第6話 六つ鐘の給金袋
朝から、鍛冶工房の前に十二人の男が並んでいた。
誰も働いてはいない。
炉には火が入り、赤く熱した鉄が金床の上に置かれている。それなのに槌を振るう音は一度も響かなかった。
「今日は給金を払う日だ」
列の先頭に立つ若い職人が言った。
「違う。払うのは次に荷を納めたあとだ」
工房主のオルガが腕を組む。
「前はそう言ってた!」
「前っていつだ」
「市場が開くより前だ!」
「市場が開いたのは昨日だろう。そんなに早く払えるか!」
「昨日だって決まったのも昨日からじゃないか!」
後ろの職人たちが口々に同意する。
ノアが工房へ着いたときには、熱せられた鉄の先が黒く冷え始めていた。
「火を止めてください」
彼が言うと、オルガの眉がつり上がった。
「給金まで役人に指図されるのか」
「鉄が無駄になります」
「それは分かってる!」
オルガは火鋏で鉄を炉へ戻したが、槌は取らなかった。
町に市場日ができたことで、昨日は多くの品が売れた。
鍋、包丁、蹄鉄、農具。
オルガの工房も、普段の数倍の売上があったらしい。
だから職人たちは、金があるうちに給金を払ってほしいと主張している。
一方のオルガは、炭と鉄材を買い足さなければ次の仕事ができないと言う。
「今まで、給金はどう決めていたんですか」
ノアは聞取帳を開いた。
「仕事が一段落したとき」
オルガが答える。
「一段落とは?」
「注文が片づいたときだ」
「その注文が増え続けたら?」
「払えるときに払う」
職人の一人が鼻を鳴らした。
「三回寝たあとに払うって言われて、もう十回は寝た」
「数えてたのか」
「曜日が戻ってから数えたんだよ! その前の分は知らねえ!」
怒鳴り声に、工房の隅で石炭を運んでいた少年が肩をすくめた。
リノと同じくらいの背丈だが、年はもう少し上だろう。手も顔も煤で黒くなっている。
「君も給金を?」
ノアが尋ねると、少年はオルガをうかがった。
「話していい」
許されてから、小さく答える。
「俺は飯をもらってる」
「現金は?」
「一人前になったら」
「一人前になる日は決まっていますか」
「オルガが決める」
「腕を見てな」
オルガは答えたが、少年は俯いた。
「前に、もう少しだって言われた」
「いつ?」
「分からない」
日付がない場所では、約束が延びても証明できない。
悪意がなくても同じだった。
オルガは職人を騙そうとしているわけではない。材料を確保し、工房を潰さず、全員へ食事を出してきた。
だが、誰がいつから働き、何日分の労働を積み重ねたのか、誰にも記録できていない。
「まず、過去の給金を正確に計算するのは困難です」
ノアが言うと、職人たちから不満が上がった。
「役人まで払わないって言うのか!」
「そうではありません。正確でないものを、正確だと偽れないという意味です」
「じゃあ、俺たちが我慢しろって?」
「いいえ。過去については、働いた期間を皆で推定し、合意できる額を定めます。これから先は、同じ問題を起こさない仕組みを作ります」
オルガが槌の柄を握った。
「昨日、儲かった分を全部配れと言われても困る」
「全部ではなく、配る分を先に決めます」
「材料が高くなったら?」
「売上の額ではなく、働いた日数と仕事で計算します」
「日数を誰が数える」
「本人と工房、両方です」
ノアは、パン屋で作った注文札を思い出していた。
一方だけが記録を持つと、紛失や改ざんを疑われる。
同じ記録を二つ作り、双方が保管すればいい。
「一日働くごとに、二枚一組の勤務札へ印を刻みます。一枚は職人、一枚は工房が持つ。六日目に照合し、給金を支払う」
「六日目?」
職人たちが顔を見合わせる。
「第五日は市場です。売上を確認し、材料費を分け、翌日の第六日に支払うのが現実的でしょう」
「七日目は?」
少年が聞いた。
その一言で、工房の空気が重くなった。
誰もまだ、失われた七日目をどう扱えばよいか分からない。
「七日目のことは、調査中です」
ノアはごまかさなかった。
「だからこそ、六日目までに約束を果たします」
オルガはしばらく考え、炉の火を見た。
「六日ごとに給金を払えば、手元の金が足りなくなる週もある」
「その場合は、支払えないと分かった時点で職人へ伝えてください」
「伝えたら、金が生えてくるのか」
「生えません。ですが、知らされずに待たされるのと、事情を知って相談するのは違います」
先頭の職人が腕を組んだ。
「相談して、俺たちが待つって決めたら?」
「その期限も札に残します」
「また札か」
「口約束だけで揉めているのですから」
職人たちの何人かが笑った。
オルガは笑わなかった。
けれど、反対もしなかった。
「過去の分はどうする」
「帳簿になるものを探します」
「帳簿なんてないぞ」
「納品記録、炭の使用量、食事の回数、何でも構いません」
ノアたちは工房の中を調べた。
鉄材の受取札。
炭袋の焼き印。
完成した品物を壁へ掛ける釘の跡。
職人たちにも、一人ずつ話を聞いた。
誰が、どの仕事をしたか。
何度、炉を空にしたか。
市場へ品物を運んだ回数。
証言は食い違った。
先頭の職人は十二日働いたと言い、オルガは九日だと思うと言った。別の者は途中で二日休んだことを忘れていた。
少年については、さらに曖昧だった。
「いつからここに?」
「雪が降る前」
「どの雪ですか」
「去年……じゃない。前の冬かな」
少年は自信をなくしていく。
オルガが助け舟を出した。
「南の炭焼き小屋が潰れたあとだ。こいつの親父が怪我して、うちで預かった」
「炭焼き小屋が潰れた記録は?」
「梁を直した大工なら覚えてる」
大工の証言と、炭袋に残された仕入れ印を照合すると、少年が工房へ来てから少なくとも五十六回、炭の搬入があったことが分かった。
一度の搬入は、おおむね六日に一度。
「およそ一年です」
ノアが告げると、少年は目を見開いた。
「そんなに?」
「誤差はあります。ですが、数十日ではありません」
オルガの顔が強張った。
「私は、半年くらいだと思ってた」
「日付を失った出来事は、短く感じることがあります」
「忘れてたわけじゃない」
「ええ。毎日、食事を出して、仕事を教えていた。それは証言でも確認できました」
ノアは責めなかった。
責めれば簡単だった。
しかし暦のない町では、誠実な者でさえ約束を見失う。
少年が恐る恐る尋ねた。
「一年働いたら、一人前?」
オルガはすぐに答えられなかった。
工房の壁には、少年が打った小さな釘が並んでいる。
最初のものは曲がり、頭が潰れていた。
新しいものほど形が揃っている。
「これを打ったのは、お前か」
「うん」
「市場へ出した箱留めの釘も?」
「俺が作った」
昨日、その釘で留めた木箱が三つ売れていた。
オルガは一本を手に取り、指先で転がした。
「一人前には、まだ足りない」
少年の肩が落ちる。
「でも、見習いのまま飯だけってのは終わりだ」
オルガは顔を上げた。
「次の六日目から、半人前の給金を出す。釘と留め金の売上には、お前の取り分もつける」
「本当?」
「札に書かせるんだろ、役人」
「双方が合意するなら」
ノアは新しい勤務札を二枚作った。
少年の名はカイ。
これまで姓を使う機会がなかったらしく、名だけを刻んだ。
第一日から第六日まで、六つの小さな枠。
働いた日は槌の印。
休んだ日は空欄。
特別な品を仕上げた日は、品物の印も添える。
「給金を受け取ったら?」
カイが尋ねる。
「二枚を重ねて、支払済みの穴を開けます」
オルガが細い釘を熱し、二枚の札へ同時に穴を開けた。
焦げた木の匂いが立つ。
「まだ払ってないぞ」
「最初の一組は、今日までの合意分だ」
オルガは市場の売上を入れた革袋から硬貨を出した。
職人たちと相談し、鉄材を買う分を残す。
過去の仕事について、全員が完全に満足する額ではなかった。
それでも、一人ずつ自分の勤務札と照らし合わせ、納得できるところまで話し合った。
最後にカイの番が来た。
オルガは小さな布袋を渡す。
中で硬貨が三枚、軽い音を立てた。
「少ないけど、最初の給金だ」
カイは受け取った袋を両手で包んだ。
「使っていいの?」
「お前の金だ」
「飯代は?」
「それは今まで通り工房持ち。貯めてもいいし、何か買ってもいい」
カイはしばらく袋を見つめ、それから工房を飛び出した。
どこへ行ったのかと思えば、少しして戻ってきた。
手には、昨日の市場で売れ残った赤い果実が一つ。
「みんなで食べる」
「三枚ももらって、それだけか?」
「初めて自分で買ったから」
果実は小さく切り分けられた。
十二人と、オルガと、ノア。
一人分は指先ほどしかない。
それでもカイは、一切れずつ得意そうに配った。
「給金の日の味だ」
酸っぱさに、工房中で顔をしかめる。
そのあと、誰かが笑った。
炉には再び鉄が入れられた。
槌の音が一つ響き、続いて別の槌が応える。
止まっていた仕事が動き始めた。
夕方、六つの鐘が町へ鳴り渡った。
工房の前には、穴を開けた勤務札が一列に吊るされている。
これから六日目が来るたび、町のどこかで誰かが働いた日数を確かめ、約束された金を受け取る。
ノアがその様子を書き留めていると、チクタが勤務札の列を走り、最後の空いた釘の前で止まった。
「どうしました」
そこには、誰の札もない。
だが壁には、古い煤の跡が四角く残っていた。
以前、何か大きな板が掛けられていた形だ。
オルガが目を細める。
「そんな跡、あったか?」
ノアが布で煤を拭うと、壁へ直接刻まれた文字が現れた。
――第七日勤務者名簿。
その下には、何人もの名前が並んでいる。
どれも刃物で削られていた。
ただ一つ。
最後の名だけが、辛うじて読めた。
エレナ・フェン。
工房の入口で、その名を見たミラが、手にしていたパン籠を落とした。




