第4話 明日を予約する方法
翌朝、パン屋の前には、同じ客が三人並んでいた。
「私が先よ」
「いや、俺は昨日の夕方に頼んだ」
「昨日って、鐘が四つ鳴る前? 鳴ったあと?」
「そんなの覚えてるか!」
ミラは焼き上がったパンを両手に持ったまま、深く息を吸った。
「全員、黙って」
三人が口を閉じる。
「注文を受けたのは私。覚えていないのも私。だから今日の分は、一人一個ずつ」
「二個頼んだんだけど」
「文句があるなら、次から札に書いて持ってきなさい」
「字が書けない」
「じゃあ、ノアに習って」
店の隅で朝食を取っていたノアは、パンを喉につまらせかけた。
「私の仕事を増やさないでください」
「町に明日を戻すのが、暦務官の仕事でしょう」
「昨日、曜日を定めたばかりです」
「だから困ってるのよ」
ミラは空になった籠を台へ置いた。
「鐘が四つ鳴ったあと、皆が『明日は五つ鳴る日だ』って分かったでしょう。それで急に、明日の注文が増えたの」
「よい変化では?」
「受ける側の準備がなければ災害よ」
店内を見れば、確かに粉袋はほとんど空だった。
薪も残り少ない。普段の二倍焼いたらしく、ミラの前掛けにはいつも以上に粉がつき、目の下には薄い隈がある。
曜日が戻れば、先の予定を立てられる。
だが、予定を立てる方法までは戻っていない。
「注文札を作りましょう」
ノアが言うと、客の一人が顔をしかめた。
「だから字が書けないって」
「文字でなくても構いません」
ノアは聞取帳の余白に、丸を一つ描いた。
「丸一つでパン一個。二つなら二個。受け取る日は、鐘の数を線で示します」
丸の横へ、縦線を五本引く。
「これで、五つ鐘の日にパン一個」
「魚なら?」
「魚の絵を」
「絵も下手だぞ」
「では、店ごとに印を決めます」
ミラが腕を組んだ。
「うちの印は?」
リノが厨房から顔を出した。
「丸いパン!」
「丸だけだと数と紛らわしいですね」
「じゃあ、丸に切れ目」
リノは粉をつけた指で台の上へ円を描き、上に三本の線を入れた。焼く前のパンに入れる切れ目らしい。
「悪くありません」
「私が決めた!」
リノは胸を張った。
ノアは木片を何枚か用意し、一枚ずつ印を刻んだ。
片面にはパン屋の印。
裏面には、受取日の鐘数と個数。
ミラが注文を受けたら客へ一枚渡し、同じ内容の札を店側にも残す。一組の札がそろえば、言った言わないの争いを減らせる。
「役人って、木札まで作るのね」
ミラが言った。
「暦局では紙を使います」
「紙なんて高くて、パンの予約に使えないわ」
「だから木札です」
オルガに頼めば、廃材を薄く割ってくれるだろう。焼き印ならガスが作れる。
一人で完成させる必要はない。
ノアが仕組みを説明すると、先ほどまで争っていた三人は、思った以上に素直に札を受け取った。
「じゃあ、五つ鐘に二個」
「私は六つ鐘に一個」
「七つ鐘は?」
最後の客が尋ねた瞬間、店内が静かになった。
ノアの肩で眠っていたチクタが、目を開いた。
背中の砂時計模様の片側が、昨日と同じように灰色へ沈む。
「七つ鐘の日は……」
ミラが言葉を濁した。
「どうしたんですか」
「知らない」
「曜日は七日で一巡します」
「昨日、そう決めたんでしょう」
「新しく決めたのではなく、過去の曜日を復元しました」
「でも、この町じゃ六つまでしか数えない」
客の一人が言った。
「六つ鐘の次は、一つ鐘だ」
「昔からですか」
「昔っていつだ?」
また、そこへ戻る。
ノアは注文札を置いた。
「昨日の曜日盤には、七つの溝がありました」
「だったら昔は七日あったんじゃない?」
リノが首を傾げる。
「そう考えるのが自然です」
「なくなった日は、どこへ行ったの?」
「日そのものが消えたわけではありません」
ノアは慎重に答えた。
「町の人が、その日を数えなくなったのでしょう」
「みんなで忘れたの?」
「あるいは、忘れさせられた」
ミラの手が止まった。
リノも口を閉じる。
日付を失った出来事は、人々の記憶から少しずつ薄れる。
暦術を学ぶ者なら誰でも知る基本則だった。
逆に言えば、特定の日に起きた出来事を消したい者がいれば、日付と記録を奪うだけでよい。
出来事そのものは残る。
傷も、損失も、悲しみも残る。
ただ、いつ起きたかを語れなくなり、やがて誰も正しく思い出せなくなる。
「町で、七という数を避ける習慣はありますか」
ノアが尋ねると、ミラは眉を寄せた。
「別に。パンも七個売るし、七人家族もいる」
「七日目だけがない」
「そうみたいね」
「昔の帳簿や祭りの記録に、七日目を示す印が残っているかもしれません」
「また古い紙探し?」
「紙とは限りません」
ノアは店の奥を見た。
壁際に、粉袋を数えるための木板がある。六本の溝ごとに横線が引かれ、その次は新しい段へ移っていた。
「これも六つで区切っていますね」
「粉を六袋使ったら、新しい山として数えるの」
「なぜ六つ?」
「母がそうしてたから」
「お母様も?」
ミラは木板へ触れた。
「私が子どもの頃からよ」
「リノが見つかるより前ですね」
「ずっと前」
ノアは木板の端に、不自然な削り跡を見つけた。
六本目の溝の隣。
本来ならもう一本刻めそうな場所だけが、刃物で深く削られている。
「これは」
「傷でしょう」
「同じ傷が、他の店にもあるかもしれません」
午前の仕事を終えると、ノアたちは町を歩いた。
粉屋の荷台。
薬草店の棚札。
鍛冶屋の納品板。
宿の部屋鍵。
どれも六つで一組になっていた。
そして、七つ目があったはずの場所には、削り跡や埋め跡が残っている。
「偶然ではありません」
ノアは鍛冶屋の納品板を撫でた。
オルガが隣で腕を組む。
「誰かが町中の七つ目を消したってことか?」
「一度にではないかもしれません。最初に決まりを変え、その後、皆が六日で数えるようになった可能性もあります」
「誰がそんな面倒なことをする」
「分かりません」
「中央の役人じゃないの?」
ミラが冷たく言った。
「中央が関わった証拠はありません」
「中央を庇うの?」
「証拠のない話を事実にしないだけです」
「その証拠が消されてるんでしょう」
「だから探しています」
二人の視線がぶつかった。
リノが二人の間に入り、両手を広げた。
「けんかするなら、札に書いて」
オルガが吹き出した。
ミラは口元を押さえ、ノアも眼鏡の位置を直して視線を逸らす。
「喧嘩ではありません」
「ミラ、怒ってるよ」
「いつもの顔よ」
「いつも怒ってるの?」
「リノ、パンの仕込みに戻るわよ」
ミラは少女の肩を押し、さっさと歩き出した。
その背中を、チクタがノアの肩からじっと見つめている。
やがて小さく鳴き、時計塔とは反対の方角へ顔を向けた。
「何かあるのか」
ノアが歩き出すと、チクタは耳を前へ倒した。
町の東側。
今は使われていない古い市場跡だった。
石畳の上には雑草が生え、屋台の柱だけが何本か残っている。中央には、錆びた金具のついた石台があった。
「ここ、昔の市場だよ」
ついてきたリノが言った。
「今の広場ができる前の?」
「ガス爺がそう言ってた」
チクタはノアの肩から飛び降り、石台の周囲を回った。
鼻先で土を掘り、小さな前足を真っ黒にする。
「チクタ、汚れるよ」
リノもしゃがみ、素手で土をかき出した。
やがて、石台の下から緑青に覆われた金属板が現れた。
ノアとオルガで引き抜く。
それは、市場の開催日を告げる古い掲示板だった。
上部には六つの市場印が並んでいる。
しかし右端には、明らかにもう一つ、削り落とされた痕があった。
オルガが布で土を拭う。
「文字が残ってるぞ」
削り跡の下から、かすかな刻印が浮かんだ。
――第七日は、市を閉じる。
その下には、さらに一行。
――門を開けてはならない。
ノアは指先で文字をなぞった。
休日の告知ではない。
警告だった。
リノが小さな声で尋ねる。
「七つ鐘の日に、何が来たの?」
チクタは答えるように、町の東門を見た。
閉ざされた門の外側から、三度。
誰かが扉を叩いた。




