第7話 忘れないための別れ
落ちたパンは、誰もすぐには拾えなかった。
工房の壁には、煤の下から現れた名前が残っている。
エレナ・フェン。
ミラはその文字を見つめたまま、指一本動かさなかった。
「母の名前よ」
やがて出た声は、驚くほど平らだった。
「同姓同名の可能性は?」
ノアが尋ねると、ミラの視線が鋭く向いた。
「母の名前は、この町に一人しかいなかった」
「職業はパン屋ではなかったのですか」
「パンを焼いていたわ。布も染めていたし、誰かに頼まれれば手紙も書いた。何でもやる人だったの」
ノアは削られた名簿へ目を戻した。
第七日勤務者名簿。
なぜ鍛冶工房に掛けられていたのか。
なぜ名前が削られたのか。
そして、ミラの母は第七日に何をしていたのか。
「この名簿を外します」
ノアが言うと、オルガが頷いた。
「壁ごとか?」
「できれば」
「簡単に言うな」
文句を言いながらも、オルガは細い鑿を手に取った。
そのとき、工房の外から少年が駆け込んできた。
「ミラ! ノアもいるか!」
宿屋の手伝いをしている少年だった。息を切らし、膝へ手をついている。
「どうしたの」
「セラ婆のところ! 死人を置いていかれた!」
「置いていかれた?」
ノアは聞取帳を鞄へ戻した。
名簿の調査は重要だ。
だが、今まさに困っている人がいるなら、後回しにするしかない。
ミラは一度だけ母の名前を振り返り、落ちた籠を拾った。
「行くわよ」
薬草店の裏庭には、荷車が一台止まっていた。
荷台には白い布をかけられた人が横たわっている。
その横で、二人の男が激しく言い争っていた。
「父さんは俺の家で死んだ。だから俺が送る!」
「世話をしたのは俺だ! 兄さんは都合のいいときだけ息子の顔をするな!」
「お前が変な薬を飲ませたから死んだんだろう!」
「やめな!」
セラが杖を石畳へ叩きつけた。
「死人の横で怒鳴るんじゃないよ!」
二人は口を閉じたが、互いを睨み合ったままだ。
亡くなったのは、町外れで羊を飼っていた老人だった。名をハロルという。
兄の家で暮らしていたが、具合を悪くしてからは薬草の扱いに慣れた弟が世話をしていた。
「いつ亡くなったのですか」
ノアが尋ねる。
兄が答えた。
「今朝だ」
弟はすぐに首を振った。
「夜だ。鐘が鳴る前だった」
「何度目の鐘ですか」
「六つ鐘のあとだよ」
「六つ鐘は昨日の夕方です。そこから朝までの間ということですね」
「そうだ」
「最後に生きていることを確認したのは?」
「俺が薬を飲ませたときだ。夜が深くなる前だった」
「その薬は、何回目の服用でしたか」
弟は黙り込んだ。
セラが顔をしかめる。
「三回飲ませるよう言った。朝っぽい頃、昼っぽい頃、夜っぽい頃にね」
「実際には?」
「分からない」
弟の声が小さくなる。
「寝たと思ったら起きて、外が暗いままだった。まだ夜だと思って、もう一度飲ませたかもしれない」
兄が弟の胸倉を掴んだ。
「やっぱりお前が!」
「放してください」
ノアは二人の間に入った。
「薬が死因だと決まったわけではありません」
「でも、飲ませすぎたかもしれない!」
「可能性と事実を分けます。セラさん、薬の量は?」
「眠りを助ける葉と、痛みを和らげる根だ。多く飲めば眠りは深くなるが、これだけで死ぬ量じゃない」
「持病は?」
「胸を患ってた。長くはないと、本人も知っていたよ」
ノアは白い布へ目を向けた。
日付がないせいで、薬を飲ませた回数が分からない。
亡くなった時刻も定められない。
その曖昧さが、残された兄弟の間に疑いを生んでいた。
「葬送は、いつ行う予定ですか」
兄弟はそろってノアを見た。
「決めてない」
兄が答える。
「墓掘りが来たらだ」
「墓掘りには連絡を?」
「さっき子どもを走らせた」
「いつ来るか分かりますか」
「穴を掘り終えたら」
この町には、葬送の日もなかった。
亡くなった者は、家族や近所の都合がついたときに埋葬される。
すぐに送られる者もいれば、何日も待つ者もいる。
待った日数さえ、誰にも分からない。
「父は、母さんの墓の隣に入りたがってた」
弟が呟いた。
「自分が死んだら、同じ日に送ってくれって」
「同じ日?」
ノアは聞き返した。
「母さんが死んだ日だよ」
「その日付は残っていますか」
二人は顔を見合わせた。
「分からない」
兄が額を押さえた。
「寒い頃だった。父さんは毎年、そろそろ母さんの日だって言ってた。でも、今年はもう言わなかった」
「墓石に刻印は?」
「名前だけだ」
ハロルは、妻と同じ日に葬られることを望んでいた。
だが、その日を誰も覚えていない。
願いは残っているのに、かなえるための日付がない。
ノアは弟へ尋ねた。
「お母様が亡くなったとき、何か一緒に埋めましたか」
「父さんが、羊の鈴を入れた」
「なぜです?」
「母さんが生まれた子羊に、最初の鈴をつける人だったから」
兄が何かを思い出したように顔を上げた。
「墓へ入れた鈴と同じものが、家にもう一つある。対で作ったって父さんが言ってた」
「見せてください」
鈴は、老人の家の戸棚から見つかった。
くすんだ銅製で、内側に小さな刻みがある。
羊の角を表す印。
その横に、六本の短い線と、一つの丸。
「ガスさんの窯印と似ています」
ノアは鈴を光へかざした。
ガスを呼んで確認すると、丸は満月を表す古い印だという。
「羊飼いは、冬前の満月に群れを小屋へ移した。そのとき生まれた子羊へ鈴をつけたんだ」
「母さんが死んだのも、その日だ」
兄が言った。
「群れを移し終えた夜だった。父さんが、あの人らしい日だって泣いてた」
出来事が一つ見つかった。
冬囲いを終えた満月の夜。
証人は兄弟と、当時鈴を作ったガス。
物的記録は、対で作られた羊鈴。
だが、それを現在の暦へ結びつけるには、年を特定しなければならない。
「何年前ですか」
「俺が成人する少し前だ」
兄が答える。
「俺は十二くらいだった」
弟が言う。
「年齢が正確ではありませんね」
「悪かったな」
「責めていません」
ノアは鈴の縁に、別の小さな傷を見つけた。
文字ではない。
三つの山と、一本の折れた線。
ガスが目を細める。
「北の橋が流された年だな」
「分かるんですか」
「橋がなくて銅が届かなかった。古い鍋を溶かして作った鈴には、その印を入れた」
北橋流失の年なら、王都暦局の災害記録に残っている。
ノアは携行していた地域記録から該当年を探した。
王暦六百十二年。
その年、冬囲いの時期に満月となった日は一度だけ。
眠り月六日。
「お母様が葬られた日は、その翌日だった可能性があります」
「なぜ翌日?」
「夜に亡くなり、墓を掘ってから送ったのであれば」
「父さんは、その日のうちだと言ってた」
弟が首を振る。
「母さんを一人にしたくないから、夜明けを待たずに埋めたって」
証言が食い違う。
ノアは鈴を握ったまま考えた。
亡くなった日と、葬られた日。
二つを同じにする必要はない。
「ハロルさんの望みは、奥様と同じ日に亡くなることではありません」
ノアは兄弟へ向き直った。
「同じ日に送られることです」
「でも、その日が分からない」
「日付そのものではなく、日を迎える条件なら残っています」
冬囲いを終えた満月。
それは毎年、町の羊飼いたちが共有できる日だ。
「今年の冬囲いは?」
「もう終わってる」
兄が答えた。
「満月は?」
セラが空を見上げる。
「今夜だよ」
偶然ではない。
ハロルは、おそらく数日前から月の満ち方を見ていた。
だから妻の日が近いと知り、その日まで生きようとしていたのかもしれない。
「今夜、葬送を行いましょう」
兄弟は同時に老人を見た。
「父さんは、間に合ったのか」
弟が尋ねる。
「亡くなった時刻は確定できません。ですが、望んだ日に送ることはできます」
ノアは記録札を用意した。
死そのものへ、確かでない日時を与えることはしない。
王暦六百二十六年、実り月末、第五日から第六日の夜半。
ハロル・ウェイ、永眠を確認。
同年、眠り月最初の満月の夜。
妻マリアと同じ葬送日として、家族および町民が見送る。
夕暮れまでに、町の人々が墓地へ集まった。
オルガたちが交代で墓を掘り、ガスは新しい鈴を一つ焼いた。
ミラは固い旅パンを焼いた。葬送に来た者へ配り、残った一つを墓へ供えるためだという。
兄弟は、父親の棺を並んで運んだ。
まだ互いに目を合わせようとはしない。
だが、弟が足を滑らせたとき、兄は無言で棺の重みを引き受けた。
満月が昇る。
セラが短い祈りを唱えた。
「生きた日を、すべて数えることはできない。けれど、ここにいたことを忘れない」
弟が対の羊鈴を棺へ入れた。
兄が土を一握りかける。
「母さんに、怒られるぞ」
「父さんなら喜ぶよ」
二人は、泣きながら笑った。
埋葬が終わると、ノアは記録札へ暦印を押した。
満月の光の下で、印は静かに定着した。
派手な音はしない。
時計塔の針も動かない。
ただ、墓前に置かれた二つの鈴が、風もないのに一度だけ鳴った。
帰り道、ミラが隣を歩いた。
「母にも、葬送の日があるのかしら」
「亡くなったと確認されているのですか」
「いいえ」
「なら、まだ葬送日は定められません」
「役人らしい答え」
「嘘の日付は、残せませんから」
ミラはしばらく黙り、それから小さく頷いた。
「それでいい」
町へ戻ると、オルガが工房の壁を外し終えていた。
第七日勤務者名簿は、板ではなかった。
薄い鉄板を、壁の内側へ隠すように埋め込んであったのだ。
裏面には、表よりも深く文字が刻まれている。
ノアが煤を落とす。
そこに並んでいたのは、勤務日数でも給金額でもなかった。
中央暦院へ送られた人々の名前と、移送先だった。
エレナ・フェンの横には、一行だけ残っている。
――第十三日、時計塔地下へ収容。




