第十章 新しいプレリュード
公園からの帰り道、二人は元町の石畳をゆっくりと歩いていた。先ほどまでの高揚感は、心地よい静けさへと変わり、二人の間を穏やかな空気が満たしていた。
これからどうなるのだろう。この関係を、何と呼べばいいのだろう。明美の心には、期待と不安が入り混じった感情が渦巻いていた。離婚を経験した人間にとって、新しい一歩を踏み出すことは、想像以上に勇気がいることだった。
そんな彼女の心を見透かしたかのように、佐藤が口を開いた。
「焦らず、ゆっくり行きましょうか」
それは問いかけであり、同時に誓いのような言葉だった。
「急いで結論を出したり、何かの形に当てはめたりしなくてもいい。僕たちには、僕たちのペースがあるはずです。由奈さんのペースも、大切にしながら」
その言葉に、明美は心がふっと軽くなるのを感じた。そうだ、私たちはもう若くない。未来を焦る必要も、誰かの期待に応える必要もない。ただ、目の前にあるこの温かい気持ちを、一つ一つ大切に育てていけばいい。
「…そうですね」
明美は微笑んで頷いた。
「ゆっくり、ですね」
二人は顔を見合わせ、穏やかに笑い合った。元町の洗練されたショーウィンドウの灯りが、二人を優しく照らす。道の先には、横浜中華街の賑やかなネオンが遠くに見えていた。
「どこかで、少し飲んでいきませんか?」
佐藤が尋ねる。
「ええ、ぜひ」
明美が答える。潮風が、二人の間を吹き抜けていく。それは、長い間止まっていた物語が、再び動き出すのを祝うかのような、優しい風だった。
中華街の外れにある、小さな居酒屋に入った二人は、温かい紹興酒を注文した。カウンター越しに湯気を立てる料理を眺めながら、佐藤がふと真剣な顔つきになった。
「田中さん、これから先のことなんですが」
「はい」
「由奈さんとの関係を、これ以上急かすつもりはありません。ですが、私自身は、田中さんと将来のことも含めて、真剣に向き合っていきたいと思っています。今すぐ答えを求めているわけではないので、心に留めておいてもらえたら嬉しいです」
その言葉の重みを、明美は静かに受け止めた。将来という言葉が、これほど現実的な響きを持って自分に向けられたのは、一体何年ぶりのことだろう。
「ありがとうございます。私も、同じ気持ちでいます。ただ、由奈のことを含めて、一つ一つ、丁寧に進めていきたいです」
「もちろんです。それが一番大切なことだと、私も思っています」
その夜、二人は遅くまで、これからのことについて、ぽつりぽつりと語り合った。急ぐ必要のない、穏やかな時間だった。帰りのタクシーの中、明美は窓の外を流れる夜の街並みを眺めながら、佐藤の言葉を何度も反芻していた。将来という、これまで自分の辞書から意図的に締め出してきた言葉が、今はこんなにも自然に、そして温かく、自分の胸に馴染んでいる。その変化に、明美自身が誰よりも驚いていた。玄関を開けると、部屋は静まり返っていた。由奈は今夜、友人の家に泊まっている。明美は今夜の出来事を、明日帰ってくる由奈にも、まだ話さないでおこうと決めた。焦らず、ゆっくりと。それが、これからの自分たちのやり方なのだから。
自室のベッドに横たわりながら、明美は天井を見上げ、この数ヶ月の出来事を、ゆっくりと振り返った。由奈が倒れたあの金曜日から始まった一連の出来事が、まさかここまで自分の人生を変えることになるとは、あの日の自分には想像もつかなかった。人生というのは、本当に、何が起こるか分からないものだと、明美は改めて思う。
かつて自分に固く課してきた「頼らない」という掟は、いつの間にか、少しずつ形を変えていた。誰かに頼ることは、決して弱さの証ではない。むしろ、心を開いて誰かと向き合うことにこそ、本当の強さが必要なのだと、この数ヶ月で明美は学んだ。由奈という娘を守り育てるために築き上げてきた強さと、佐藤という一人の男性と向き合うために必要な柔らかさ。その両方を、これからの自分は大切に抱えていけばいい。そう思いながら、明美はゆっくりと目を閉じた。
窓の外では、冬の澄んだ夜空に、いくつもの星が瞬いていた。潮風に運ばれてくる、かすかな海の匂いを感じながら、明美は久しぶりに、明日という日を心から楽しみに思いながら、深い眠りについた。
翌週の土曜日、由奈のダンス部の県大会が開催された。平日だった地区予選には仕事で行けなかったが、今回は週末の開催だ。明美は朝から会場へ向かった。客席の隅から見守る中、由奈のチームは、これまでで一番の演技を見せた。曲が終わり、観客席から大きな拍手が湧き上がった瞬間、明美は自然と涙ぐんでいた。
演技の間、由奈は何度も客席の方向に視線を送っていた。曲の合間、明美と目が合った瞬間、由奈の表情がふっと緩んだのを、明美は見逃さなかった。それは、これまでのどんな瞬間よりも、母娘の絆を確かに感じさせる一瞬だった。
結果発表の瞬間、会場全体が静まり返った。審査員が読み上げる順位に、由奈たちのチームメンバーは手を握り合いながら耳を澄ませていた。
結果は、県大会準優勝。全国大会には一歩届かなかったが、由奈たちのチームにとっては、部の歴代でも最高の成績だった。発表の瞬間、由奈たちは抱き合って喜び、そしてすぐに、悔しさの涙を流す子もいた。控え室から出てきた由奈は、汗だくの顔で、けれど晴れやかな笑顔を浮かべていた。
「お母さん、来てくれたんだ」
「もちろん。すごく良かったよ、由奈。本当に、感動した」
「ありがとう。悔しいけど、今の私たちにできる、最高の演技はできたと思う」
由奈の充実した表情を見ながら、明美は、この数ヶ月で娘がどれほど成長したかを、改めて実感していた。ダンスという一つのことに全力で向き合い、仲間と支え合い、悔しさも喜びも味わい尽くす。その経験の一つ一つが、由奈を確かな強さへと導いていた。
会場を出た帰り道、由奈がふと思い出したように言った。
「そういえば、佐藤さんとは、最近どうなの」
その問いかけには、以前のような硬さはなかった。むしろ、素直な好奇心から生まれた、屈託のない響きがあった。
「うん、変わらず、ゆっくりだけど、いい感じに続いてるよ」
「そっか。今度、一緒にご飯でも食べたいな。ちゃんと、由奈として、佐藤さんと話してみたい」
その申し出に、明美は驚きと喜びの両方を覚えた。
「本当に、いいの?」
「うん。この間、色々話したじゃん。それで、私の中でも、少し整理がついたというか。佐藤さんのこと、ちゃんと自分の目で確かめたいなって、思うようになったの」
由奈のその言葉には、あの夜の複雑な感情を経て辿り着いた、確かな成長が感じられた。母の幸せを願う気持ちと、自分自身の不安との間で揺れ動きながらも、由奈は自分なりのペースで、新しい現実と向き合おうとしていた。誰かに背中を押されたわけでも、無理に納得させられたわけでもない。由奈自身の中で、時間をかけて熟成された、確かな決意だった。その事実が、明美にとって何より嬉しかった。
「じゃあ、今度の週末にでも、三人で食事しようか。佐藤さんに聞いてみるね」
「うん、楽しみにしてる」
その夜、明美は早速佐藤にメッセージを送った。「今度、由奈と三人で食事でもどうですか。由奈が、佐藤さんとちゃんと話してみたいと言ってくれて」。返信はすぐに届いた。「もちろんです。とても嬉しいお誘いです。由奈さんに失礼のないよう、しっかり準備していきます」。その律儀な返信に、明美は思わず笑みがこぼれた。
当日、待ち合わせのレストランに向かう道すがら、由奈は少し緊張した面持ちで明美に尋ねた。
「ねえ、私、何を話せばいいと思う?」
「普段通りでいいよ。由奈らしく、正直に話せば、それで十分」
「分かった。頑張ってみる」
店に到着すると、佐藤はすでに席で待っていた。由奈の姿を見つけると、少し緊張した様子で立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
「由奈さん、今日は来ていただいてありがとうございます。改めて、佐藤悠一です」
「由奈です。よろしくお願いします」
最初こそぎこちない挨拶を交わした三人だったが、料理が運ばれてくる頃には、次第に空気が和らいでいった。由奈は佐藤に、ダンス部の大会のことや、学校生活のことを、次第に打ち解けた様子で話していった。
「佐藤さん、うちのお店でお会いした時、すごくてきぱき対応してくれましたよね。あの時、正直、こんなにちゃんとした人がいるんだって驚きました」
「照れますね。あの時は必死だっただけですよ」
「エリアマネージャーって、大変な仕事なんですか?」
「大変ですが、由奈さんのような真面目なスタッフに囲まれていると、頑張ろうと思えます」
そんな会話が続く中で、由奈はふと、真剣な表情になって尋ねた。
「佐藤さんは、お母さんのどんなところが好きなんですか」
その率直な質問に、明美は思わず箸を止めた。隣に座る明美の顔が、みるみる赤くなっていく。佐藤は少し考えてから、丁寧に答えた。
「田中さんは、誰よりも誠実で、責任感の強い方です。それでいて、由奈さんのことを心から大切に思っていて、その姿勢に、私自身、とても励まされています。あとは……由奈さんのお話をされている時の、あの柔らかい表情が、私はとても好きです」
その答えに、由奈は照れくさそうに、それでいて満足そうに頷いた。
「ふうん、まあまあ、いい答えだと思う」
「合格、いただけましたか」
「まだ様子見です。でも、及第点はあげます」
由奈の生意気な返しに、佐藤は声を出して笑った。その笑い声につられて、明美も由奈も笑い出し、三人の間の空気は、いよいよ和やかなものへと変わっていった。佐藤もまた、由奈の話に真剣に耳を傾け、時折鋭い質問を投げかけては、由奈を感心させていた。
食事の帰り道、由奈が明美にそっと耳打ちした。
「佐藤さん、思ってたより、全然堅苦しくない人だったね。もっと早く、ちゃんと話してみればよかった」
「そう思ってくれて、良かった」
「うん。お母さんが好きになった人が、ちゃんといい人で、安心した」
由奈のその一言に、明美は胸が熱くなるのを感じた。娘に認めてもらえたことが、これほど嬉しいことだとは思わなかった。
三人での食事の後、由奈は自室に戻ってから、真央にメッセージを送った。「佐藤さん、ちゃんと会ってみたら、思ってたよりずっといい人だった。ちょっと安心した」。すぐに返信が届いた。「良かったじゃん! 由奈のお母さんも、これで心置きなく幸せになれるね」。その言葉に、由奈は小さく微笑んだ。あの夜、真央に打ち明けた複雑な気持ちは、まだ完全に消えたわけではなかったが、少なくとも今は、母の幸せを、素直に喜べる自分がいた。
数週間後、佐藤から改めて、正式な交際の申し出があった。
「田中さん、由奈さんとの時間を経て、私はますます、田中さんと真剣に向き合っていきたいと思うようになりました。改めて、お付き合いしていただけないでしょうか」
その真摯な言葉に、明美は迷わず頷いた。
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
「田中さんと出会ってから、本当にたくさんのことを教えてもらいました。由奈さんとのことも含めて、一人の人間として、もう一度誰かと真剣に向き合うことの意味を、改めて学んだ気がします」
「私も、佐藤さんと出会って、閉じていた心の扉を、また開けることができました。それは、由奈と二人だけの生活の中では、決して得られなかったものだと思います」
二人はしばらくの間、手を握り合ったまま、静かに見つめ合っていた。この数ヶ月で積み重ねてきた時間の重みが、その沈黙の中に、確かに込められていた。
その返事を交わした夜、明美は由奈に、この決意を伝えた。由奈は少し照れくさそうに、けれど心からの笑顔で「おめでとう」と言ってくれた。
「これから、佐藤さんのこと、なんて呼べばいいかな」
由奈が冗談めかしてそう言うと、明美は笑いながら答えた。
「今のところは、佐藤さんのままでいいんじゃない。焦らず、ゆっくりでいいよ」
「うん、ゆっくり、だね」
由奈のその言葉は、いつか佐藤自身が口にした言葉と、不思議なほど重なっていた。焦らず、ゆっくりと。それは、明美と由奈、そして佐藤の三人が、これから紡いでいく新しい関係の、確かな合言葉となっていった。
年が明けて最初の週末、明美と佐藤、そして由奈の三人は、再び山下公園を訪れた。冬の澄んだ空気の中、潮風が、以前よりも柔らかく、二人と一人の間を吹き抜けていく。
「今年も、ここに来られて良かったです」
明美がそう言うと、由奈が横から口を挟んだ。
「お母さん、去年もここに来たんだっけ」
「うん。佐藤さんと初めてゆっくり散歩したのが、ここだったの」
「へえ、そうなんだ。じゃあ、ここが二人の始まりの場所ってことか」
由奈はそう言うと、少し離れたベンチに腰掛け、海を眺め始めた。その後ろ姿を見ながら、明美は改めて、この一年の変化の大きさを噛み締めていた。あの日曜の朝、静かな凪の海のような日常に満足していたはずの自分が、今はこうして、新しい風を受け入れ、前へと歩き出している。
「なんだか、去年の今頃は、こんな未来が来るなんて、想像もしていなかったですね」
明美がそう呟くと、佐藤は静かに頷いた。
「未来の出来事が、過去の意味を変えることがあるって、前にお話ししましたよね。今の私は、あの頃の孤独だった日々にも、ちゃんと意味があったんだと、心から思えます」
その言葉を聞きながら、少し離れた場所で海を眺めていた由奈が、二人を振り返って言った。
「二人とも、なんかいい雰囲気出してるところ悪いけど、お腹すいたから、そろそろご飯行かない?」
その屈託のない声に、明美と佐藤は思わず顔を見合わせて笑った。
「由奈は、本当にお腹が空いたら待てない子で」
「いいところだと思いますよ。素直で、正直で」
「もう、二人して何言ってるの。早く行こうよ」
由奈に急かされながら、三人は連れ立って公園の出口へと歩き始めた。冬の澄んだ空の下、三人の影が、仲良く並んで石畳の上を伸びていく。潮風が、二人の間を、そして三人の間を、優しく吹き抜けていく。これは終わりではない。ましてや結論でもない。これは、三人がそれぞれのペースで紡いでいく人生の、新しい章の始まりを告げる、ささやかで、しかし希望に満ちた、新しいプレリュードなのだ。




