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潮風のプレリュード  作者: 久遠 睦


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第三章 港からの電話

金曜日の午後三時。明美は会社のデスクで、山積みの通関書類と格闘していた。モニターに映し出された数字とアルファベットの羅列を、鋭い集中力で追いかける。今週ずっと気にかけていた原産地証明の食い違いも、取引先からの回答でようやく解消の目処が立ち、明美は珍しく肩の力を抜いていた。

午前中は取引先とのオンライン会議が二件入っており、明美はいつも以上に神経を張り詰めていた。フランクフルトの仕入れ先とのやり取りでは、時差の関係で早朝から資料を準備しなければならず、昼前にはすでに一日分の仕事を終えたような疲労感があった。それでも、懸案だった原産地証明の件が片付いたことで、午後からは幾分か気持ちに余裕が生まれていた。

デスクの上のマグカップに残ったコーヒーはすっかり冷めていたが、明美はそれを飲み干しながら、来週提出予定の月次報告書の骨子をまとめ始めた。輸入数量、通関にかかった日数、コストの内訳。数字を並べていく作業は、明美にとって一種の瞑想のようなものだった。感情を交えず、ただ事実だけを積み上げていく。その単純さが、彼女には心地よかった。

「田中さん、来週の月曜の便、無事に通関できそうですね」

隣の席の村上が声をかけてくる。

「うん、良かった。土日はゆっくりできそう」

「田中さん、いつも土日も由奈ちゃんのことでバタバタしてるイメージですけど」

「否定はできないかな」

明美は苦笑しながら答えた。窓の外は、金曜特有の浮ついた空気が漂っている。同僚たちの何人かは、すでに週末の予定について話し込んでいた。明美にとって週末とは、家事と休息の入り混じった、いつも通りの時間でしかなかったが、それでも今日は、心なしか気持ちが軽かった。

そのとき、ポケットに入れていたスマートフォンのバイブレーションが静かに震えた。ディスプレイに表示されたのは、見慣れない番号だった。

普段なら仕事中に私用の電話に出ることはない。営業部からの問い合わせかもしれないとも思ったが、市外局番でも会社の代表番号でもない、見慣れない携帯電話の番号だった。だが、なぜか胸騒ぎがして、彼女は席を立ち、給湯室へと向かった。

壁に体を寄せかけながら、明美は通話ボタンをタップした。心臓が早鐘を打っている。悪い予感というのは、こういうときほど的中するものだ、と頭のどこかで冷静に考えている自分がいた。同時に、由奈に限ってそんなことはあるはずがない、という根拠のない楽観も、心の片隅で押し合いへし合いしていた。

「もしもし、田中です」

「突然のお電話失礼いたします。私、娘さんのアルバイト先の、『ポートテラス』に入っているカフェの者で、佐藤と申します」

落ち着いた、それでいて少し緊張をはらんだ男性の声だった。明美の心臓がどくん、と大きく鳴った。佐藤――由奈の口から聞いたことのない名前だった。そんな些末な疑問が一瞬頭をよぎったが、それどころではなかった。

「由奈が、どうかしましたか?」

声が思わず大きくなる。給湯室に居合わせた別部署の社員が、驚いたようにこちらを振り返った。明美は慌てて声のトーンを落とし、廊下の隅へと移動した。

「落ち着いて聞いてください。先ほど、由奈さんがシフト中に倒れられまして。今は意識も戻り、店の休憩室で休んでいらっしゃいます。ご安心ください」

佐藤と名乗る男性は、冷静かつ的確に状況を説明した。彼の声には、人を安心させる不思議な響きがあった。しかし、明美の頭の中は真っ白になっていた。

「倒れたって……どこか怪我は。意識がなかった時間は、どれくらい」

「怪我はないようです。意識を失っていたのは、ほんの十数秒程度かと。ただ、念のため専門の方に見ていただいた方がいいかもしれません」

「専門の方って、それは……」

「病院で診ていただいた方が、という意味です。……あ、申し遅れました。私はこの店の店長ではなく、近隣のいくつかの店舗を担当しているエリアマネージャーです。店長が本日お休みをいただいておりまして、たまたま視察で伺っていた私が、代わりにご連絡しております」

その言葉で、明美はようやく合点がいった。由奈が話していた「視察に来る偉い人」というのは、この佐藤という人物のことだったのだ。こんな形で顔も知らない相手と繋がることになるとは、想像もしていなかった。

「そうでしたか……すみません、動転してしまって。由奈の様子を、もう一度詳しく教えていただけますか」

由奈が倒れた。その事実だけが、警報のように鳴り響く。最近、ダンスの大会が近いと言って、朝早くから夜遅くまで練習に打ち込んでいた。アルバイトも新しいシフトを任されたと張り切っていた。そういえば、昨日の朝食も「時間がないから」と、ほとんど口にしていなかった。今週火曜の夕食でも、由奈の顔色がいつもより白いように見えたが、忙しさのせいだろうと気にも留めなかった。

「私は医者ではありませんので断言はできませんが、ふらつき方からすると貧血かもしれません。このところ休憩もあまり取れていなかったようです。本人は『大丈夫、ちょっとふらついただけ』と申しておりますが、顔色があまり良くありません」

貧血。部活とアルバイトの疲れに、食事の不足が重なったのだろうか。なぜもっと気をつけて見てやれなかったのか。後悔の念が押し寄せる。仕事にかまけて、娘の些細な変化を見落としていたのではないか。母親失格だという声が、頭の中で反響する。

思い返せば、この一週間、由奈には小さな変化がいくつもあった。月曜の朝、いつもは残さない朝食のご飯を半分ほど残していたこと。水曜の夜、階段を上るときに一瞬、手すりに寄りかかるようにしていたこと。木曜には、大会用の衣装を見せてくれた時の笑顔が、心なしかいつもより力なく見えたこと。ひとつひとつは取るに足らない些細な出来事だったが、今こうして並べてみると、それは確かに体からのサインだったのだと、明美は思い知らされる。忙しさにかまけて、その一つ一つを見過ごしてきた自分を、明美は激しく責めた。

「大丈夫ですか、田中さん。顔色が」

佐藤の声が、電話の向こうで気遣うように尋ねてきた。明美が言葉を失っていることに気づいたのだろう。

「すみません、大丈夫です。ただ、少し……自分を責めてしまって」

「お気持ちは分かります。ですが、今は由奈さんのお顔を見て、安心させてあげることが一番だと思います。自分を責めるのは、その後でも遅くありません」

見ず知らずの相手からのその言葉が、驚くほど明美の心に染み込んだ。誰かにそんな風に、率直に、しかし優しく声をかけられたのは、いつ以来だろうか。

「すぐに、向かいます」

震える声でそう言うのが精一杯だった。

「承知いたしました。お待ちしております。くれぐれも、慌てずにお越しください。由奈さんは意識もはっきりしていますし、今は横になって水分も摂っていただいておりますので」

電話の向こうで、佐藤は最後まで冷静だった。彼のその落ち着きだけが、パニックに陥りそうな明美をかろうじて繋ぎとめていた。

「あの……本当に、申し訳ありません。ご迷惑をおかけして」

「いえ、こちらこそ、突然のお電話で驚かせてしまい申し訳ございません。田中さんが到着されるまで、私が付き添っております。どうぞご安心を」

「ありがとうございます……あの、お名前をもう一度」

「佐藤です。佐藤悠一と申します」

その名前を頭に刻みつけると、明美は電話を切った。手が微かに震えている。すぐさま由奈のスマートフォンに電話をかけ直したが、案の定、応答はなかった。休憩室で横になっているのだから当然だと分かっていても、呼び出し音が虚しく鳴り続ける間、明美の不安はさらに膨らんだ。深呼吸を一つしてから、自分のデスクへと戻った。

「田中さん、顔色悪いですけど、大丈夫ですか」

村上が心配そうに声をかけてくる。

「由奈が、バイト先で倒れたって連絡があって。これから早退させてもらえるかな」

「もちろんです。あとのことは気にせず、行ってあげてください」

明美は上司の元へ向かった。課長の高田は書類から顔を上げ、明美の様子を一目見るなり、事情を察したように立ち上がった。

「田中さん、どうしました。顔色が真っ青ですよ」

「娘が、アルバイト先で倒れたと連絡がありまして……申し訳ございません、早退させていただけますでしょうか」

「もちろんです。お子さんのことが最優先ですよ。月曜の書類は、村上さんと私で何とかしますから、田中さんは今日はもう気にしないでください」

高田の言葉に、明美は深く頭を下げた。長年この会社で真面目に働いてきたことが、こういう瞬間に周囲の信頼として返ってくるのだと、皮肉にも今、実感させられていた。ただ、その安堵する気持ちの奥底では、由奈のことへの心配が渦を巻き続けている。デスクの上の書類を最低限片付け、コートを掴んで、明美はオフィスを飛び出した。

エレベーターホールで待つ間、村上が追いかけてきて、明美の肩に軽く手を置いた。

「田中さん、月曜の報告書のことは気にしないでください。私の方でできるところまで進めておきますから」

「ありがとう、村上さん。恩に着る」

「由奈ちゃん、大したことないといいですね」

村上の言葉に、明美は無言で頷くことしかできなかった。エレベーターの扉が開き、乗り込んだ瞬間、扉に映る自分の顔が、驚くほど青ざめているのに気づいた。こんな顔で由奈の前に現れたら、かえって娘を不安にさせてしまう。明美は扉が閉まる直前、深く息を吸い込み、頬を軽く両手で叩いた。しっかりしなければならない。今、取り乱していい立場にはない。

エレベーターを待つ間も、階段を駆け下りている間も、頭の中では最悪の想像ばかりが渦巻いていた。もし本当に重い病気だったら。もし自分が気づいていれば、防げたことだったら。由奈が生まれてからずっと、明美は「何かあったらすぐに気づける母親でいよう」と心に決めてきた。その決意が、今、音を立てて崩れていくような感覚があった。

会社のビルを出ると、外は西日がビルの谷間をオレンジ色に染め始めていた。金曜の午後三時半、駅へと向かう人波を掻き分けるようにして、明美は改札へと急いだ。ヒールの音が舗道に響く。走ることに慣れていない体は、すぐに息が上がったが、それでも足を止めるわけにはいかなかった。信号待ちのわずかな時間さえもどかしく、明美は青信号に変わった瞬間、小走りで横断歩道を渡った。

すれ違う人々は皆、いつもと変わらない金曜日の夕方を過ごしている。仕事帰りに一杯飲みに行くのだろう会社員のグループ、待ち合わせをしているらしいカップル、部活帰りの学生たち。その平和な光景の中を、明美だけが違う速度で、違う焦燥感を抱えて歩いていた。スマートフォンを取り出し、由奈に「今向かってるから」とメッセージを送る。既読はつかなかった。当然だ、由奈は今、横になって休んでいるのだから。分かっていても、既読のつかない画面を見つめる時間が、ひどく長く感じられた。

改札を抜け、ホームに降り立つと同時に、電車がちょうど到着するアナウンスが流れた。明美は逃げるようにその電車に乗り込み、扉が閉まる音に、ようやく詰めていた息を吐き出した。窓の外を流れる景色を眺めながら、明美は自分に言い聞かせる。佐藤という男性は、意識ははっきりしていると、繰り返し伝えてくれた。大丈夫だ、きっと大丈夫だ。そう自分に言い聞かせながらも、心臓の鼓動はいつまでも収まらなかった。

電車が次の駅に停車するたび、明美は無意識に路線図を目で追った。目的地までの距離が、これほどもどかしく感じられたのは、いつ以来だろうか。由奈が幼い頃、高熱を出して救急外来に駆け込んだ夜のことを、ふと思い出す。あの夜、由奈はまだ三歳だった。真夜中に突然四十度近い熱を出し、明美は寝間着のまま由奈を抱きかかえてタクシーを呼んだ。夫はその夜も出張で家を空けていて、頼れる人は誰もいなかった。タクシーの中で、由奈の小さな体がぐったりと熱を帯びているのを感じながら、明美はただひたすら「お願いだから、大丈夫でいて」と祈り続けた。結果的にはただの夏風邪だったが、あの夜に感じた孤独と恐怖は、今でも体のどこかに刻み込まれている。

あれから十年以上が経ち、由奈はもう自分と変わらない背丈になったというのに、母親としての焦りと恐れは、あの頃と何も変わっていなかった。子供がどれだけ成長しても、母親という立場から完全に自由になれる日は、きっと来ないのだろう。窓の外を流れる横浜の街並みを眺めながら、明美はぼんやりとそんなことを考えていた。ビルの隙間から見える港の水面が、傾き始めた陽光を受けて、鈍い金色に光っていた。いつも見慣れているはずの通勤路の景色が、今日はやけに遠く、そして頼りなく感じられた。改札を出て駅前の広場を横切る間も、明美の頭の中は由奈のことでいっぱいだった。周囲の喧騒すら、どこか遠くの出来事のように感じられる。

乗り換えなしでみなとみらいまで直通する急行に乗れたのは、せめてもの幸いだった。あと十五分ほどで到着する。その十五分が、今の明美には途方もなく長い時間に感じられた。隣に座る学生らしき若者が、イヤホンから漏れる音楽に合わせて小さく体を揺らしている。その何気ない日常の光景と、自分の胸の内で渦巻く不安との落差に、明美は一瞬、めまいにも似た感覚を覚えた。

見知らぬ「佐藤悠一」という名前が、頭の片隅にぼんやりと残っている。娘の一大事に、見ず知らずの他人の名前を覚えている自分を、明美は場違いだと思いながらも、その落ち着いた声の記憶だけが、今の彼女にとって唯一の支えになっていた。「自分を責めるのは、その後でも遅くありません」という彼の言葉が、電車の走行音に紛れながらも、何度も頭の中で繰り返された。

見ず知らずの他人からかけられた、たったそれだけの言葉に、どうしてこんなにも心を掴まれるのだろう。明美は自分でも不思議に思いながら、窓の外を流れる景色に目をやった。日吉を過ぎ、綱島、大倉山、菊名と、見慣れた駅名が次々と後方へ流れていく。この路線を、明美はもう二十年近く利用している。通勤、由奈の通院、実家への帰省。数え切れないほどの目的で乗ってきたこの電車で、これほどまでに胸が締めつけられる思いをしたのは、久しぶりのことだった。

横浜駅を過ぎ、電車がみなとみらい線へと入っていくのが分かった。トンネルの中を走る車内の照明が、いつもより白く、冷たく感じられる。あと数分で、由奈のいる場所に着く。明美は膝の上で拳を握りしめ、到着のアナウンスをじっと待った。

スマートフォンの画面を、また何度も確認する。既読はまだつかない。それでも、着信履歴に残った「佐藤悠一」という文字を見つめていると、不思議と少しずつ呼吸が整っていくのを感じた。まだ一度も顔を合わせたことのない相手の存在が、この瞬間の明美にとって、これほど大きな支えになるとは思ってもみなかった。


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― 新着の感想 ―
3話まで読みました。 明美にとって日曜日が「休日」ではなく、次の一週間を回すための整備日になっているところが印象に残りました。 由奈から再婚の話をされてもすぐ前向きになれるわけではなく、これまで築いて…
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