第5話 市場を開く日
東門を叩く音は、三度で止まった。
広場から集まってきた人々は、誰も閂へ手を伸ばそうとしない。
「開けないの?」
リノが尋ねると、門番の男は首を横に振った。
「古い決まりだ。七つ目の日には、東門を開けるなって」
「今日は五つ鐘の日です」
ノアが言った。
「昨日が四つだった。なら今日は五つだろう」
「理屈ではな」
門番は錆びた兜の縁を指でこすった。
「だが、七つ目の日がなくなってから、誰も本当の順番なんて知らなかった。門を叩かれた日に開けていいかどうか、俺には決められん」
「今まではどうしていたんですか」
「叩く音が聞こえなくなるまで待った」
「旅人がいたら?」
「西門へ回る」
「知らせる方法は?」
「ない」
ノアは閉じた門を見上げた。
木板には無数の傷が残っている。風雨によるものだけではない。外から何度も叩かれ、削られた跡だ。
曜日を失った町は、危険な日だけでなく、安全な日まで見分けられなくなっていた。
再び、門が叩かれた。
今度は弱く、二度。
「頼む! 荷が腐る!」
扉越しに男の声がした。
「行商人だ!」
門番が怒鳴り返す。
「西へ回れ!」
「橋が落ちてる! 馬車じゃ渡れん!」
ミラが顔をしかめた。
「昨日の雨ね。上流の橋、また壊れたんだわ」
「何を運んでいる!」
ノアが門へ近づいて尋ねた。
「南からの果実と塩魚だ! それから布! 正規の通行証もある!」
「同行者は!」
「俺と御者だけだ! 護衛はいない!」
ノアは門番へ向き直った。
「見張り台から確認できますか」
「できるが、開けるのは別だぞ」
「まず、証言と現物を確かめます」
見張り台へ上ると、門の外には一台の荷馬車が止まっていた。
男が一人、手を振っている。御者らしき老人は馬の手綱を握り、荷台には布をかけた木箱が積まれていた。
武器を隠している様子はない。
オルガが隣で目を細める。
「二人だけだな。森に仲間が隠れているようにも見えん」
「門を少しだけ開け、本人と通行証を確認しましょう」
門番は渋った。
「何かあったら、お前が責任を取るのか」
「判断の記録は私が残します」
「記録で怪我が治るか」
「治りません。だから、あなたとオルガさんにも判断してもらいたい」
「俺にも?」
「門を守ってきた人の経験が必要です」
門番はしばらくノアを見た。
役人が命令すると思っていたのだろう。
やがて小さく息を吐き、細い通用口の閂を外した。
行商人は、荷台へ入る前に通行証だけを差し出した。
名前はジーク。
南方の三つの町を巡回する登録商人で、通行証には各地の市場印が押されていた。
最後の印は、六日前。
「エルデへ来る予定日は?」
ノアが尋ねた。
「実り月の終わり、北巡りの三番目だ」
「曜日では?」
「この辺りへ来たら曜日は数えるなって、昔から言われてる」
「誰に?」
「商人組合だよ。エルデ周辺じゃ、帳面の日付と現地の話が合わなくなる。下手に書くと荷の仕入れ日まで疑われる」
ジークは荷台の木箱を開けた。
赤い小粒の果実が詰められている。そのいくつかは皮が柔らかくなり始めていた。
「本当なら昨日には売り始めるつもりだった。だが西橋が落ちて、東門は開かない。ここで駄目なら全部捨てることになる」
リノが木箱をのぞき込む。
「これ、甘い?」
「少し酸っぱい。砂糖で煮るとうまいぞ」
ミラの目が果実から離れない。
「ジャムにできるわね」
「塩魚もある」
「それはパン屋では使わない」
「薄く切って挟むとうまい」
「高いでしょう」
商人とパン屋の顔になった二人が、すぐに値段の話を始める。
だが門番はまだ通用口の前から動かなかった。
「荷を入れたとして、どこで売る」
今の市場広場は、町の者だけでも場所取りの争いが起きる。
開催日が決まっていないため、野菜売りも陶工も、品物が用意できた日に勝手に屋台を出す。その結果、広場が混み合う日と、誰もいない日ができていた。
「古い市場跡を使いましょう」
ノアが言うと、ミラが振り向いた。
「あそこには、門を開けるなって書いてあったでしょう」
「第七日に、です。今日は第五日です」
「本当に?」
「復元した曜日が正しければ」
「間違ってたら?」
ノアは答える前に、肩のチクタを見た。
チクタの背中の模様は、今は灰色になっていない。小さな鼻を動かし、果実の匂いに夢中になっている。
「少なくとも、暦獣は異常を示していません」
「その子に町の門を任せるの?」
「それだけではありません」
ノアはジークの通行証を開いた。
市場印の日付、旅程、橋が落ちた時刻。御者と門番の証言。荷の傷み具合。
どれも、今日が復元された第五日であることと矛盾しない。
「開門に絶対の安全はありません。ですが、古い警告が示しているのは七つ目の日です。危険だから毎日閉じるのでは、門がある意味を失います」
門番は東門の分厚い板へ手を置いた。
「俺の親父も、この門を守っていた」
「七つ目の日のことを、何か聞いていませんか」
「聞いても、答えなかった。開けるな、それだけだ」
「では、その警告は守ります。第七日が来るまでは」
「来るのか?」
「来させます」
ノアが言うと、門番は苦い顔で笑った。
「役人ってのは、恐ろしいことを静かに言うな」
東門が開いた。
重い蝶番が軋み、細い光が町の石畳へ伸びる。
ジークの荷馬車が中へ入ると、広場に集まっていた子どもたちが歓声を上げた。
見たことのない果実。
鮮やかな布。
南の町で作られた木の玩具。
荷台の周りには、たちまち人だかりができた。
「押さないで!」
ミラが声を張る。
「買うなら並ぶ! 値段を聞くだけの人は後ろ!」
「どこが先頭だ!」
「俺が先にいた!」
昨日作った注文札だけでは足りない。
誰が、いつ、どの場所で売るのか。
市場そのものの日付を定めなければ、同じ争いが繰り返される。
ノアは旧市場跡の石台へ上った。
「皆さん、今日は臨時の市を開きます」
「臨時って何だ?」
「今日だけ、という意味です」
「明日は?」
「明日は開きません」
不満の声が上がった。
「せっかく商人が来たんだぞ」
「毎日売らせろ」
ジークが慌てて手を振った。
「俺にも次の町がある! ここに住む気はないぞ!」
笑いが起こり、空気が少し緩んだ。
「今後、外からの商人を呼ぶ日を決めます」
ノアは続けた。
「七日のうち、一日を市場日とする。町の職人や農家も、その日に合わせて品物を用意する。門番は来訪者を見込んで配置を増やす。宿は部屋を空け、パン屋は仕込みを増やす」
「何日目にする?」
野菜売りの老女が尋ねる。
ミラが即座に答えた。
「五日目がいい。七日目がどうなるか分からないなら、その前に片づけられる」
「窯出しは四日目が多い」
ガスが言う。
「五日目なら陶器も並べられるな」
「薬草は朝に摘める」
セラも頷く。
「五日目の市場に賛成だよ」
反対意見もあった。
「収穫が間に合わない週はどうする」
「雨なら?」
「場所代を取るのか」
ノアは一つずつ聞き取った。
収穫できない者は休んでよい。
雨の日は現在の広場へ移す。
場所代は当面取らず、区画だけを木札で割り振る。
決めたのはノアではない。
町の者たちが、自分の仕事を持ち寄って決めた。
最後に、石台の古い金属板へ新しい記録札を添える。
辺境都市エルデは、第五日を市場日と定める。
町民および来訪商人は、同じ日を共有する。
ノアが暦印を押すと、札の文字が淡く光った。
市場に集まった人々の声が、印を支えるように重なる。
「五日目にまた来いよ!」
「橋が直ったらな!」
「果実、次はもっと持ってきて!」
暦印は消えなかった。
「成立です」
その言葉を聞くより先に、リノが果実を一つ受け取っていた。
「代金は?」
ノアが尋ねる。
「市場を開いたお礼だって」
「仕事への贈り物は慎重に――」
「私が開いたんじゃないよ。町のみんな」
リノは果実を半分に割り、片方をチクタへ差し出した。
チクタは抱えるように受け取り、夢中でかじり始める。
その日の夕方、ミラの店には赤い果実を煮る甘酸っぱい匂いが満ちた。
試しに作ったジャムを丸パンへ塗り、リノが店の前で配る。
「市場の日のパン!」
子どもたちが列を作り、大人たちも知らない顔をして後ろへ並んだ。
ノアも一つ受け取り、店先の椅子へ腰を下ろした。
「どう?」
ミラが尋ねる。
「少し酸っぱいです」
「甘いものに慣れすぎなのよ、王都の人は」
「ですが、パンには合います」
「最初からそう言いなさい」
ミラの口元には、ほんの少し笑みがあった。
日が落ちる前、ジークがノアへ一枚の紙を差し出した。
「そうだ。通行証を更新したとき、エルデへ行くなら渡せと言われた」
「誰にですか」
「中央暦院の出張所だ」
紙には、中央暦院の印章が押されていた。
宛名はない。
ただ、エルデについての短い注意書きが記されている。
――当該地域において、地方暦の新設および復元を認めない。
――暦務官が着任した場合、その氏名と行動を報告すること。
ノアは紙を持ったまま、顔を上げた。
「これを、いつ受け取りました」
「六日前だ」
ジークは不思議そうに眉を上げる。
「あんたが町へ着くより、前だったと思うぞ」




