第二章 投げかけられた問い
火曜日の夜、食卓には珍しく二人の姿があった。高校二年生の由奈は、ダンス部の練習とアルバイトでいつも忙しく、平日の夜に母娘でゆっくり食事をする時間は貴重だった。
「今日の練習、新しい振り付けがめっちゃ難しくてさ」
由奈はスマートフォンの画面をスクロールしながら、今日の出来事を報告する。彼女が所属するダンス部は、校内でも特に人気があり、練習も厳しい。それに加え、週に三日は「ポートテラス」に入っているお洒落なカフェでアルバイトをしていた。現代の高校生らしい、エネルギッシュで充実した毎日だ。
「振り付け、どのあたりが難しいの」
「サビの後の八カウントが、テンポ速いのに動きが細かいの。今日、三回くらい間違えて怒られた」
「怒られたって、先生に?」
「先輩。二年になってから、後輩の面倒見なきゃいけない立場だから、余計に厳しく言われる」
由奈はそう言いながらも、どこか誇らしげだった。後輩から頼られる立場になったことが、彼女なりの手応えになっているのだろう。明美は娘の話に相槌を打ちながら、味噌汁をすする。自立心旺盛で、自分の世界をしっかりと持っている娘を頼もしく思う反面、その距離感が少しだけ寂しいと感じる時もある。数年前までは学校での出来事を一から十まで報告してくれていたのに、今では聞かれたことにだけ答える、というやり取りが増えていた。それが成長というものなのだと分かってはいても、寂しさが完全に消えるわけではなかった。
「アルバイトの方はどう。新しいシフト、大変じゃない?」
「大丈夫。店長さん優しいし、他のバイトの子ともうまくやれてる。あ、そういえば」
由奈がふと顔を上げ、思い出したように言った。
「エリアマネージャーの人が今度、うちの店にも視察に来るんだって。他の店舗もいくつか回ってるみたいで、店長さんがちょっとピリピリしてる」
「エリアマネージャー」
「なんか、複数の店舗をまとめて見てる偉い人。私はまだ会ったことないんだけど、すごくちゃんとした人らしいよ」
明美はその話を聞き流しながら、次の話題へと箸を進めた。まさかその数日後、自分がその人物と直接顔を合わせることになるとは、この時の明美には知る由もなかった。
不意に、由奈が顔を上げた。スマートフォンの画面から目を離し、真っ直ぐに明美を見つめる。
「ねえ、お母さん。再婚とかしないの?」
その問いは、何の脈絡もなく、まるで天気の話でもするかのように軽やかに放たれた。悪意など微塵もない、純粋な好奇心から生まれた言葉だと分かっていた。だが、明美の心には小さな石が投げ込まれたような波紋が広がった。日曜日に佐々木から似たようなことを言われたばかりだったこともあり、その波紋はいつもより大きく感じられた。
「どうして急にそんなこと」
箸を持つ手が、一瞬止まる。声が上ずらなかったことに、明美は内心で安堵した。
「いや、別に。この間話した美咲のお母さんの件もあるし、あとクラスでちょっとその話題になって。みんな、親が再婚するのってどう思うか、みたいな」
「それで、由奈はどう答えたの」
「私? 私は……お母さんが幸せならいいんじゃない、って言った。そしたら『理想の娘すぎる』って笑われた」
由奈は照れくさそうに笑いながら、味噌汁の椀に口をつけた。その屈託のない表情に、明美は胸の奥が締めつけられるような感覚を覚える。娘は、母親が思っている以上に、母親のことをちゃんと見ていた。
明美は箸を置き、穏やかな笑みを浮かべて答えた。
「相手もいないし、それに、お母さんは由奈と二人がいいの」
それは嘘ではなかった。この静かで満ち足りた生活を、何よりも大切に思っている。しかし、その言葉は同時に、彼女の心の奥底にある本音を隠すための盾でもあった。四十代も後半になり、恋愛というものからすっかり遠ざかっていた。離婚の傷が癒えていないわけではない。ただ、新しい関係を築くことの面倒くささと、それに伴う感情の揺れ動きを想像するだけで、疲労感を覚えてしまうのだ。今の平和を乱されるくらいなら、一人の方がずっといい。そう自分に言い聞かせ、心の扉には何重にも鍵をかけてきた。
由奈は箸を置き、少し考えるような顔をしてから、また口を開いた。
「私さ、お父さんのこと、もうほとんど覚えてないんだよね。小さい頃の記憶って、ぼんやりしてて。だから、お母さんが誰かと再婚しても、私、複雑な気持ちにはならないと思う。むしろ、お母さんがずっと一人でいる方が、私は気になる」
「気になるって、どういうこと」
「なんていうか……お母さんが自分のこと、後回しにしすぎてる気がする。私のために頑張ってくれてるのは分かるけど、それでお母さんの人生が犠牲になってるんだとしたら、それは私にとっても嬉しいことじゃないよ」
娘の口から出た言葉とは思えないほど、それは的確で、大人びた指摘だった。明美は一瞬、返す言葉を失う。由奈は、明美が思っている以上に、母親の人生をひとつの独立したものとして見つめていた。
「由奈がそんなこと考えてるなんて、知らなかった」
「まあ、普段は言わないからね。でも、この間の美咲の話聞いてから、ちょっと考えるようになった」
「ありがとう、そう言ってくれて。でも、お母さんは今の生活に不満なんてないよ。由奈と二人の毎日、ちゃんと楽しいと思ってる」
「それは分かってるよ。楽しいのと、それだけで十分満たされてるのは、また別の話だと思うけどね」
由奈はそう言うと、それ以上追及することなく、またスマートフォンの画面に視線を戻した。まるで、種を蒔くだけ蒔いて、あとは芽が出るのを気長に待つとでもいうような態度だった。その余裕のある振る舞いに、明美はいよいよ、娘の成長を実感せずにはいられなかった。
食卓には再び沈黙が訪れる。だが、その沈黙は先ほどまでの穏やかなものとは少しだけ質が違っていた。母と娘の間に、言葉にされない思いが横たわる、静かな夜だった。
夕食を終え、由奈が自室で宿題をすると言って席を立った後、明美は一人でキッチンの片付けをしながら、先ほどの会話を反芻していた。「お母さんが幸せならいい」という由奈の言葉。それは紛れもなく愛情からの言葉だったが、同時に明美に、自分がこれまで娘の前で本当に「幸せそうな顔」を見せてきただろうかと自問させた。答えは、あまり自信を持って肯定できるものではなかった。
洗い物を終えた明美は、リビングのソファに腰を下ろし、久しぶりに大学時代からの友人、恵子に電話をかけてみることにした。恵子は既婚者で、子育てもほぼ終えて、今は週に数回パートに出ながらのんびり暮らしている。愚痴を聞いてもらうにはちょうどいい相手だった。
「もしもし、明美? 珍しいじゃない、電話なんて」
「ごめんね、急に。ちょっと話したいことがあって」
「いいよ、何、由奈ちゃんのこと?」
「ううん、私のこと」
明美は今日あった由奈との会話をかいつまんで話した。恵子は電話の向こうで、面白そうに相槌を打っていた。
「由奈ちゃん、いい子に育ったねえ。それで、明美はどう思ってるの、正直なところ」
「どうって、別に。今更誰かと付き合うとか、想像もできないよ」
「またそれ。明美、離婚してからずっとそればっかり言ってるじゃない。もう十年以上経つんだよ」
恵子の指摘は、決して意地悪なものではなかった。むしろ長年の友人だからこそ言える、率直な言葉だった。だが、その率直さが、今夜の明美には少しだけ痛かった。
「分かってるよ、そんなこと。でも、今更どう変わればいいのか、私にはもう分からないの」
「変わらなくていいのよ。ただ、扉を完全に閉め切らないでおくくらいのことは、してもいいんじゃない? 誰かが偶然その扉をノックすることだって、この先ないとは限らないんだから」
恵子の言葉に、明美はふと三年前のことを思い出した。会社の同僚が、取引先の担当者を紹介したいと持ちかけてきたことがあった。誠実そうな人柄で、条件だけを見れば悪い話ではなかったはずだ。だが明美は、会う日程を決める段階になって、体調不良を理由に断ってしまった。本当は体調など何ともなかった。ただ、初対面の相手と向き合うことを想像しただけで、喉の奥が締めつけられるような息苦しさを感じ、逃げ出したくなったのだ。あれ以来、同僚もその話題には触れなくなり、明美自身も、自分にはもうそういう機会は必要ないのだと、自分に言い聞かせてきた。
「覚えてる? 三年前、会社の人に誰か紹介されそうになったとき、私、仮病使って断ったの」
「覚えてるよ。もったいないことしたね、って私、あのとき思った」
「今でも、ときどき考えるの。あのとき断らなかったら、今頃どうなってたのかなって。でも、結局分からないままなんだよね」
「分からないことを、ずっと抱えて生きてるんだね、明美は」
恵子の声に、からかうような響きはなかった。むしろ、長年の付き合いの中で滲み出た、深い労わりが感じられた。
「由奈ちゃんも、もう高校二年生でしょう。あと少しで、明美の人生は明美一人のものに戻っていくんだよ。そのとき、扉が固く閉まったままだったら、明美、寂しくない?」
「寂しいとか、そういう感覚すら、もう麻痺してるのかもしれない」
明美は正直にそう答えた。電話の向こうで、恵子が小さく息をつく音が聞こえた。
「まあ、無理に何かしろとは言わないよ。ただ、覚えておいて。扉は、明美が思ってるよりずっと、簡単に開けたり閉めたりできるものなんだから」
恵子の言葉は、まるで予言のようだった。もちろん、そのときの明美にはそんなことを知る由もなく、ただ「そうだね」と曖昧に答えて、電話を切った。
電話を終えたあと、明美はしばらくソファに座ったまま、暗くなった窓の外を眺めていた。由奈の部屋からは、勉強しているのか音楽を聴いているのか、かすかな物音が漏れてくる。この家の中に流れる時間は、これまでと何も変わらないはずだった。けれど、今夜だけは、その当たり前の時間の中に、小さな異物のようなものが紛れ込んだ気がしてならなかった。
その正体が何なのか、明美自身にもまだ分からなかった。ただ、由奈の何気ない問いと、恵子の率直な言葉が、長らく静止していた明美の心の水面に、確かに小さな波紋を残していた。
翌日の水曜日、明美はいつも通り出社し、山積みの通関書類に向き合っていた。同じ部署の後輩、村上が休憩室で缶コーヒーを片手に話しかけてきた。
「田中さん、最近なんか、ぼーっとしてる時ありますよね。大丈夫ですか」
「そう見える? ちょっと、家のことでいろいろ考え事してただけ」
「由奈ちゃん、何かあったんですか」
「ううん、由奈は元気。私自身のことで、ちょっとね」
村上は詮索することなく、「そうですか」とだけ言って、自分の席へ戻っていった。その気遣いのある距離感に、明美は救われる思いがした。だが同時に、誰にも本音を打ち明けられないまま、日々の業務をこなしていく自分自身の孤独にも、改めて気づかされた。
その日の昼休み、明美は久しぶりに一人でランチに出た。会社近くのカフェで注文したパスタを待つ間、スマートフォンで何気なく地元の情報サイトを眺めていると、横浜のイベント情報の中に、四十代・五十代向けの婚活パーティーの広告が目に入った。写真に写る参加者たちは皆、屈託のない笑顔を浮かべている。明美は数秒その広告を見つめたあと、画面をそっと閉じた。自分がああいう場所に足を運ぶ姿を、どうしても想像することができなかった。想像できないということ自体が、自分の心がどれほど固く閉ざされているかを物語っているようで、明美は小さくため息をついた。
木曜日の夜、由奈は珍しく夕食前に帰宅し、ダンス部の大会用の衣装を見せてくれた。鮮やかな青のワンピース型の衣装に身を包んだ由奈は、鏡の前でくるりと回ってみせる。
「どう? 似合ってる?」
「すごく似合ってる。本番、楽しみだね」
「緊張するけどね。今年のチーム、結構レベル高いから」
由奈はそう言いながら、スマートフォンで撮影した練習動画を再生してみせた。画面の中の由奈は、明美の知っている娘とは少し違う顔をしていた。真剣な眼差し、キレのある動き、そして何より、失敗を恐れずに全身で音楽に飛び込んでいく姿。明美はその動画を、何度も繰り返し見たいと思うほど見入ってしまった。
「由奈、こんな顔で踊ってるんだね。知らなかった」
「え、恥ずかしいからそんなに見ないで」
由奈は照れくさそうにスマートフォンを取り返したが、その頬は嬉しそうに緩んでいた。この子には、こんなにも夢中になれるものがある。明美はふと、自分にはそういうものが今、何ひとつないことに気づかされた。仕事は生活の手段であり、家事は義務であり、由奈の成長を見守ることは喜びであると同時に責任でもある。由奈のように、ただ純粋に、自分自身のために何かへ夢中になった記憶が、明美にはもう随分と遠いものになっていた。学生時代、油絵を習っていたことがあったのを、明美はふと思い出す。就職してから道具はとうに処分してしまったが、キャンバスに向かっていたときの、時間を忘れるほどの没頭感だけは、まだかすかに覚えていた。いつからだろう、自分の人生から「楽しみにすること」が消えてしまったのは。
金曜日の朝、明美はいつも通り由奈を送り出し、自分も身支度を整えて家を出た。玄関で靴を履きながら、由奈が「今日、バイト長いから晩ご飯いらないよ」と声をかけてくる。「気をつけてね」と返しながら、明美は娘の後ろ姿を見送った。
日吉駅のホームに立ち、東急東横線の電車を待ちながら、明美は空を見上げた。金曜の朝の空は、どこまでも青く澄んでいた。電車に揺られながら、明美は今週のことを振り返る。佐々木の言葉、由奈の問いかけ、恵子との電話、婚活パーティーの広告――どれもが偶然の断片に過ぎなかったはずなのに、並べてみると、まるで誰かが意図的に用意した道標のようにも見えてくる。むろん、そんな考えはすぐに打ち消した。考えすぎだ、と明美は自分に言い聞かせる。今日も今日とて、山積みの通関書類が待っているのだから。
この日の午後、自分の平穏な日常に、思いもよらない電話がかかってくることになるとは、この時の明美はまだ、何も知らなかった。ただ、由奈の何気ない問いと、恵子の率直な言葉が残した小さな波紋が、この先どれほど大きなうねりへと育っていくことになるのか――それを予感させるものは、この朝の空には何ひとつ見当たらなかった。




