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潮風のプレリュード  作者: 久遠 睦


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第四章 見知らぬ人の優しさ

会社の最寄り駅からみなとみらい駅までは、急行でも四十分ほどかかる。電車の窓に映る自分の顔は、血の気が引いて青ざめていた。心臓の鼓動が耳元でうるさく響く。最悪の事態ばかりが頭をよぎり、明美は固く目を閉じた。

みなとみらい駅の改札を抜け、足早に「ポートテラス」へと向かう。指定されたカフェは、ガラス張りの開放的な空間で、金曜の夕方ということもあって多くの客で賑わっていた。店の入り口で待っていたのは、電話の主である佐藤だった。

店内には夕方らしい賑わいがあり、学生グループや仕事帰りらしいビジネスパーソンが、思い思いにカップを傾けている。その平和な光景の中で、明美だけが息を切らし、額に汗を浮かべていた。周囲の視線が一瞬こちらに集まったのを感じ、明美は慌てて呼吸を整えようとしたが、うまくいかなかった。

「田中さんですね。お待ちしておりました。こちらへどうぞ」

佐藤は、スマートカジュアルな服装の、明美より少し年上に見える男性だった。穏やかな目元に、心労を隠しきれないような微かな翳りが見える。声から想像していた通りの、落ち着いた佇まいの人だった。想像していたよりも、少し柔らかい印象を受ける。厳しいエリアマネージャーというよりは、どこか懐の深い、頼れる兄のような雰囲気があった。

「先ほどはお電話で、突然失礼しました。佐藤です」

「田中です。この度は、娘がご迷惑をおかけして……」

「いえ、とんでもない。まずは由奈さんの顔を見てあげてください」

彼の案内に従い、スタッフ専用の通路を通って休憩室へ入ると、ソファに横たわる由奈の姿があった。

「お母さん……」

由奈は顔色が悪かったが、意識ははっきりしていた。明美は娘のそばに駆け寄り、その額にそっと手を当てる。熱はない。安堵のため息が漏れた。

「大丈夫? どこか痛いところは」

「ちょっとふらついただけだよ。大袈裟にしないで、お母さん」

由奈は照れくさそうに、それでいてどこかバツの悪そうな顔で答えた。娘のその強がりに、明美は胸が締めつけられる思いがした。心配をかけまいとする気遣いが、かえって明美の胸を痛くさせる。

「大袈裟とかじゃなくて、心配するのは当たり前でしょう。倒れたって聞いて、生きた心地がしなかったんだから」

由奈は少し目を伏せた。ソファの上で膝を抱えるようにして座り直すと、ぽつりぽつりと今日の出来事を話し始めた。

「今日、朝からずっとレジ打ってて。お昼休憩も、新人の子のシフトが被ってて、私が代わりに教えなきゃいけなくて、結局あんまり食べられなくて」

「ご飯、ちゃんと食べてなかったの?」

「パン、半分だけ。急に目の前が真っ暗になって、気づいたらここに寝かされてた」

由奈の言葉に、明美は言葉を失った。忙しさを言い訳にせず、後輩の面倒まで見ようとする娘の責任感は誇らしい。だが、その責任感が、自分の体を後回しにする形で発揮されてしまったことに、明美は胸が痛んだ。

「明日からは、無理せずちゃんと休憩取りなさい。分かった?」

「うん……ごめん」

由奈がぽつりと謝ると、それまで気丈に振る舞っていたその声が、初めて少し震えた。明美は娘の背中をそっとさすりながら、傍らに控えていた佐藤に向き直った。

佐藤は改めて、自分がこの店の店長ではなく、いくつかの店舗を統括するエリアマネージャーであること、たまたまこの店を訪れていた時に由奈が倒れたことを、電話で聞いた通りに、もう一度丁寧に説明してくれた。

「貧血のようでしたので、すぐに横にならせて、水分を摂ってもらいました。念のため救急車を呼ぶことも考えましたが、本人が大丈夫だと言うものですから」

「そうでしたか……本当に、迅速に対応していただいて」

「店長の中村さんが今日、体調を崩してお休みだったもので、私が代わりに現場の対応をさせていただきました。慣れない従業員の方々にも、ご負担をおかけしてしまって」

彼の対応は、実に的確で落ち着いていた。混乱するスタッフに指示を出し、他の客に動揺が広がらないよう配慮し、そして何より由奈を安心させてくれていた。その手際の良さに、明美はただただ頭が下がる思いだった。話を聞きながら、明美はふと、この人物が持つ独特の落ち着きの理由が気になった。ただの職業意識というだけでは説明のつかない、どこか人間としての深みのようなものが、その物腰から滲み出ていた。

休憩室の入り口から、由奈のシフトの同僚だという若いスタッフが顔を覗かせた。

「由奈さん、大丈夫ですか。びっくりしました……」

「大丈夫だよ、心配かけてごめんね」

由奈が気丈に微笑むと、そのスタッフはほっとした表情を浮かべ、佐藤に一礼して仕事に戻っていった。その一連のやり取りを見ながら、明美は娘が職場で愛されている様子を垣間見て、少し救われる思いがした。忙しさの中にも、由奈なりの居場所と人間関係が、この店には確かに存在していた。

「佐藤さん、他のお客様への対応も含めて、本当にありがとうございました。私が来るまでの間、由奈がこんなにも丁寧に見ていただけていたなんて」

「いえ、当然のことをしたまでです。うちのスタッフが、お客様の前で倒れてしまったわけですから、企業として当然の対応です」

そう言いながらも、彼の目には、業務的な義務感だけでは説明のつかない温かさが宿っていた。明美はその矛盾するような佇まいに、かえって強く惹きつけられている自分に気づいた。

「本当に、ありがとうございました。ご迷惑をおかけして、申し訳ありません」

深々と頭を下げる明美に、佐藤は「いえ、とんでもない」と柔らかく首を振った。

「それより、お帰りはどうされますか? 電車で大丈夫ですか」

「はい、そのつもりですが……」

「もしよろしければ、車でお送りしますよ。私もこれから事務所に戻るだけですし、方向もそれほど違いませんから」

予期せぬ申し出に、明美は戸惑った。これ以上、見ず知らずの人に迷惑をかけるわけにはいかない。しかし、ぐったりとしている由奈を連れて満員の電車に乗って帰ることを考えると、彼の厚意はあまりにも魅力的だった。

「ですが、そんな……」

「遠慮なさらないでください。これも私の仕事のうちです。さあ、行きましょう」

彼の有無を言わせぬ穏やかな口調に、明美はそれ以上固辞することができなかった。休憩室を出る前、由奈が小さく耳打ちしてきた。

「お母さん、佐藤さんね、さっきまでずっと私の横にいて、水運んでくれたり、話しかけてくれたりしてたんだよ。すごく優しい人」

その言葉に、明美は改めて佐藤の姿を見つめた。エリアマネージャーという立場であれば、事務的に対応を指示するだけでも十分だったはずだ。それでも彼は、見ず知らずのアルバイトの高校生に、自らそばに寄り添って声をかけ続けてくれていた。その事実が、明美の中で佐藤という人物への印象を、確かなものへと変えていった。

駐車場へ向かう道すがら、佐藤は由奈の荷物を持ってくれた。彼の車は、派手さはないが手入れの行き届いた国産車だった。後部座席で由奈を気遣いながら、明美は助手席に座る。車内には、ほのかなコーヒーの香りが漂っていた。

「シートベルト、締めましたか。由奈さん、気分が悪くなったらすぐに言ってくださいね」

「はい、大丈夫です」

由奈が答えるのを確認してから、佐藤はゆっくりと車を発進させた。運転する彼の横顔を、明美は助手席からそっと窺う。信号待ちの間、彼はカーナビの画面を確認しながら、明美に道順を尋ねた。

「日吉方面でよろしかったでしょうか」

「はい、日吉駅の近くです。本当にお手数をおかけして」

「いえ、この時間なら道も混んでいませんし、大した距離でもありませんから」

車内での会話は、最初こそぎこちなかったが、次第にほぐれていった。佐藤は、由奈が普段どんな様子でアルバイトをしているかを、いくつかのエピソードを交えて話してくれた。新人の子に丁寧に仕事を教えていること、常連客に名前を覚えられて可愛がられていること。明美の知らない、娘の職場での顔だった。

「由奈さん、しっかりしてますよ。お母さん譲りなんでしょうね」

「そんな、私は特に……」

「いえ、しっかりした娘さんを育てるのは、簡単なことではありません。私も仕事柄、いろいろな若いスタッフを見てきましたが、由奈さんのような子は、なかなかいませんよ」

その言葉に、明美は驚いて彼の横顔を見た。何気ない世間話のようでいて、その言葉には確かな観察と、誠実さが込められているように感じられた。お世辞を言い慣れた軽薄さとは、明らかに違う響きがあった。

「佐藤さんは、いくつの店舗を見てらっしゃるんですか」

明美は少し勇気を出して尋ねてみた。

「今は八店舗ですね。みなとみらいと横浜駅周辺が中心です。多い時は一日に三店舗回ることもあります」

「大変なお仕事ですね」

「大変ですが、性に合ってるんだと思います。いろんな人と関わるのは嫌いじゃないので」

そう言って彼は小さく笑った。ハンドルを握る手つきは落ち着いていて、無駄がない。信号が赤に変わり、車が停止すると、佐藤はふと窓の外に目をやった。

「今日みたいなことがあると、正直、心臓に悪いですけどね。誰かのお子さんを預かっている、という緊張感を、こういう時ほど強く感じます」

その言葉には、単なる職業意識を超えた、何か個人的な重みが滲んでいるように、明美には感じられた。詳しく尋ねる勇気はなかったが、その一言だけで、彼が仕事に対してどれほど真摯に向き合っているかが伝わってきた。

みなとみらいのきらびやかな夜景が、少しずつ後方へ遠ざかっていく。後部座席では、由奈がいつの間にか、緊張が解けたのか静かに目を閉じている。窓の外を流れる港の灯りを眺めながら、明美は隣に座る見知らぬ男性の横顔に、もう一度視線を向けた。

思えば、この十年余り、明美はこんな風に見ず知らずの他人の車に乗ることなど、一度もなかった。人に頼ること、甘えることを、自らに禁じてきたはずだった。それなのに今、隣に座るこの男性の運転に身を委ねている自分がいる。その事実に、明美自身が一番戸惑っていた。不思議と、恐怖や警戒心は湧いてこなかった。むしろ、張り詰めていた気持ちが、少しずつ緩んでいくのを感じる。

「田中さんも、今日は大変でしたね。ご自身もお仕事中だったんでしょう」

「はい、会社を早退してきました」

「無理させてしまって、すみません」

「いえ、むしろ、佐藤さんが対応してくださらなかったら、もっと大変なことになっていたと思います」

そんな他愛のない会話を交わしながらも、明美の心の中では、何か新しい感情の芽が、確かに息づき始めていた。この見知らぬ男性の優しさが、張り詰めていた明美の心を少しずつ解きほぐしていくのを感じていた。

車が日吉に近づくにつれ、由奈が目を覚まし、後部座席から身を乗り出すようにして言った。

「佐藤さん、今日は本当にありがとうございました。あと、送っていただいてすみません」

「いえいえ、お大事にしてくださいね。来週、お店でまた会えるのを楽しみにしています」

「はい。ちゃんと元気になって、シフト入ります」

由奈の元気な声に、佐藤は目を細めて頷いた。その様子を助手席から眺めながら、明美は改めて、この人が単なる仕事上の義務感だけで動いているのではないことを確信した。

日吉のアパートに到着すると、佐藤は車を降り、由奈が部屋まで歩けることを確認してから、明美に深く頭を下げた。

「今日は大変でしたね。由奈さんのこと、どうぞゆっくり休ませてあげてください」

「本当に、何とお礼を申し上げればいいか……」

「お礼なんて。それより、由奈さんが元気になられることを、心から願っています」

そう言うと、佐藤は名刺を一枚差し出した。

「何かあれば、いつでもご連絡ください。それでは、失礼いたします」

彼の車が走り去るのを見送りながら、明美は手の中の名刺をじっと見つめた。「佐藤悠一」という名前の下に、携帯電話の番号が印刷されている。この一枚の紙切れが、これから自分の人生をどれほど大きく変えることになるのか、この夜の明美には、まだ知る由もなかった。

部屋に戻ると、由奈はすぐにベッドに横になった。明美は簡単な粥を作り、鉄分を多く含む食材を使ったおかずを添えて由奈の部屋へ運ぶ。

「無理して食べなくていいから、少しだけでも」

「うん、ありがとう」

由奈は起き上がり、ゆっくりと粥を口に運んだ。その様子を見守りながら、明美は改めて、今日という日の重さを噛み締めていた。娘の体調不良という、決して喜ばしくない出来事をきっかけに、見ず知らずの他人の優しさに触れることになった。人生というのは、思いがけない形で新しい何かを運んでくることがあるのだと、明美は柄にもなくそんなことを考えた。

由奈が食事を終えて再び眠りにつくと、明美はリビングに戻り、ソファに深く腰を下ろした。手の中の名刺を、もう一度眺める。「何かあれば、いつでもご連絡ください」という彼の言葉が、耳の奥に残っていた。お礼の連絡くらいはするべきだろう、と明美は思う。ただの社交辞令なのか、それとも本当にそう思ってくれているのか、その判断すら、今の明美にはつかなかった。

窓の外では、金曜の夜の街の灯りが、いつもと変わらず瞬いていた。だが、その灯りを見つめる明美の心の中には、これまで感じたことのない、小さな熱のようなものが灯り始めていた。

明美はスマートフォンを取り出し、名刺に書かれた番号を、そっと連絡先に登録した。「佐藤悠一様」と入力し、保存ボタンを押す。それだけの、何でもない作業のはずだったのに、指先が微かに緊張しているのが自分でも分かった。すぐにメッセージを送る勇気はまだなかった。ただ、その番号が自分のスマートフォンの中に存在しているという事実だけで、今夜の明美には十分だった。

ソファに深くもたれかかり、明美は天井を見上げた。今日一日で起きた出来事の大きさに、頭がまだ追いついていなかった。由奈が倒れたという恐怖、佐藤という見知らぬ男性の優しさ、そして自分でも説明のつかない、胸の奥のかすかな高鳴り。それら全てが一度に押し寄せてきて、明美はしばらくの間、ただじっと目を閉じていた。時計の針が時を刻む音だけが、静まり返った部屋に響いていた。明日からまた、いつも通りの日常が始まる。仕事に行き、由奈を見送り、家事をこなす。それでも、今日という一日を経た自分は、もう昨日までの自分とは、どこか違う場所に立っているような気がした。名刺に書かれた文字を、明美はもう一度だけ指先でなぞってから、財布の奥へと丁寧にしまい込んだ。それは、まるで大切な宝物を隠すような、そんな慎重な仕草だった。財布を閉じ、テーブルの上にそっと置くと、明美はもう一度、深く息を吐いた。今日という一日の重さを、体全体で受け止めるような、そんな長い息だった。


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