜか小さな物足りなさも感じていた。
明美は何度も考えても、あの日の佐藤の親切にどう報いればいいのか分からなかった。菓子折りを持って店を訪ねるだけでは、感謝の気持ちが伝えきれない気がした。悩んだ末、彼女は勇気を出してもう一度メッセージを送り、食事に誘った。
「もしご迷惑でなければ、改めてきちんとお礼をさせていただきたいのですが、お食事などいかがでしょうか」
送信した直後、明美は自分の大胆さに驚いていた。この十年余り、自分から異性を食事に誘うなど、一度もしたことがなかった。返信を待つ間、心臓が落ち着かないほど早く打っていた。
「お礼など本当に気になさらないでください」と最初は固辞していた佐藤も、明美の真摯な申し出に最後は折れてくれた。「では、お言葉に甘えて」という短い返信を見た瞬間、明美は誰もいないリビングで、思わず小さくガッツポーズを作ってしまい、自分でもその子供っぽさに苦笑した。
店は、明美が選んだ。横浜駅西口からほど近い、鶴屋町にある「洋風食堂 リトルポルト」。お洒落でありながら堅苦しくなく、四十代の男女が落ち着いて話をするのにふさわしい場所だと思った。予約の電話をかけながら、明美は自分がこんなにも真剣に店選びに時間をかけたのは、いつ以来だろうかと考えた。
金曜の夜、店は賑わっていたが、予約していたテーブル席は少し奥まった静かな場所だった。約束の五分前に到着した明美は、鏡代わりにスマートフォンの画面で自分の身なりを確認した。いつもより少しだけ丁寧に化粧をし、クローゼットの奥から引っ張り出した紺色のワンピースに袖を通していた。そんな自分に気づくたび、明美は落ち着かない気持ちになった。
水を一口飲み、緊張を紛らわそうと店内の内装を眺めていると、入り口の扉が開く音がした。顔を上げると、店員に案内されながらこちらへ向かってくる佐藤の姿があった。
定刻通りに現れた佐藤は、仕事帰りらしいジャケット姿だった。
「お待たせしました。今日はお招きいただいて、ありがとうございます」
「先日は、本当にありがとうございました」
改めて頭を下げる明美に、佐藤は「もうその話はいいですよ」と苦笑した。
「それより、由奈ちゃんの体調はいかがですか?」
「はい、おかげさまで。あれ以来、休憩中もちゃんと食べるようになりました」
「それは良かった。ダンスの大会は、確か十月の終わりでしたよね」
「覚えていてくださったんですか」
「あの日、由奈さんが休憩室で、大会が近いから休めないって、しきりに気にしてましたから」
その細やかな記憶力に、明美は改めて驚かされた。仕事の合間に交わした程度の会話の中身を、彼はきちんと覚えていてくれていた。
義務感から始まった食事が、いつしか心地よい会話へと変わっていった。仕事の話、横浜という街の好きな場所の話、そして、互いの過去の話。ワインのグラスを傾けながら、佐藤は自分がこの仕事に就いた経緯を語ってくれた。もともとは別の業界で営業をしていたが、人と向き合う仕事がしたくて、この会社に転職したのだという。
「実は私も、バツイチなんです」と佐藤が打ち明けたのは、ワインのボトルが半分ほど空になった頃だった。「十年以上前になりますが。子供はいません」
その告白に、明美は驚かなかった。むしろ、彼の纏う穏やかで少し寂しげな雰囲気の理由が分かったような気がした。
「私もです。由奈がまだ小学生の頃でした」
「そうでしたか。お一人で由奈さんを育ててこられたんですね」
「ええ。大変でしたけど、由奈がいてくれたから、頑張れた部分も大きいです」
離婚という共通の経験は、二人の間の壁を静かに取り払った。失敗から学んだこと、一人で生きていくことの覚悟、そして、時折訪れるどうしようもない孤独。どちらからともなく、そんな話をした。
「離婚した理由を聞いてもいいですか」と明美が尋ねると、佐藤は少し間を置いてから答えた。
「仕事にのめり込みすぎたんです。当時は今の会社に入りたてで、がむしゃらに働いていました。妻との時間を、後回しにし続けてしまって。気づいた時には、もう取り返しのつかないところまで来ていました」
その言葉には、後悔の色が滲んでいた。誰にでも起こりうる、しかし当人にとっては痛切な過去。明美は自分自身の離婚の経緯とは違う形の後悔があることを知り、人それぞれの傷の形について、改めて考えさせられた。誰しもが、それぞれの後悔を抱えながら、それでも前を向いて日々を積み重ねている。目の前の佐藤という人物もまた、そうした一人なのだと思うと、明美は彼への親近感が、また一段と深まるのを感じた。
「私の場合は逆でした。夫が家庭のことに関心を持たなさすぎて、それで駄目になったので」
「なるほど。私とは正反対ですね。私は仕事に関心を持ちすぎて、駄目になった」
「どちらにしても、バランスって難しいものですね」
「本当に。ちょうどいい距離感というのは、失ってから初めて分かるものなのかもしれません」
二人はしばらく黙って、それぞれのグラスを傾けた。過去の話をしても、湿っぽくなりすぎないのは、お互いにその痛みを、すでにある程度消化しているからなのだろう。明美はそんな風に感じていた。
「今でも、後悔してますか」
「後悔というより……もう一度誰かと向き合うときは、同じ過ちは繰り返したくないと、いつも思っています。でも、それがどれだけ難しいことか、身に染みて分かっているつもりです」
佐藤のユーモアは、決して人を傷つけない、自分自身に向けられた優しいものだった。彼の話を聞いていると、明美は自然と笑顔になっていた。
「佐藤さんって、面白い方なんですね」
「そうですか? よく、つまらない男だと言われますが」
彼はそう言って、照れたように頭を掻いた。その仕草に、明美は思わず胸が温かくなるのを感じた。
料理が運ばれてくるたびに、会話は途切れることなく続いた。佐藤は横浜という街への愛着を、熱っぽく語ってくれた。
「私、実は横浜生まれの横浜育ちなんです。子供の頃は、山下公園でよく凧揚げをしてました」
「そうなんですか。私はずっと東京の下町育ちで、横浜に来たのは結婚してからなので、まだまだこの街のことを知らないことばかりです」
「じゃあ、今度お勧めの場所を案内させてください。地元民しか知らないような、いい場所がいくつかあるんです」
その誘いに、明美は素直に頷いた。仕事の話にも花が咲いた。明美が貿易事務の仕事でどれほど神経を使うか、細かいミスが取り返しのつかない損失に繋がりかねないことを話すと、佐藤は感心したように聞き入っていた。
「田中さんの仕事、聞いているだけで胃が痛くなりそうです。責任重大ですね」
「毎日、綱渡りみたいなものですよ。でも、それが性に合ってるのかもしれません」
「分かります。私も、店舗のトラブル対応をしていると、綱渡り感がありますから。この間だって——」
佐藤は苦笑いしながら、担当店舗で起きた在庫管理のトラブルについて、身振り手振りを交えて話してくれた。深刻な内容のはずなのに、彼の話し方には、聞く者を和ませるユーモアがあった。明美は久しぶりに、声を出して笑った。
「佐藤さんと話してると、なんだか肩の力が抜けます」
「それは光栄です。田中さんこそ、真面目な話の中にも、ちゃんと自分の意見を持ってらっしゃって、話していて飽きません」
こうした何気ない言葉のやり取りひとつひとつが、明美の中に積み重なっていく。誰かと過ごす時間が、これほど心地よいものだったことを、明美はほとんど忘れかけていた。
この人は、自分を大きく見せようとしない。格好つけたり、無理をしたりしない。ただ、ありのままの自分でそこにいる。離婚を経て、人間関係の複雑さや見栄の虚しさを知った者同士だからこそ感じられる、心地よい安心感がそこにはあった。
恋愛小説で描かれるような、劇的な出会いや燃え上がるような情熱ではない。日常の片隅で偶然隣り合わせた二人が、静かに言葉を交わすうちに、ゆっくりと心を通わせていく。以前、何かの物語でそんな話を読んだ記憶が、明美の頭の片隅をかすめた。誰の、何という作品だったかは思い出せない。ただ、その静かな筋書きが、今、目の前で自分自身の身に起きているような、不思議な感覚があった。穏やかで、けれど確かな何かが、二人の間に芽生え始めていた。
食事を終え、店の外に出ると、横浜の夜風が心地よかった。潮の匂いを含んだ風が、二人の間を通り抜けていく。
「今日は、本当にごちそうさまでした。楽しかったです」
「こちらこそ。誘っていただいて、嬉しかったです」
「また、こうしてお話しできたら嬉しいのですが」
佐藤がそう言ったのを聞いて、明美は一瞬、心臓が跳ねるのを感じた。
「私も、そう思います」
その返事に、佐藤は柔らかく微笑んだ。駅までの道を並んで歩く。ただそれだけのことが、明美には何年も忘れていた、新鮮なときめきを与えていた。夜の横浜の街灯が、二人の影を長く伸ばしている。歩調はどちらからともなく合わせられ、時折肩が触れそうになるたび、明美は小さく心臓が跳ねるのを感じた。改札の前で別れる時、佐藤は小さく手を振った。
「由奈さんに、よろしくお伝えください」
「はい、必ず」
彼の背中が人混みに紛れて見えなくなるまで、明美はその場に立ち尽くしていた。帰りの電車の中、窓に映る自分の顔が、いつもより少しだけ明るく見える気がした。この夜のことを、由奈にどう説明しようか。そんなことを考えながら、明美は久しぶりに、心が浮き立つような感覚を味わっていた。
翌朝、リビングに顔を出した由奈は、明美の顔を見るなり目を丸くした。
「お母さん、なんか顔色いいね。昨日、誰かとご飯だっけ」
「うん、佐藤さんに、この間のお礼をしてきた」
「へえ、どうだった?」
由奈は興味津々といった様子で、朝食のテーブルに身を乗り出してきた。明美は言葉を選びながら、昨夜の食事がどれほど和やかなものだったかを、努めてさりげなく話した。だが、隠しきれない上機嫌さは、由奈にはお見通しだったらしい。
「お母さん、めちゃくちゃ楽しかったんでしょ、顔に書いてあるよ」
「そんなことないよ」
「嘘、絶対そう。まあ、いいことだと思うけどね」
由奈はそう言うと、それ以上追及することなく、パンを頬張りながらテレビの方に視線を移した。その素っ気なさが、かえって明美には心地よかった。詮索されすぎず、それでいて確かに見守られている。その絶妙な距離感が、この母娘の間には自然と築かれていた。
食卓に差し込む朝の光を浴びながら、明美は自分の胸の内で、何かが確かに動き始めているのを感じていた。それが何という名前の感情なのか、まだはっきりと言葉にすることはできなかったが、少なくとも、これまでの十年余り、感じたことのない類のものであることだけは、確かだった。
由奈が学校へ出かけた後、明美は一人でコーヒーを淹れ、ベランダから見える街並みを眺めた。空はよく晴れていて、遠くに横浜方面の高層ビル群が霞んで見える。あの街のどこかに、今日も佐藤は店舗を回っているのだろう。そんな他愛のない想像をしている自分に気づき、明美は思わず苦笑した。四十七年生きてきて、こんな風に誰かのことを思って一日を始めるのは、一体何年ぶりのことだろうか。
出勤の支度をしながら、明美は鏡に映る自分の顔を、いつもより少し丁寧に見つめた。特に変わったところなど何もないはずなのに、心なしか、表情に柔らかさが増しているように感じられる。長年、感情を表に出さないことを自分に課してきた明美にとって、それは小さな、しかし確かな変化だった。玄関で靴を履きながら、明美は今日一日を、少しだけ軽い足取りで歩き出せそうな予感を覚えていた。空を見上げると、澄み渡った青が、どこまでも高く広がっていた。今日という一日も、きっと悪くない一日になるはずだと、明美は静かに確信していた。駅までの道を歩きながら、明美は口元に、自分でも気づかないうちに小さな笑みを浮かべていた。すれ違う人々の誰も、その変化には気づかなかったが、明美自身にとっては、確かな一歩だった。




